日本史

平賀源内が広めた「土用の丑の日」に学ぶ熱中症対策とは

2018-10-16

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連日の猛暑が続き、熱中症の危険度が高まる昨今の夏。スタミナのある物を食べて体力をキープしたいものです。夏のスタミナ食と言えば、日本では古来より「土用の丑の日」にうなぎを食べる習慣がありますが、この習慣は江戸時代に平賀源内が広めたと言われています。熱中症を防いで現代の夏の厳しい暑さを乗り切るには、体力をつけ水分補給をすることに加えて、屋内の温度管理も重要です。特に高齢者の熱中症対策では、この室温管理を含めた見守りがポイントになります。

土用の丑の日にうなぎを食べる習慣はいつから?

土用とは古代中国から伝わった季節の分類のしかたのひとつで、立春・立夏・立秋・立冬の前の18日間のこと。いまでは、立秋前の夏の土用、十二支の丑にあたる日にうなぎを食べる習慣として残っています。暑い時期にうなぎを食べて精をつけるこの習慣は江戸時代に始まったのですが、実は、これには仕掛け人がいました。それは、博学で知られた平賀源内です。

江戸時代中期(18世紀)の夏、暑さで商品が売れず困った1軒のうなぎ屋さんに相談された源内は「本日は土用の丑の日、うなぎ食うべし」というキャッチコピーを考案しました。これを紙に書いて店先に貼り出したところ、お客が押し寄せたのだとか。当時も源内の博識さは有名で、江戸の庶民の多くが「あの源内先生の言うことなら間違いない」と思ったのでしょう。その後、この貼り紙をまねるうなぎ屋が続出、現代にいたるまで伝承のように引き継がれてきたのだと考えられます。
見方を変えると、このキャッチコピーは実に200年以上にもわたって日本人の消費行動に影響を与え続けていることになります。そう考えると、平賀源内は非常に優秀なコピーライターだったと言えますね。



江戸の名コピーライター、平賀源内とは

さて、平賀源内と言えば、電気を起こす外国製の装置「エレキテル」を復元したというエピソードが有名です。このことから科学者のイメージがありますが、もともと彼は漢方医学を修めた医者でした。しかし、それだけではなく、浄瑠璃や戯作という小説のようなものを書いたり、商品名を考えるなどコピーライターのようなこともしていたようです。また、画や陶芸、企業などにも通じたとても多才な人であったと言われています。

実際に、うなぎは非常に栄養価が高くビタミン類も豊富で、体力をつけるには効果的な食品です。医者であった源内は、当然ながらこのことを知っていたのでしょう。源内のコピーは単なる思いつきではなく、科学的な知見に裏づけされたものであったと思われます。だからこそ、江戸時代に暑い夏を乗り越えるための知恵として定着し、長い時を経た今も習慣として残っているのでしょう。

体力を落とさないことは、現代にも共通する熱中症予防の基本です。ただし、現代の夏は江戸時代よりも平均気温が数度ほど高いと言われています。熱帯夜も多くなっていることから、屋内や夜間でも熱中症になる恐れがあります。そのため、自宅にいるときは、時間帯にかかわらず、エアコンや扇風機を適度に使って室温が高くなりすぎないようにすることが大切です。

江戸時代よりも暑い現代の夏だから

とりわけ高齢者は熱中症に注意が必要です。年をとると、体内に貯めておける水分量が少なくなり、体温調節の機能も衰えるため、発症しやすくなるからです。加えて、温度の変化を感じにくくなるため、特に高齢者の居室では室温管理をしっかりと行いましょう。部屋に温度計を設置するのも良いですが、高齢の家族と離れて暮らしている、高齢の家族を置いて出かけることが多い、といったお宅では心配があるかもしれません。そのような場合には、見守りシステム「いまイルモ」が役に立ちます。

「いまイルモ」は人感や温度などのセンサーを備えた見守りシステムです。本体を高齢者の居室などに設置すれば、見守る側は離れた場所からスマホやパソコンで現在または過去にさかのぼって、見守られる人の様子を確認できます。例えば、温度センサーのモニタリングデータを見て室温が高くなっていれば、電話をかけてエアコンをつけるように促せます。また、人感センサーとドアセンサーを連動させて見守られる人の動きをモニタリングすることで、万一倒れている場合などでも早めの発見につながります。

高齢者を熱中症から守るには、体力維持・水分補給などの基本の予防法に加え、見守る「目」もあった方が安心です。「いまイルモ」がその役割をします。


奇才「平賀 源内」その人物像と人生

本草学者、蘭学者、医者、発明家、戯作者と、様々な顔をもち、時には「日本のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とよばれることもある、平賀源内(1728-1780)。
日本史を見渡しても類を見ないこの人物について杉田玄白は「この男、業は本草家にて生まれ得て理にさとく、敏才にしてよく時の人気に叶ひし生まれなりき」と評しています。
これだけの規格外の人物ながら、教科書等ではあまり触れられません。
エレキテルから、うなぎ、そして彼の死まで、平賀源内にまつわる豆知識を紹介します。

エレキテルって何?

平賀源内といえばエレキテル、そうご記憶の方も多いはず。
しかしエレキテルとはいったいどんな機械で、何のために使われたのでしょうか。

はじめに一点、注意しなければいけないことがあります。平賀源内はたしかにエレキテルを作りましたが、ゼロから発明したのではなく、オランダですでに存在していたものを源内が手に入れ、1776年に修理に成功した、というほうが正確で、平賀源内がエレキテルを発明した、というのはよくある誤解。

エレキテルの仕組みはというと、ハンドルを回すことで、箱の中のガラス瓶をこすりって帯電させ、それによって発生する静電気を銅線に送り、放電するというものでした。
物理の授業でガラス棒をこすって、静電気を起こす実験をやりますが、それと基本的には同じことですね。このエレキテル、いったい何に使ったのかといえば、もともとオランダでは医療用に使われていたのでした。しかし、日本ではむしろ見世物として評判になっていたようです。
なかにはエレキテルの銅線を頭頂まで引き、頭から火花を散らす、といった見世物があったようで、古書にその様子が描かれています。
しかし、このエレキテル興行、すぐに町人に飽きられてしまったようです。

平賀源内とうなぎ

平賀源内は日本初のコピーライターであり、またコマーシャル用の音楽を作曲したことでも知られています。
平賀源内のプロデューサーとしての敏腕を示すエピソードがあります。私たちの日本人に欠かせない食べ物、うなぎと、平賀源内にいったいどのようなつながりがあるのでしょうか。

うなぎはたいへん高価な食べ物ですが、毎年夏になると、「一年に一度くらい…」とついつい買ってしまう方も多いのではないでしょうか。それも、「今日は土用丑の日だから」というよくわからない理由で。そもそも土用丑の日って?

土用丑の日とは、「土用期間中の丑の日」を指します。土用とは、立春・立夏・立秋・立冬の前18日間をいいます。
丑の日の「丑」とはもちろん十二支の丑で、12日に一度、丑の日になります。つまり「土用の丑の日」とは、「立夏まえの丑の日」ということになります。具体的にいえば7月の下旬から、8月の上旬で、年によっては丑の日が二日あることもあります。

さて、それではなぜ土用の丑の日うなぎを食べる風習が広まったのでしょう。
いくつか説がありますが、そのなかで最も知られている俗説は次のようなもの。ある日、平賀源内は売り上げに伸び悩むうなぎ屋の主人に何か良い案はないか、と助けを求められます。このときコピーライター平賀源内が考え出した宣伝句は「本日丑の日」。うなぎの「う」と丑の日の音をかけたのでしょうか、なにはともあれ、平賀源内のこのキャッチは客を引き寄せ、お店は大繁盛したのでした。
この説に従えば、江戸時代の人々も現在の私たちと同じように、なぜ土用の丑の日うなぎを食べるのかよくわからずに、うなぎを食べていたことになります。しかし、全く理由のないことでもありません。

土用の丑の日は真夏ですから、もともと精をつけるために、滋養に富んだ食べ物を食べる風習があったようで、たとえば土用餅とよばれるあんころ餅が食べられていました。
うなぎを食べることがなくはなかったことは、『万葉集』からも知られます。次の歌は、酷暑から痩せてしまった石麻呂に大伴家持が読んだ歌。

石麻呂に 吾れ物申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻捕り食せ 
(石麻呂よ、聞いてくれ、夏痩せに良いとかいう うなぎを取って食え)

しかし、土用のうなぎが風物詩となるためには、平賀源内の才と人気とを待たなければならなかったようです。

平賀源内の非業の死の伝説

あらゆる分野に活躍し、町人の人気を得た平賀源内でしたが、あまりの奇才ぶりから世の中から、本当の意味で理解されることはついにありませんでした。平賀源内の死は、決して幸福とはいえない形で訪れます。

1779年、平賀源内は殺人を犯して投獄されます。殺人の経緯については明らかになっておらず、世間の無理解から人間不信になった、とか、自分のアイデアを盗まれたから、といった理由が一般的な説で、いずれも想像の域を出ません。そして、逮捕からおよそ一ヶ月、獄中の平賀源内は破傷風にかかり、亡くなります。しかし、田沼意次の庇護のもと陰ながら生き続けた、という伝説もまことしやかに伝えられています。彼の墓に刻まれた杉田玄白の碑文は、平賀源内という人物の一生を克明に表しています。

「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」
(ああ、非凡なる人よ、変わったものを好み、変わったことをなした。どうして死に様さえ常ならざる必要があろうか。)

才能と才能を結びつけるイノベーター 平賀源内〜お供え餅から始まった解体新書図〜

 平賀源内というとどのようなイメージをお持ちでしょうか。エレキテルでおなじみの発明家? 戯作や芝居の脚本を書いた作家? それとも鉱山指導を行った山師? こういったイメージを持つ人が多いのではないでしょうか。江戸時代も山師扱いされ胡散臭い人物だとも思われていたようです。

 しかし、不思議と源内の周りには才能を持つ人々が集まってきました。そして、才能あるもの同士が出会い、大きな仕事を成し遂げていったのです。今日は、イノベーターとして平賀源内の逸話をご紹介しましょう。

それは、お供え餅から始まった

1773(安永2)年、平賀源内秋田藩佐竹家から鉱山開発の助言を求められ、秋田に出かけました。その秋田城下で泊まった宿の立派な絵が飾られていました。源内がこの絵の作者が何者か宿屋の主人に尋ねると、秋田藩士(実際は角館佐竹家の家臣なので陪臣)の小田野直武という者が描いたと応えました。

 直武に興味を持った源内は、早速直武に面会を求めます。藩の客人からの招きに直武は驚いて宿屋に出向きました。そこで挨拶もそこそこに源内は直武に「正月のお供え餅を上からみたところ」を描くように頼みました。

 直武は内心馬鹿にされたと思い怒りますが、実際に描こうとすると描けない自分がいるのに気付きます。藩内一の絵描きであると自負していた自分が、簡単な餅も描けないということで直武は衝撃を受けました。

 源内は笑いながら、「描けなくて当然」と直武に伝えます。当時の日本画は、立体感を出すことが難しい技法でした。一方、西洋画は陰影や比率を計算して描くので、立体感を出すことに技術に富んでいました。秋田滞在の間、西洋画の技法を源内は直武に伝授します。直武はめきめき腕をあげました。 やがて、源内は秋田を離れますが、直武は秋田藩主の許しを得て、源内のもとで学ぶためにお役目を江戸詰めに改められました。この許可を出した秋田藩主・佐竹義敦も絵画の才能あふれる殿様で、直武を通じて蘭画の技法を習得していきました。

長崎から遠く離れた秋田の地で蘭画が多く描かれたことから、直武や義敦らが描いた蘭画は「秋田蘭画」と呼ばれ、「日本美術史の奇跡」となっていきました。
児童愛犬図 作:小田野直武 (秋田市立千秋美術館蔵)
秋田蘭画の中心的人物・小田野直武の作品の一つ。このような技法で描かれた蘭画の数々が突如、出羽の地に出現した

上手な蘭画を描ける人は誰だ

 直武が源内の許で過ごしている間、日本では医学史の奇跡ともいえる作業が進行していました。「解体新書の翻訳」です。前野良沢・杉田玄白・中川淳庵といった医師たちが、わずかにわかる蘭語を手がかりに西洋医学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳するという難事業が佳境を迎えていました。しかし、この解体新書の絵を正確に描ける絵師がいなかったのです。日本画の絵師にお願いしてもしっくりくる人体図などが描けませんでした。

 玄白らは源内に相談すると、源内は「日本最高の絵師を紹介する」と言って、直武を推薦しました。源内自身も絵をかきましたが、絵画の才能溢れる直武が西洋画の技法を習得したのだから鬼に金棒です。源内はこの時、当代一の蘭方医たちと当代一の蘭画絵師を結びつけたイノベーターとなったのです。そして、日本の医学史上の奇跡「解体新書」が完成したのです。源内もまた当代一のイノベーターであったと言えるでしょう。

悲劇的な最期

こうして大事業の演出を行った源内ですが、悲劇的な最期を迎えます。1779年、源内はある大名の別荘の普請に関して、大工の秋田屋久五郎と競争しました。源内は工夫を凝らし、力学上必要最低限の木材を使用しながら耐久性のある屋敷を立てる図面を作成し、見事受注します。しかし、実際に屋敷を立てる段取りなどはできないので、競争した久五郎を下請けとして行うことになりました。

共同で行うことになった源内と久五郎は、宴を開き懇親を図ります。やがて酔いつぶれて源内も久五郎も寝入ったところで悲劇が起きました。源内の描いた図面がなくなっていたのです。源内は、久五郎が盗んだものだと勘違いし、切り殺してしまったのです。この罪で源内は伝馬町の牢に入れられて病死してしまいました。

葬儀に集まった人々

 源内の遺体を玄白たちが引き取ろうとしましたが、幕府が罪人である源内の遺体を引き渡しませんでした。そこで、玄白が遺体のないまま葬儀を行い、源内に縁ある人々が集まりました。

源内を慕った直武でしたが、残念ながらこの葬儀には顔を出せませんでした。直武は源内の死の前後、結核を患い秋田に戻り、そのまま亡くなっています。これ以後、義敦も師匠である源内と直武の死の影響か蘭画に身が入らなくなり、秋田蘭画も終焉を迎えました。

太陽がなくなれば、それによって輝いていた星たちも輝きを失ってしまいます。

秋田蘭画のきっかけを作ったイノベーター源内の死によって、秋田蘭画が終焉を迎えたのは必然だったのかも知れません。

この葬儀の際に、杉田玄白は源内を讃える詩を墓碑に刻んでいます。
「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」
(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)
(大意)ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常であったのか

この玄白が残した墓碑こそが、源内を表すのに最適な言葉ではないでしょうか。

エレキテルやうなぎだけじゃない!江戸時代のマルチプレイヤー「平賀源内」

江戸時代の科学者と言えば、平賀源内。「エレキテル」という装置の名前は誰もが聞いたことがあるでしょう。「土用の丑の日にはうなぎを食べる」という風習や初詣でおなじみの「破魔矢」を考案したことでも知られています。

多才ゆえ、「江戸時代のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも称される平賀源内ですが、エレキテルやうなぎのほかにも、多くの業績を残しています。 ここでは、学者、文学者、画家としての平賀源内についてご紹介します。

「学者」としての平賀源内

平賀源内は、現在の香川県、高松藩の足軽の子として生まれました。

成人すると、藩の許可により長崎に留学して、当時の最先端の学問である蘭学を、そして江戸では本草学を学びます。「本草学(ほんぞうがく)」とは、もともとは中国から伝わった薬効のある植物についての学問でした、江戸時代にかけて盛んになり、蘭学などの影響を受けながら現代の言葉で言う「博物学」「自然科学」に発展していったものです。平賀源内は29歳の時、日本ではじめて全国津々浦々の物産を集め紹介した「薬品会」を開きました。

その当時の日本は、鎖国時代。長崎や江戸での学びを通して外国の強大な力を実感した源内は、国力を高める必要性を強く感じます。これまで輸入に頼っていた、生活に有用な薬や物産を自国で賄うことができたら、銀や銅などの海外流出を抑えることになり、富国につながると考えました。

やがて故郷に戻ってきた源内でしたが、諸国をめぐる自由な研究の妨げになると、高松藩を脱藩します。39歳の時博物図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行し、本草学者としての大成を見ます。秩父や秋田の鉱山開発・運営、それに伴う木炭生産や運搬路の整備、毛織物産業の発展、砂糖の精製や薬効の高い人参の自家栽培、陶器作成、など、多くの事業を起こしました。既存のものを既存のままではなく創意工夫を凝らしより効率的な生産を目指す源内の特性や才能が、大いに生かされたことになります。

また、源内は発明家としても大いに才能を発揮します。静電気を発生させる装置エレキテルは有名ですが、ほかにも、石綿を利用した火にくべても燃えない布「火浣布(かかんぶ)」、万歩計や寒熱昇降機、量程器、磁針器などさまざまな発明品を作りました。

「文学者」としての平賀源内

本草学者として活躍していた同時期、平賀源内は、文学の分野でも多くの作品を残しています。

平賀源内は、戯作者「風来仙人」浄瑠璃作家「福内鬼外」と名乗り、風刺や揶揄、滑稽さが際立つ作風で一世を風靡しました。その背景には、学者として活躍をしていた平賀源内の封建の世の中に対する思いがあったとも言われています。

本草学での立身や研究の自由を手に入れるため、高松藩を脱藩、江戸に活躍の場を求めました。しかし藩は、高松藩以外へ仕えることを禁止した、「士官お構」の命が下します。

「士官お構」によって、結果的に自分の技術や知識を生かした立身出世の道が断たれてしまった不満は、皮肉にも風刺の効いた物語を作る上の原動力となったのかもしれません。

「根南志具佐」「神霊矢口渡」「放屁論」など、たくさんの作品を世に送り出しました。その中でも、主人公が不思議な国々を旅してまわる、まるでガリバー旅行記のような「風流志道軒伝」は江戸のベストセラーとなり、明治期までも人気が続きました。

「画家」としての平賀源内

平賀源内の才能は、博物学、発明、文学だけにとどまらず、絵画にも発揮されます。留学中に西洋画に触れ、画法を習得した平賀源内は、日本で初めての油絵「西洋夫人図」を描きました。これまでの日本にはないタッチの西洋画は、見るものを驚かせたことでしょう。

また、鉱山開発のために秋田に出向いた際には、佐竹藩士小野田尚武に西洋画法を伝えたと言われ、当地独特の絵画文化の発展を促しました。平賀源内に師事した小野田尚武はのち、その技術を活かし、有名な杉田玄白解体新書」の挿絵画家となります。

また持ち前の創意工夫の才能を生かし、浮世絵の多色刷り技法を編み出します。この技法は版画界に革命を起こし、以降、浮世絵は単色ではなく多色を使った鮮やかなものになっていきました。

晩年は壮絶だった!

多方面の才能に恵まれ、それを惜しげもなく発揮したマルチプレイヤーとはいえ、平賀源内の晩年は満たされたものではありませんでした。

旺盛な好奇心や、何にでも手を出し挑戦して見せる平賀源内の姿勢は、「キワモノ」扱いをされてしまいます。博物的な知識や技術を持った源内は、豊かな国を作るために必要な人材ではありましたが、故郷高松藩による「士官お構」という足かせため、どの藩や幕府にも就職できませんでした。それでは生活の安定も出世も望めず、やがて平賀源内は受け入れられない葛藤からか世を斜に眺めるようになっていきます。幕府や封建社会に対する痛烈な批判精神はあらたな文学を生み出しましたが、一方では人間不信や被害妄想などが源内を苦しめました。

そして、ついに悲劇はおこります。
懐に入れておいた大切な書類を盗まれたと勘違いした源内は、けんかの末カッとなって人を殺めてしまいました。そして獄死という非業の最期をとげます。
友人で蘭学者の杉田玄白により「非常の人」と墓碑に刻まれ、波乱の人生を終えた平賀源内は、今は静かに東京都板橋の墓所に眠っています。

天才×2!【杉田玄白】と平賀源内の交友関係にせまる

解体新書」「蘭学事始」などで知られる杉田玄白

興味のあることにまっしぐら、新しいことにすぐチャレンジしたくなる好奇心や夢中になるとじーっと同じことを続けてしまう・・・男の子のお母さんなら思わず頷いてしまうようなあるあるですよね。じつはこれ、杉田玄白にも当てはまります。

そんな杉田玄白のもとにはやっぱり似たような人が集まってくるのでしょうか。エレキテルで有名な平賀源内は、生涯を通した交友関係で結ばれていたと言います。そんな天才2人の関係を見てみましょう。

平賀源内との出会い

しばしば江戸のレオナルド・ダ・ビンチと称される平賀源内は、江戸中期の人物です。ダ・ビンチと呼ばれるようことでも分かるようにその活躍分野は多岐にわたり、発明家、本草学者、殖産事業家、戯曲家、画家、など数々の顔を持つ天才です。

さて、平賀源内が本草学者としての頭角を現し始めた30歳前後、現代でいうところの博覧会である「薬品会」を企画開催します。全国津々浦々の物産を集めて紹介したという薬品会は、江戸でも大いに話題となります。そしてその、薬品会が杉田玄白との出会いの場となりました。

年齢も5歳ほどしか離れておらず、天才同士、何か惹かれるものがあったのでしょうか。知り合って以降、平賀源内が獄死するまでの長い間、2人の友好関係は続いていきます。

杉田玄白の「解体新書」にも、平賀源内のかかわりがあった!?

杉田玄白や前野良沢、中川順庵らが尽力し、日本の医学の近代化の礎となった「解体新書」の刊行にも、じつは平賀源内が関わっています。

ドイツの医学書を、オランダ語訳して書かれた「ターヘル・アナトミア」を、さらに日本語に訳す、という一大義業を、4年もの歳月をかけて翻訳をすすめていた杉田玄白らのもとを、平賀源内が訪ねます。そこで源内は玄白から、「翻訳は大体めどがついたが、挿絵を描いてくれる画家を探している」のだと聞きました。解剖図ですので細密かつ遠近法などの西洋の技法をもった画家は鎖国下の日本にはほとんどいなかったのです。

蘭画家としても活躍していた平賀源内は、そこで弟子である秋田藩の「小田野直武」を紹介します。

鉱山開発事業のためかつて秋田に赴いていた平賀源内は、滞在先の秋田で西洋画を伝えています。そして、伝統的な日本的モチーフを扱いながらも西洋の画法を用いて描く和洋折衷型の「秋田蘭画」という一ジャンルが築かれました。秋田藩での仕事を終え、江戸に帰参した平賀源内を追うようにして、江戸勤務の藩士となった「小野田尚武」は、その後も源内に師事していたのです。そのような経緯で「小野田尚武」が、解体新書の挿絵を担当することになりました。

2人の交流を裏付けるように、香川県のさぬき市にある『平賀源内記念館』には、解体新書の初版本が寄贈されているそうです。

源内の死を悼む、杉田玄白

あまりある才能が仇となったのか、多才博学ということは、うがった見方をすればなんにでも手を出す「キワモノ」ということになってしまいます。
研究のため飛び出した藩から言い渡されている「ほかの藩で仕事をしてはいけません」という「仕官お構」という制度のため、どこにも受け入れられず、金銭的な余裕もなくなって、やがて源内は精神的に追い詰められていきます。ついに、ケンカの末の殺人を起こしてしまい、捕らえられてしまいました。
そして獄中で病死という壮絶な最期を遂げたのでした。

現在、東京都は板橋にある平賀源内の墓所は、友人である杉田玄白が建てたものと言われています。

お墓の横に建つ碑には、

『 嗟非常人 好非常事 行是非常 何死非常 』
(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死すや)

という杉田玄白の言葉が刻まれています。

死に方まで非常でなくても良かったのに・・・そんな杉田玄白の悲しみが聞こえてきそうな銘文です。
玄白は医者でしたので、もしも平賀源内が病になったのだとしたら、診察して治療を尽くして看取ることもできたでしょう。老いたなら、病気にならないように二人で養生に励むこともできたはずです。それなのに、このような「非常」の形で終わらせなくてはいけない友情とは、なんと切なく胸に迫ることでしょうか。

杉田玄白が、蘭学の盛り上がりを回想し、解体新書翻訳の苦労話などをまとめた「蘭学事始」では、平賀源内との対話の記録を一項もうけています。そこには「オランダ人が持ってきたパズル(知恵の輪)を平賀源内はあっという間に解いてしまった」「凝った細工物を次に日には複製して見せた」などと臨場感あるれる二人のエピソードが書かれ、杉田玄白の、源内に対するリスペクトっぷりがよく表れています。

西洋の学問である蘭学の草創期に活躍した二人の天才は、互いに尊敬しあい切磋琢磨しながら、そのさまざまな分野の功績は、日本の近代化の礎となりました。 杉田玄白は、平賀源内亡き後も精力的に開業医として人々に尽くしたといわれています。

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