世界史

「波乱に富んだ美しい物語であった」詩人アンデルセンの生涯とは?

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『絵のない絵本』や『即興詩人』や『人魚姫』、『みにくいあひるの子』などの童話などで知られるデンマークの詩人ハンス・クリスチャン・アンデルセン。
彼の自伝『私の生涯の物語』(Das M?rchen meines Lebens)は「私の生涯は波乱に富んだ幸福な一生であった。それはさながら一編の美しい物語である。」(大畑末吉訳)という言葉ではじまります。自ら「美しい物語」と形容するアンデルセンの人生とはどのよう一生だったのでしょうか。そして、アンデルセンとはどのような人物だったのでしょうか。

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オーデンセの幼少時代

ハンス・クリスチャン・アンデルセンは1805年、オーデンセの貧しい靴職人の家庭に産声を上げました。
オーデンセは、ユトランド半島ではなくて、その東のフュン島にある静かな都市でした。ハンスの父は、豊かな百姓の家に生まれましたが、家畜の死や火事などの不幸が重なり、オーデンセの町へ移ってきたのでした。
この父は普段は物静かな人でしたが、折に触れてホルベルの劇や『千夜一夜物語』をハンスに読み聞かせました。しかし、ハンスが11歳の時に、従軍によって体を壊して亡くなってしまいました。ハンスの母は夫より年上で、愛情深い母親としてハンスの自伝に書かれています。
ハンスは両親と祖母の愛情を受けて育ち、ひとりで空想することを好む想像力豊かな男の子に育ちます。また、信心深い母親の影響をうけて、ハンスも信心深く、また迷信深い性格でした。
ハンスは早くから脚本を書き始めますが、一つ面白いエピソードがあります。彼が2作目に取り掛かっている時のことです。彼はその劇に王様を登場させようと企んだのですが、王様がどのような口調で話すのか、ハンスは検討がつきません。そこで、ハンスは周りの大人の意見を聞いて、王様はきっと外国の言葉を話すのだと考えます。
そうしてハンスは、英語、ドイツ語、フランス語をごちゃごちゃに交えて話す王様を生み出します。この変な王様に少年ハンスは大満足だったようです。
このように、劇に熱中していたハンスは、同時に美しい声を持っていました。そして14歳の時、ハンスは、歌手になるため、コペンハーゲン行きを決心します。

コペンハーゲンでの苦労と苦学

母と別れ、コペンハーゲンに着いたハンスですが、苦難の連続が待ち受けていました。
劇場に雇ってもらえず、王立音楽校で声楽のレッスンを受けるも、声を潰してしまいます。書いた脚本も突っぱねられてしまいます。しかし、劇場の支配人ヨナス・コリンは、ハンスの面倒をみてくれ、コリンの助力によってハンスはスラゲルセの学校に入学します。苦学を重ね、成績はぐんぐん伸びたハンスでしたが、創作をばかにされるなど校長先生にいじめに遭います。
やがてコペンハーゲンに戻り、大学に入学したハンスは『ホルメン運河からアマゲル島東端までの徒歩旅行』や『ニコライ塔の恋人』で一定の成功を収めます。

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旅と失恋

1830年の夏、ハンスはユトランドへ旅に出ます。
ここで二十歳にも満たない少女リーボルに出会い、恋に落ちます。ラブレターを書き、彼女に渡しますが、返事はNO。リーボルには婚約者がいたのです。失意のハンスはドイツに旅立ち、シャミッソーといった文化人との交流を深めます。
ドイツから帰るも作品への非難・不評は続きます。このとき落ち込むハンスを慰めてくれたのが、ルイゼ・コリンでした。ルイゼに恋心を抱くハンスですが、この恋も成就しません。ルイゼが婚約したのです。

4. イタリア旅行と『即興詩人』

失恋したハンスは奨励金を得てまたも旅に出ます。
今度は、ドイツ、フランス、スイスを經由したイタリア旅行です。ハンスはスイスで古いデンマークの民謡に取材した、『アグネーテと人魚』を完成させ、ローマでも新しい小説に取り掛かります。ナポリで出会った盲目の少女を登場させたこの小説は、1835年、ハンス30歳の時にコペンハーゲンで完成し、『即興詩人』の名で出版されました。『即興詩人』は瞬く間に人気を博し、すぐさまヨーロッパ各地で翻訳され、アンデルセンの文名を一躍高めました。また『即興詩人』と同じ時期に、アンデルセンの名前を後代に残すことになる、童話のジャンルにも着手しました。
1838年、文化人に与えられる年金の給付も取り付けたアンデルセンは、生活面での心配もなくなり、童話を書き続けました。アンデルセンの生涯を特徴付ける旅も数多く行い、イギリスではディケンズに会い、フランスではヴィクトル・ユゴー、アレクサンドル・デュマ、ドイツでは、フランツ・リスト、ロベルト・シューマン、グリム兄弟といったように、ヨーロッパ各地で著名な文化人との交流を深めました。

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5. 国民的作家として

40歳を過ぎる頃にはデンマークの国民的作家として、国民の敬愛を受けるようになりました。国王からは称号を与えられ、晩年まで旅を続け、パリの万国博覧会にも足を運んでいます。
1875年にアンデルセンは生涯を閉じます。
アンデルセンは死の直前、自身の葬式のための音楽について「わたしの葬列に参加するのは子供たちばかりだろうから、音楽のリズムが子供たちの小さな歩みに合うようにしてくれ」と言ったと伝えられています。

「いざイタリアへ!」イタリアを旅するゲーテ、リスト、アンデルセンの系譜を読み解く!

 昨今、「聖地巡礼」という言葉の意味はすっかり様変わりし、アニメに登場するロケ地を巡ることを意味するようになりました。

本来、「聖地巡礼」とは宗教上重要な地を自らの足で踏むことを意味し、したがってその目的地はキリスト教、イスラム教、仏教、宗教ごとにそれぞれ異なる場所でした。
その数ある巡礼地のなかでも多くの巡礼者を引きつけた土地が、地中海に浮かぶブーツ(?)、イタリアでありました。

ローマの教皇庁や趣向を凝らした建築のみならず、火山灰に埋もれるポンペイや、アッシジのフランチェスコらの聖人伝説、アルベルティ、ラファエロ、ダ・ヴィンチらの歴史的、文化的史跡に満ち溢れたイタリアには古来、多くの芸術家たちが訪れ、イタリアで得たインスピレーションを作品に結晶させました。

イタリアに魅せられ、イタリアを自らの血肉の一部にし、イタリアの豊かな精神的土壌から、傑作を生み出すに至った芸術家たちを紹介します。

ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ 『イタリア紀行』

 あたかも古典主義を体現するかのような存在であるゲーテが、古典文化のふるさとイタリアに対して特別な感情を抱いていたとしても不思議ではありません。

1786年、37歳になったゲーテはイタリアへ旅立ちます。当時すでにゲーテ『若きウェルテルの悩み』で一躍国民的作家となり、公職者としても着実に仕事をこなす、まさに八面六臂の活躍を見せていました。古典の息づくイタリアへの旅行は、多忙な日々からしばし離れ、インスピレーションの糧を得るための文豪の小休止だったのかもしれません。イタリアでのゲーテの興味は歴史的、文化的側面にとどまらず、自然科学者ゲーテとして、地理学や博物学方面への関心もあったことも注目されます。

 ゲーテのイタリア旅行の様子は、1816年から翌年にかけて出版された『イタリア紀行』Italienische Reiseに見ることができます。ゲーテの旅程はアッシジ、フィレンツェ、を経てローマに至ります。ローマでは、イギリス生まれの女流作家アンゲリカ・カウフマンと交流し、彼女の書いたゲーテの肖像が残されています。また、悠然と腰掛けるゲーテを描いた「カンパニアのゲーテ」として有名な肖像(上図)も、同じくローマで出会ったティッシュバインの手になるものです。

 ローマを出ると、ゲーテはナポリへと向かいます。ナポリのハイライトとなったのが、ゲーテのヴェスヴィオ火山の登山。ゲーテは、かつてポンペイを飲み込み、なお血気盛んなヴェスヴィオ火山を前にして、怖気付くどころか持ち前の観察眼いや増しに発揮します。『イタリア紀行』は単なる懐古的なものではなく、新たな発見の旅であったのです。

 ゲーテのイタリア旅行は、創作面でも充実したものとなりました。ベートーヴェンが曲をつけたことで有名な『エグモント』は、イタリア旅行の賜物であり、彼の代表作『タッソー』、『ファウスト』もイタリアの地で書き進められました。そしてなにより、ゲーテのイタリア体験は『イタリア紀行』において見事に結実したのです。

フランツ・リスト 『巡礼の年 第2年 イタリア』『伝説』

 卓越したピアノの腕前で当時の社交界を沸かせ、音楽界のオピニオンリーダーとしても活躍したフランツ・リストも、イタリアに深いゆかりがあります。

 リストは、ドイツにフランスにと各地を転々としますが、1837年からの2年間を、マリー・ダグーという女性とイタリアで過ごします。
マリー・ダグーは、リストの愛人で、リヒャルト・ワーグナーの妻コジマはリストとの子供にあたります。リストはイタリアでの2年間に、ダンテを読んだり、ラファエロなどの絵画作品を鑑賞したり、イタリア文化を吸収します。

そしてリストのイタリア生活の集大成となったのが、《巡礼の年第2年 イタリア》です。
このピアノ曲集は、ラファエロの作品に霊感を得た「婚礼」にはじまり、ミケランジェロ、17世紀の詩人サルヴァトール・ローザ、14世紀の詩人ペトラルカ、そしてダンテをモチーフとした全7曲のピアノ曲であり、まさにイタリア尽くしの作品です。また、リスト晩年のローマ滞在期間には《二つの伝説》というピアノ曲を残しています。「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」と「波の上を渡るパオラの聖フランチェスコ」の二曲からなるこの作品は、敬虔さを湛えた静謐な雰囲気のなか、イタリアの聖人の伝説が絵画のようの展開されていく、リスト晩年の傑作です。

ハンス・クリスチャン・アンデルセン

「旅する詩人」、デンマークのアンデルセンにとっても、イタリアはアイデアの泉となりました。
アンデルセンが「私の憧れと幸福の国」(『アンデルセン自伝』)イタリアの地を踏んだのは1833年。アンデルセンはイタリアへのなつかしさと、北欧への郷愁のなかでローマでの時を過ごします。
ローマでは彫刻家トーヴァルセンと交友を深めました。

 ゲーテと同じく、アンデルセンはローマからナポリへ向かいます。ナポリでは貧しくとも美しい盲目の少女に出会います。
この少女こそが、のちに『即興詩人』へと膨らんでいく、アンデルセンの想像の核となるのです。アンデルセンは『即興詩人』の誕生について次のように回想しています。

「私の以前の生活と、イタリアで見た事がらとが奇しくも一つにとけあって、そのなかから即興的に一つの作品の構想が生れた。そしてそれはだんだんと成長していった。私は後から後から書きおろして行かなければならないくらいだった。」(『アンデルセン自伝』 大畑末吉訳)

 アンデルセンのイタリアからのお土産は、『即興詩人』の美しい文章でした。

「いざイタリアへ!」イタリアを旅するゲーテ、リスト、アンデルセンの系譜を読み解く!

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その数ある巡礼地のなかでも多くの巡礼者を引きつけた土地が、地中海に浮かぶブーツ(?)、イタリアでありました。

ローマの教皇庁や趣向を凝らした建築のみならず、火山灰に埋もれるポンペイや、アッシジのフランチェスコらの聖人伝説、アルベルティ、ラファエロ、ダ・ヴィンチらの歴史的、文化的史跡に満ち溢れたイタリアには古来、多くの芸術家たちが訪れ、イタリアで得たインスピレーションを作品に結晶させました。

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ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ 『イタリア紀行』

 あたかも古典主義を体現するかのような存在であるゲーテが、古典文化のふるさとイタリアに対して特別な感情を抱いていたとしても不思議ではありません。

1786年、37歳になったゲーテはイタリアへ旅立ちます。当時すでにゲーテ『若きウェルテルの悩み』で一躍国民的作家となり、公職者としても着実に仕事をこなす、まさに八面六臂の活躍を見せていました。古典の息づくイタリアへの旅行は、多忙な日々からしばし離れ、インスピレーションの糧を得るための文豪の小休止だったのかもしれません。イタリアでのゲーテの興味は歴史的、文化的側面にとどまらず、自然科学者ゲーテとして、地理学や博物学方面への関心もあったことも注目されます。

 ゲーテのイタリア旅行の様子は、1816年から翌年にかけて出版された『イタリア紀行』Italienische Reiseに見ることができます。ゲーテの旅程はアッシジ、フィレンツェ、を経てローマに至ります。ローマでは、イギリス生まれの女流作家アンゲリカ・カウフマンと交流し、彼女の書いたゲーテの肖像が残されています。また、悠然と腰掛けるゲーテを描いた「カンパニアのゲーテ」として有名な肖像(上図)も、同じくローマで出会ったティッシュバインの手になるものです。

 ローマを出ると、ゲーテはナポリへと向かいます。ナポリのハイライトとなったのが、ゲーテのヴェスヴィオ火山の登山。ゲーテは、かつてポンペイを飲み込み、なお血気盛んなヴェスヴィオ火山を前にして、怖気付くどころか持ち前の観察眼いや増しに発揮します。『イタリア紀行』は単なる懐古的なものではなく、新たな発見の旅であったのです。

 ゲーテのイタリア旅行は、創作面でも充実したものとなりました。ベートーヴェンが曲をつけたことで有名な『エグモント』は、イタリア旅行の賜物であり、彼の代表作『タッソー』、『ファウスト』もイタリアの地で書き進められました。そしてなにより、ゲーテのイタリア体験は『イタリア紀行』において見事に結実したのです。

フランツ・リスト 『巡礼の年 第2年 イタリア』『伝説』

 卓越したピアノの腕前で当時の社交界を沸かせ、音楽界のオピニオンリーダーとしても活躍したフランツ・リストも、イタリアに深いゆかりがあります。

 リストは、ドイツにフランスにと各地を転々としますが、1837年からの2年間を、マリー・ダグーという女性とイタリアで過ごします。
マリー・ダグーは、リストの愛人で、リヒャルト・ワーグナーの妻コジマはリストとの子供にあたります。リストはイタリアでの2年間に、ダンテを読んだり、ラファエロなどの絵画作品を鑑賞したり、イタリア文化を吸収します。

そしてリストのイタリア生活の集大成となったのが、《巡礼の年第2年 イタリア》です。
このピアノ曲集は、ラファエロの作品に霊感を得た「婚礼」にはじまり、ミケランジェロ、17世紀の詩人サルヴァトール・ローザ、14世紀の詩人ペトラルカ、そしてダンテをモチーフとした全7曲のピアノ曲であり、まさにイタリア尽くしの作品です。また、リスト晩年のローマ滞在期間には《二つの伝説》というピアノ曲を残しています。「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」と「波の上を渡るパオラの聖フランチェスコ」の二曲からなるこの作品は、敬虔さを湛えた静謐な雰囲気のなか、イタリアの聖人の伝説が絵画のようの展開されていく、リスト晩年の傑作です。

ハンス・クリスチャン・アンデルセン

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アンデルセンが「私の憧れと幸福の国」(『アンデルセン自伝』)イタリアの地を踏んだのは1833年。アンデルセンはイタリアへのなつかしさと、北欧への郷愁のなかでローマでの時を過ごします。
ローマでは彫刻家トーヴァルセンと交友を深めました。

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この少女こそが、のちに『即興詩人』へと膨らんでいく、アンデルセンの想像の核となるのです。アンデルセンは『即興詩人』の誕生について次のように回想しています。

「私の以前の生活と、イタリアで見た事がらとが奇しくも一つにとけあって、そのなかから即興的に一つの作品の構想が生れた。そしてそれはだんだんと成長していった。私は後から後から書きおろして行かなければならないくらいだった。」(『アンデルセン自伝』 大畑末吉訳)

 アンデルセンのイタリアからのお土産は、『即興詩人』の美しい文章でした。

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