世界史

音楽なくしては語れない「華麗なる一族」バッハ家の歴史とは、そして終焉はどこにあるのか!

2016-06-03

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中世では親の生業を子が継ぐ、ということはよくあることでしたが、音楽の世界もまた例外ではありません。
なかでも歴史に大きな足跡を残した一家がバッハ一家。バッハといえば、音楽室にも飾られているヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)が有名で、大バッハとよばれることもありますが、彼の先祖や息子たちの多くも音楽家でした。意外と知られていないバッハ家の歴史をまとめました。

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バッハ家のはじまり

バッハの一族は、16世紀の終わり、ルター派信仰のためにハンガリーを追われ、ドイツ中部に位置するチューリンゲンに移住してきたといわれています。
大バッハは、『音楽家バッハ一族の起源』において、彼の祖父の祖父にあたるファイト・バッハは、パン屋であったが、粉挽き機に合わせてツィターを弾いていたと伝えています。このファイトの孫の子、大バッハの父にあたるのが、ヨハン・アンブロジウスで、アイゼナハの音楽家として活躍しました。アンブロジウスの従兄弟、ヨハン・クリストフも同じくアイゼナハで活躍したオルガニストでした。
そしてアンブロジウス8人兄弟の末っ子として生まれたのが、ご存知ヨハン・セバスチャン・バッハです。彼は、1694年、1695年とあいついで両親を亡くし、オルガニストとして働いていた兄ヨハン・クリストフのもとに引き取られます。
のちの活躍については、ここで述べるまでもないでしょう。

バッハ一家の集い

バッハ一家は毎年一回、アイゼナハやアルンシュタットにおいて集まることを決まりにしていました。
バッハ一家の集いは、一家の信心深さを表すように、コラールの斉唱にはじまり、その後のパーティーでも一家の豊かな音楽的才能を如何なく発揮されました。たとえば、一家の者おのおのが滑稽味のある、幾分下品ともいえる歌詞をもった俗謡を歌い、なおかつおのおのの俗謡がハーモニーをなすように即興する「クオドリベット」とよばれる音楽的な戯れに興じました。この「クオドリベット」を、のちにヨハン・セバスチャンは『ゴルトベルク変奏曲』に盛り込むこととなります。

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ヨハン・セバスチャン・バッハの息子たち

大バッハはマリア・バルバラと結婚、彼女の死後はアンナ・マグダレーナと再婚し、多くの子宝に恵まれました。大バッハの子供達のうちの幾人かは、父と同じく音楽家として活躍しました。

ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710~84)

「ハレのバッハ」こと、長男のヴィルヘルム・フリーデマン・バッハは、大バッハが息子の中でもとりわけ愛情と期待を受け、それを裏切らない音楽的才能を示しました。大バッハは、長男フリーデマンの作曲練習のために1720年、息子が9歳のときに、『ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのためのクラヴィーア小曲集』を残しているほど、長男の教育に心血を注いでいたようです。クラヴィーアやヴァイオリンの演奏能力、とりわけ即興演奏に長けたヴィルヘルム・フリーデマンでしたが、作曲の多くは出版されず、現在でも演奏機会にはあまり恵まれておりません。

カルル・フィリップ・エマニエル・バッハ(1714~1788)

「ベルリンのバッハ」こと、次男のカルル・フィリップ・エマニエル・バッハは早くからその才能を示しました。さらに彼の作曲は当時の人々から人気を博し、彼の生きていた時代においては、父のヨハン・セバスチャンを凌ぐほどでした。(大バッハは当時、現代からみると軽視されていたようです。)
なお、彼の名前の「フィリップ」は、父大バッハと交流のあった、多作で知られる人気作曲家ゲオルク・フィリップ・テレマンに由来します。カルル・フィリップ・エマニエルの作品は、父ほどではないものの、少なくない数のレコーディングに恵まれています。

ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハ(1732~95)

アンナ・マグダレーナとの息子、ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・バッハは、生涯ビュッケブルグの宮廷音楽家として奉仕しました。そのため、「ビュッケブルグのバッハ」とよばれています。交響曲やピアノ協奏曲を残していますが、知名度は決して高いとは言えません。
大バッハ最後の息子、ヨハン・クリスティアン・バッハは、「ミラノのバッハ」とよばれ、父の死後、兄カール・フィリップ・エマニエルのもとで教育を受けました。
そしてイタリア各地、とりわけミラノにおいてでオルガニストとして活躍、その後はヘンデル亡き後のイギリスに渡り、そのままロンドンにおいて亡くなりました。このように国際的な名声を得たヨハン・クリスティアンは、当時バッハ一族のなかで最も成功した音楽家であったといえます。また、モーツァルト親子(父レオポルト、子ヴォルフガング)とも交流があることでも史られており、ヴォルフガング少年は感銘を受けたのか、彼はヨハン・クリスティアンの作品の編曲を行っています。(『ピアノ協奏曲K.107』)バッハ家では珍しく、オペラを残すなど、作曲活動も旺盛におこない、録音も数多くなされています。

現在では、クラシック音楽を通じて一、二を争う重要な音楽家として評価の高いヨハン・セバスチャン・バッハですが、彼は死後しばらく忘れられた存在でした。これらの大バッハの息子たちは、大バッハの功績を後代へと残すためにも一役買っています。
たとえば、大バッハの初の伝記を著したことで知られる、ヨハン・ニコラウス・フォルケル(1749-1818)は、長男ヴィルヘルム・フリーデマンと次男カルル・フィリップ・エマニエルから手紙を通じて提供された情報をもとに執筆されています。また、息子たち自身が残した数々の作品も、その時代の聴衆も人気を得たのみならず、バロック音楽とロマン派音楽の橋渡し的存在として、モーツァルトやベートーヴェンといった、のちのちの作曲家たちにも影響を与えています。

バッハ家のおわり

音楽家一族としてのバッハ家の歴史は、大バッハの孫で、ヨハン・クリストフ・フリードリヒの子、ヴィルヘルム・フリードリヒ・エルンスト・バッハ(1759-1845)の死によって幕を閉じます。彼もまた、宮廷音楽家として生涯を全うしたのでした。

ヨハン・セバスチャン・バッハが住んだ町とそこで生まれた名曲を一挙紹介!

 ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)の残した音楽は、時と国境を越え、世界中で愛されています。

みずからの音楽を通じて、音楽の小宇宙を作り上げた大バッハですが、一生を通じて生まれ故郷ドイツ、プロイセンを離れることはありませんでした。バッハはおもに宮廷音楽家として生計を立てたのです。そのため、バッハの人生には、バッハが暮らしたドイツの町の宗教的・文化的・政治的な環境が強く関わっています。

バッハが人生の多くを過ごした町、ワイマール、ケーテン、ライプツィヒから、バッハの人生を振り返ります。

ワイマール(1708-1717)

若きバッハが過ごした町が、ドイツ中部の町ワイマールです。

ワイマールはバッハよりのちの時代になると、ゲーテやシラーという二人の文豪を中心とした文化的都市として一躍有名になりますが、バッハの時代にもすでに文化的関心の高い都市でした。また、ルター派プロテスタントを信仰していたため、教会生活と音楽の結びつきが強く、こうした背景から、バッハはワイマール時代を通じて宗教音楽に取り組む機会を与えられます。

 バッハは早くも1703年、弱冠18歳にしてワイマールの宮廷楽師として半年を過ごし、5年後には宮廷オルガニスト兼宮廷楽師として、妻マリア・バルバラを連れて再度ワイマールの地を踏みます。ワイマールの教会にはオルガンが設置されており、充実した宮廷楽団にも恵まれたバッハは、さらに金銭的な厚遇や、比較的自由な休暇も認められます。家庭生活では、妻マリア・バルバラとの間に6人の子をもうけ、そのなかにはのちに音楽家として大成する、長男ヴィルヘルム・フリードマンと次男カール・フィリップが含まれています。

 1714年、バッハはワイマールの楽師長に昇進します。楽師長となったバッハは月に一曲以上のペースでカンタータを作曲し、職務に熱を出しますが、1716年にバッハの宮廷楽長就任の希望が裏切られると、すっかりカンタータの作曲をやめてしまいました。その後ケーテンの宮廷楽長のオファーがバッハの元に伝わると、バッハはケーテン移籍を希望、1717年にワイマール公から解雇され、バッハは新天地ケーテンに向かいます。

<ワイマール時代の主要作品>
・オルガン曲(前奏曲とフーガほか)
・カンタータ(『我が心には憂い多かりき』BWV21ほか)

ケーテン(1717-1723)

1717年、バッハはワイマールをはなれ、ケーテンの宮廷楽長に就任します。

ケーテンはドイツ東部に位置する都市で、若い領主レオポルドが統治していました。レオポルドは音楽を好み、ケーテンの宮廷には優秀な音楽家が集まっていました。バッハも厚遇をもって迎えられました。

 ケーテン時代のバッハは、世俗音楽に傾倒します。ケーテンの宗派はカルヴァン派であったため、礼拝ではカンタータが演奏されなかったためです。しかしその代わり、バッハはケーテン宮廷の名手たちの刺激もあって、チェンバロ曲や室内楽曲を多数残しています。

 ケーテンではバッハの私生活にも変化が訪れます。
1720年、カールスバート旅行より戻ったバッハを迎えたのは妻マリア・バルバラの死の報。翌年、バッハは生涯の伴侶となるアンナ・マグダレーナと再婚しました。アンナ・マグダレーナは4人の子供の世話を引き受けるだけでなく、夫の記譜作業を手伝うなど、バッハに献身しますが、バッハもまた彼女に「アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳」という曲集をプレゼントしています。

 こんにち、ケーテンはケーテン城やケーテン市庁舎などの建築物が観光名所となっており、バッハ広場にはバッハの記念碑が建てられています。

<ケーテン時代の主要作品>
・ヴァイオリン協奏曲
・ブランデンブルグ協奏曲
・平均律クラヴィーア曲集 第1巻
・無伴奏チェロ組曲 

ライプツィヒ(1723-1750)

  1723年、バッハはライプツィヒ市の音楽監督、聖トマス教会の音楽長「トマス・カントル」のポストをえて、ケーテンからライプツィヒへ拠点を移します。

この時代のライプツィヒは人口2万5000をかかえ、出版の町として栄えていました。聖ニコライ教会と聖トマス教会を筆頭に、市内すべての教会の監督を任されたバッハは、精力的に作曲に取り組みます。ライプツィヒ時代のバッハは、新作カンタータを作曲し、さらに教会の音楽隊に新作の稽古をつけ、日曜日に上演する、という超過密スケジュールをこなしつつも、「ヨハネ受難曲」やマタイ受難曲といった大作も書き上げています。

 1730年代になるとカンタータの作曲が落ち着き、バッハは平穏な生活に戻るかと思いきや、職務をめぐって市や教会と衝突を繰り返し、ライプツィヒでの活動はバッハにとって息苦しいものとなっていきました。それでもバッハの創作意欲は衰えを知らず、多くの祝祭カンタータや、畢生の傑作「ロ短調ミサ」を作曲し、1747年にはフリードリヒ大王に謁見し、「音楽の捧げ物」を献呈しています。

 ライプツィヒはバッハにとって決して住みやすい町ではありませんでした。

しかし、このライプツィヒが、ヨハン・セバスチャン・バッハの終の住処となったのです。
死後、バッハの墓は聖トマス教会に移されます。死後250年以上を経てもなお、バッハの墓に世界中からの献花が絶えることはありません。

<ライプツィヒ時代の主要作品>
・マタイ受難曲
・ヨハネ受難曲
・ロ短調ミサ
・フーガの技法(未完)

ヨハン・セバスチャン・バッハが住んだ町とそこで生まれた名曲を一挙紹介!

 ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685-1750)の残した音楽は、時と国境を越え、世界中で愛されています。

みずからの音楽を通じて、音楽の小宇宙を作り上げた大バッハですが、一生を通じて生まれ故郷ドイツ、プロイセンを離れることはありませんでした。バッハはおもに宮廷音楽家として生計を立てたのです。そのため、バッハの人生には、バッハが暮らしたドイツの町の宗教的・文化的・政治的な環境が強く関わっています。

バッハが人生の多くを過ごした町、ワイマール、ケーテン、ライプツィヒから、バッハの人生を振り返ります。

ワイマール(1708-1717)

若きバッハが過ごした町が、ドイツ中部の町ワイマールです。

ワイマールはバッハよりのちの時代になると、ゲーテやシラーという二人の文豪を中心とした文化的都市として一躍有名になりますが、バッハの時代にもすでに文化的関心の高い都市でした。また、ルター派プロテスタントを信仰していたため、教会生活と音楽の結びつきが強く、こうした背景から、バッハはワイマール時代を通じて宗教音楽に取り組む機会を与えられます。

 バッハは早くも1703年、弱冠18歳にしてワイマールの宮廷楽師として半年を過ごし、5年後には宮廷オルガニスト兼宮廷楽師として、妻マリア・バルバラを連れて再度ワイマールの地を踏みます。ワイマールの教会にはオルガンが設置されており、充実した宮廷楽団にも恵まれたバッハは、さらに金銭的な厚遇や、比較的自由な休暇も認められます。家庭生活では、妻マリア・バルバラとの間に6人の子をもうけ、そのなかにはのちに音楽家として大成する、長男ヴィルヘルム・フリードマンと次男カール・フィリップが含まれています。

 1714年、バッハはワイマールの楽師長に昇進します。楽師長となったバッハは月に一曲以上のペースでカンタータを作曲し、職務に熱を出しますが、1716年にバッハの宮廷楽長就任の希望が裏切られると、すっかりカンタータの作曲をやめてしまいました。その後ケーテンの宮廷楽長のオファーがバッハの元に伝わると、バッハはケーテン移籍を希望、1717年にワイマール公から解雇され、バッハは新天地ケーテンに向かいます。

<ワイマール時代の主要作品>
・オルガン曲(前奏曲とフーガほか)
・カンタータ(『我が心には憂い多かりき』BWV21ほか)

ケーテン(1717-1723)

1717年、バッハはワイマールをはなれ、ケーテンの宮廷楽長に就任します。

ケーテンはドイツ東部に位置する都市で、若い領主レオポルドが統治していました。レオポルドは音楽を好み、ケーテンの宮廷には優秀な音楽家が集まっていました。バッハも厚遇をもって迎えられました。

 ケーテン時代のバッハは、世俗音楽に傾倒します。ケーテンの宗派はカルヴァン派であったため、礼拝ではカンタータが演奏されなかったためです。しかしその代わり、バッハはケーテン宮廷の名手たちの刺激もあって、チェンバロ曲や室内楽曲を多数残しています。

 ケーテンではバッハの私生活にも変化が訪れます。
1720年、カールスバート旅行より戻ったバッハを迎えたのは妻マリア・バルバラの死の報。翌年、バッハは生涯の伴侶となるアンナ・マグダレーナと再婚しました。アンナ・マグダレーナは4人の子供の世話を引き受けるだけでなく、夫の記譜作業を手伝うなど、バッハに献身しますが、バッハもまた彼女に「アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳」という曲集をプレゼントしています。

 こんにち、ケーテンはケーテン城やケーテン市庁舎などの建築物が観光名所となっており、バッハ広場にはバッハの記念碑が建てられています。

<ケーテン時代の主要作品>
・ヴァイオリン協奏曲
・ブランデンブルグ協奏曲
・平均律クラヴィーア曲集 第1巻
・無伴奏チェロ組曲 

ライプツィヒ(1723-1750)

  1723年、バッハはライプツィヒ市の音楽監督、聖トマス教会の音楽長「トマス・カントル」のポストをえて、ケーテンからライプツィヒへ拠点を移します。

この時代のライプツィヒは人口2万5000をかかえ、出版の町として栄えていました。聖ニコライ教会と聖トマス教会を筆頭に、市内すべての教会の監督を任されたバッハは、精力的に作曲に取り組みます。ライプツィヒ時代のバッハは、新作カンタータを作曲し、さらに教会の音楽隊に新作の稽古をつけ、日曜日に上演する、という超過密スケジュールをこなしつつも、「ヨハネ受難曲」やマタイ受難曲といった大作も書き上げています。

 1730年代になるとカンタータの作曲が落ち着き、バッハは平穏な生活に戻るかと思いきや、職務をめぐって市や教会と衝突を繰り返し、ライプツィヒでの活動はバッハにとって息苦しいものとなっていきました。それでもバッハの創作意欲は衰えを知らず、多くの祝祭カンタータや、畢生の傑作「ロ短調ミサ」を作曲し、1747年にはフリードリヒ大王に謁見し、「音楽の捧げ物」を献呈しています。

 ライプツィヒはバッハにとって決して住みやすい町ではありませんでした。

しかし、このライプツィヒが、ヨハン・セバスチャン・バッハの終の住処となったのです。
死後、バッハの墓は聖トマス教会に移されます。死後250年以上を経てもなお、バッハの墓に世界中からの献花が絶えることはありません。

<ライプツィヒ時代の主要作品>
・マタイ受難曲
・ヨハネ受難曲
・ロ短調ミサ
・フーガの技法(未完)

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