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『風神雷神図屏風』でも有名【俵屋宗達】の絵に迫る!にじみ効果を出す「たらし込み技法」とは?

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空から二神が降りてくる迫力のある俵屋宗達の「風神雷神図屏風」を見たことがある人も多いのではないでしょうか?「風神雷神図屏風」をはじめ俵屋宗達には数々の有名な作品があります。そして、俵屋宗達の描く絵には、数々のしかけがあります。俵屋宗達の世界の秘密をご紹介していきます。

『風神雷神図屏風』にあるしかけ

風神雷神図屏風は、建仁寺が所蔵する国宝で、現在は、京都国立博物館に寄託されています。展示される機会があまりない貴重な作品です。

風神雷神図屏風に関する記録や文献、画面に款記も印章も残されていません。 いつ書かれたものなのかもはっきりわからないのですが、おそらく1630年代後半のものと考えられています。

金箔の背景に左右の二神の風神雷神の姿があります。二神の間には、ぽっかり空いた空間があるにもかかわらず、画面からはみ出さんばかりの躍動感と力強さがみなぎって見えます。風神は黒い雲に乗って、駆けるようにやってくるのに対し雷神は、今舞い降りようとして見えます。

この二神の表情にも面白さが見えます。この風神雷神図屏風には、あるしかけがあり、風神は、ほぼ横からとらえられていて、雷神は下から見上げる視点で描かれています。

屏風の左右で視点を切り替える手法は、この頃の屏風には見受けられる傾向ですが、視点の角度は風神雷神それぞれの動勢と呼応しているように描かれているため、風神の進む力が雷神を通じて上方に抜け、ぐるりと屏風の後方をめぐって、ふたたび風神の背後から突き動かす、円環状渦巻くようなダイナミックさが出るように描かれていることが特徴です。

俵屋宗達の独特の空間のとらえ方により金の平面にもかかわらず、不思議な奥行きを感じさせています。 また、雷神の太鼓をはみ出して描いていることにより画面の外にも世界が広がっていることを印象づけ、風神雷神が屏風を駆けめぐるような印象を演出しているそうです。

また、風神と雷神は、「たらし込み技法」と呼ばれる墨と銀泥を用いて描かれており、黒雲の質量感にあふれるように描かれ、金箔とのバランスをより強調させ、白を基調にしている雷神と緑を基調にしている風神の色使いもまた見た人に印象づける演出となっています。

この空間感覚と色彩感覚も優れた水墨画家でもあった宗達らならではの技法と言われているようです。

『源氏物語関屋澪漂図屏風』に見られる粋なしかけ

源氏物語関屋澪漂図屏風右隻」は、石山寺に赴く光源氏一行が逢瀬の関で偶然、空蝉一行と出会う場面です。向かって右側が光源氏一行、左上が空蝉一行です。

しかし、光源氏は牛車の中にいて姿がみえないまま、空蝉の方も姿が見えないままです。まわりの従者の姿でこの偶然を盛り立てているかのように描かれているのが特徴です。

この時代、源氏物語は多くの人に描かれてきましたが、あえて主人公を登場させないまま描くことで、絵に深みを与えている宗達の技が出ているといえます。

左隻の「澪漂図」は、華やかな姿の光源氏一行が、住吉大社にお参りをしているところに、偶然お参りに船上で来合せた明石の君が光源氏一行の姿を見て、引き返してしまう場面が描かれています。この絵は宗達が三宝院の依頼で描いたものです。

静嘉堂文庫美術館でこの絵を見ることが出来ます。

『蓮池水禽図』にあるしかけ

水墨画でも才能を発揮していることがわかる「蓮池水禽図」は、蓮池を泳ぐ水鳥を、淡い墨を塗り重ねることで、やわらかな光と澄んだ空気を表現している作品です。

「蓮池水禽図」もまた国宝京都国立博物館にあります。

『松島図屏風』は、日本三景のひとつではない

松島図屏風(まつしまずびょうぶ)は、本来は荒磯屏風(あらいそびょうぶ)と言われていたそうです。1630年頃、江戸時代初期に堺の豪商、谷正安が宗達に依頼したもので、澤庵禅師が関山の堺・祥雲寺に寄贈されました。

1902年頃まで祥雲寺にこの屏風はあったようですが、その後アメリカのチャルーズ・フリーアの収集品になり、スミソニアン博物館のフリーア美術館に収蔵されています。1960年代まであまりこの屏風の存在のことは知られていなかったようです。

この松島図屏風は日本三景の松島を描いたものではなく、大阪の住吉付近の海岸を描いたものと見られています。

尾形光琳がこの松島図屏風を模写しており、光林が描いた「松と島の図」がいつしか「松島図屏風」と名前が呼ばれるようになり、その名前が定着すると、この絵の見本となった宗達の「荒磯屏風」もいつしか「松島図屏風」と呼ばれるようになったのではないかという説があります。

俵屋宗達の人物像

俵屋宗達を有名にしたのは、実は扇でした。宗達の描く扇絵は人気があり、その後、宗達の描く料紙にも人気を博しました。この、宗達の料紙を本阿弥光悦が特に好んでいたことから宗達の名前が世の中に広まっていったようです。

俵屋宗達の資料が極端に少なく、正没年月日などは今も不明のままですが、宗達に弟子や師匠がいたという記憶もありません。ただ、宗達は、千少庵、本阿弥光悦、烏丸光広など当時の一流文化人達と親交が深く、宗達の妻は、光悦の従兄弟姉だったようです。

この100年後に尾形光林が宗達の絵を模写し、その画風を学び、継承したことから「琳派の祖(りんはのそ)」と呼ばれるようになりました。また、研究者の間では宗達は古画をよく学んでいたと見ているようです。

宗達の作品の特徴でもある生乾きの水墨に濃淡の異なる墨を混ぜ、にじみ効果を出す「たらし込み技法」が有名です。光悦の書の下絵を描いたり、著名な芸術家の作品にもいくつか携わったりし、優れた功績を残しています。

また、福島正則の命令で平家納経の修復に携わり、皇室からの作画依頼もあった記録が残っているようです。

1630年ころには、僧の位のひとつ「法橋位」を得ています。宗達は絵師としても、一流で教養人であったことは、間違えないようです。

石川県の金沢市にある宝円寺で宗達の墓とされるものにより、1643年9月に宗達が亡くなったという説がありますが、宗達の墓は、京都の頂妙寺にもあるという説もあり、本人の墓かについては異論がでているようです。

宗達の代表作は数多く「白象・金獅子」「雲龍図」「舞楽図」なども現存しています。

風神雷神図屏風だけではない俵屋宗達の興味深い作品に目が離せない!

俵屋宗達と聞けば「風神雷神図屏風」を思い浮かべる人もいるかもしれません。「月に秋草図屏風」は、「風神雷神図屏風」のような迫力ある絵とは異なり、静かな美しさが一面に広がった優しい印象の絵です。

「月に秋草図屏風」は、視点を高くとることで画面の奥の広がりを表し、それぞれに咲いた花の輪郭線を取らずそのまま彩色を入れることで金地とうまく溶け合って見えるように出来ています。

宗達が優れた画家であったことがよくわかると言われている作品のひとつです。宗達の描く絵には多種多様な作品が存在しています。「月に秋草図屏風」を始めとした宗達の絵の技法や知られざる人物像の秘密を詳しくご紹介していきます。

俵屋宗達絵の原点は平清盛(平家)との関係にある

「平家納経 見返し絵」広島厳島神社 (国宝

宗達は弟子と呼ばれる人の記録がないようですが、「俵屋宗雪」という人物が宗達の絵を模写しています。 100年後には、尾形光琳が宗達の絵を詳細に模写し、宗達の絵を学んで継承したことから「琳派の祖」と呼ばれています。

しかし、宗達自身の記録がほとんど見つかっておらず、生没年も定かではありません。わかっていることは、生まれ育った家が絵屋でその屋号が「俵屋」であったことから俵屋宗達という名前になったということです。

1602年平清盛ら平家一門が厳島神社に奉納した「平家納経」の修復をする時に、三巻の表紙絵と見返し絵の制作を宗達が行いました。宗達の記録がわかる最初の仕事です。この頃、宗達は本阿弥光悦とともに料紙装飾の復興もしていました。

宗達の「平家納経」でも見られる多彩な装飾技法にも魅力があるように新しい様式を打ち立てていった人物と言われています。

また、千利休の子供 千少庵の手紙が残されており、そこに宗達が千少庵を招いて茶会を催していたことなどがわかるそうです。このことから、宗達には茶の心得があり、かなり裕福であったことが想像されます。
「千家系図」

宗達の絵の落款や印章から分析して、複数の作者が存在していることがわかったようです。つまり、宗達には工房がありここで複数の人達と絵を作っていたということです。その中に俵屋宗雪もおり、後に俵屋工房の後継者になっています。

俵屋宗達工房では、物語絵や草花絵が制作されており、それらの絵は「俵屋絵」と呼ばれ民間の人々だけではなく、公家や宮廷の人々からも人気があり注文も多く受けていたそうです。

1621年には、徳川秀忠夫人が再建した京都の養源院の襖絵と杉戸絵を制作し、宮廷から「法橋の位(僧位のひとつで武家時代に医師、絵師、連歌士などに与えられた称号)」が授けられました。現在残っている宗達の大画面屏風のほとんどに「法橋宗達」の署名があることから、1621年以降の作品と考えられています。
「松図」京都 養源院 重文
「杉戸絵 象図」京都 養源院 重文
「杉戸絵 唐獅子図」京都 養源院 重文

ここから、もっと詳しく宗達の卓越した絵の世界をご案内していきます。

京都 養源院の絵の経験で「舞楽図」を完成させている

「舞楽図」京都 醍醐寺 重文

舞楽は古代宮廷芸能としてあり、それ以後も伝統芸能として伝えられています。宗達の「舞楽図」には、計算された緊密な構図があり、色彩も色鮮やかで暖色、寒色を交互に配置されています。

養源院の襖絵で金地を邪魔した経験から、同じ総金地を用いながら水平の近視点で松をとらえ、視点を高く遠く対象から距離を取るように構成されています。この試みにより地面を表す金地が豊かな印象を与え画面にゆとりがあるように見せることが出来ています。

雲龍図屏風は、あの風神雷神図屏風の原型

「雲龍図屏風」フリア美術館

「雲龍図屏風」は、宗達の卓越した絵のひとつです。風神雷神図屏風へと発展していく原型とも言われています。

「雲龍図屏風」の特徴は、互いに睨み合う龍の目が的確に描写されており、龍の鱗(うろこ)や波頭には筆を2本使いしてあるか、筆の穂先を2つに割って使っているようです。このように複数の線で描くことで躍動感のあるリズムを与えています。

また、高波のしぶきを表すのに「吹き墨」(霧吹きや細かい目のふるいに硬毛の筆を手早くこすって霧状にして模様を描く技法)を使っています。

黒い雲には「たらし込み」を用いて、龍の迫力を物語ることが出来ています。この「雲龍図屏風」は、アメリカ フリア美術館に秘蔵されており、昭和40年代になってようやくその価値と存在が確認されたそうです。

時代を先取りした宗達

「蔦の細道図」相国寺

伊勢物語」の名場面「蔦の細道」を絵にしたものです。2つの緑の色面で小高く盛り上がった土を表現し、その間を細く横たわるように金地の長い余白で道を表しています。この構成が斬新と高く評価されています。

様式をふんで描くことが好まれた時代に、宗達のような過去の規則にのっとり引かれた線を描くことはなく、宗達の感覚から生み出された技法で描かれた絵をこの時代の人々にどこまで理解されていたかはわからないと言われています。

宗達は時代を先取りした人物と言えます。宗達の絵は時代を経て語り継がれていることからも、いかに優れた絵を描く人物だったかがわかるようです。「風神雷神図屏風」とともにこちらの絵もぜひ、鑑賞してみて下さい。

風神雷神図屏風のルーツに迫る 天神となった菅原道真の分身が雷神!?

風神雷神図屏風と言えば、俵屋宗達が有名です。その後、琳派の一括りとして、尾形光琳、酒井抱一が風神雷神図屏風を模写していることでも知られています。
2015年に京都の国立博物館でこの3点が並ぶ展示会も催され、皇太子さまもご鑑賞されたことでも知られています。

俵屋宗達の風神雷神図屏風のルーツに迫る

「敦煌莫高窟壁画 第249窟壁画」

俵屋宗達風神雷神図屏風を描く以前に風神雷神という絵が存在しています。それは、中国の「敦煌莫高窟壁画第249窟壁画」です。

6世紀の作品で須弥山の下に立つ阿修羅の左右に、風神が頭上で大きく膨らませた風袋を両手につかみ、雷神が両手にバチを持ち、体の周りには小太鼓を連ねた輪が描かています。

宗達の描く風神雷神によく似ていると言われていますが、宗達がこの中国の「敦煌莫高窟壁画第249窟壁画」を見ることは当然不可能なことでした。しかし、日本の宗達がいた時代、全く違うところでここまで似た絵が存在することがとても謎多きミステリアスなことだと言われています。

「北野天神縁起絵巻」
では、宗達が影響を受けた風神雷神はどのようなものなのかというと、有力な説に鎌倉時代の「北野天神縁起絵巻」の図像だと考えられています。この中に登場する雷神は天神となった菅原道真の分身と言われており、雷神の持つイメージが強く印象づけられた絵でもあります。

「北野天満宮」

菅原道真とは、北野天満宮でも知られ、今では学問の神様としても有名ですが、実は、恐ろしい存在だったことはご存知でしょうか?ここで、少し雷神に繋がる菅原道真について触れておきます。

菅原道真は幼少の頃から詩歌を詠むなど秀才と言われていました。宇多天皇に気入られていた道真は天皇の秘書役を果すなどの要職につき、どんどん出世していきます。

しかし、天皇が宇多天皇の息子の醍醐天皇に代わると政治思想の違いから道真に対する不信感を持つものが存在するようになります。中でも藤原時平は道真の出世を快くは思っておらず、醍醐天皇も宇多天皇の影響力があるものを排除したいと考えていました。

時平は、醍醐天皇に「道真が謀反を企てている」というありもしない嘘を言うと、醍醐天皇もこの言葉に乗り、父である宇多天皇に何の相談もせずに道真を太宰権帥として北九州に左遷してしまいます。

北九州に左遷された道真は2年後大宰府で死去し、現在の大宰府天満宮で葬られました。しかし、その後、京都に災いが続くようになります。

まず、道真の陥れた藤原時平が39歳で病死し、続けて時平の息子が急死、道真後任の右大臣源光が死去、醍醐天皇の皇子(時平の甥)が病死、その息子皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)も病死。

道真の左遷が決まった時、異議を申し立てに行った者の行く手を阻んだ大納言藤原清貫も落雷に打たれ死去、道真左遷に伴う会議をしていた清涼殿も落雷を受けます。

醍醐天皇も病に倒れ、皇太子寛明親王に譲位され1週間後に崩御し、醍醐天皇はその後死去するなど次々に死傷者が出ました。また、この時期に自然災害も京都で頻繁に起こるなどしたそうです。

これらのことが立て続けに起こり、人々は道真の祟りと考えられるようになりました。そして、火雷天神が祭られていた京都の北野に、道真の祟りを鎮めようと北野天満宮が建立されたのです。

ここで、話を戻して「北野天神絵巻」は、清涼殿に落雷が落ちた時のことが描かれ、雷神=菅原道真という結びつきになり雷神は、恐ろしい存在という印象が残りました。それゆえにそれほどの力を持つ道真は、いまでこそ学問の神様として崇められているようです。

宗達は、この絵に影響されて「風神雷神図屏風」を描いたと言われています。また、宗達は、風神雷神を単独で描いており、これが今までにない初めての試みだったと言われています。

それまで風神雷神だけが描かれることはなく、何かの絵の中に描かれていることが当たり前になっていたようです。これこそが宗達の際立った発想として高く評価されています。

俵屋宗達 尾形光琳 酒井抱一の風神雷神図屏風

俵屋宗達
尾形光琳
酒井抱一

俵屋宗達が描いた風神雷神図屏風を尾形光琳が模写し、尾形光琳風神雷神図屏風を酒井抱一が模写して出来ています。それぞれの風神雷神図屏風の違いについてご紹介していきます。

まず、俵屋宗達風神雷神図屏風は、白い風袋を抱え軽やかに駆け込んでくるようにみえる風神に、黒い煙のような雲に乗り連鼓を背負って駆け下りてくる雷神がいます。

2神とも怒っているような怖い表情ではなく、笑っているかのような表情が面白さでもあり、そこが逆に怖さを強調して見せています。

宗達の絵の構図には特徴があり、無背景の画面構成が気持ち良いほどはっきりとしているので、絵が浮かび上がるような印象を受け目に焼き付きやすくなるということです。

また、画面の中央に三角の空白が出来ていることで、画面中心上方に奥行きを感じさせるように構成されているそうです。

なにより屏風にすると画面中央がくぼんだ状態になるので、左右の2神がお互いに睨み合うような状態を作り立体的に見えるように計算されているようです。

次に尾形光琳風神雷神図屏風は、宗達より画面を広げて描かれており雲もしっかりと塗り込んでいることがわかります。

また、雷神のショールが連鼓の前に出ているのですが、宗達の描く雷神のショールは、連鼓の後ろに描かれているのが特徴です。これらの結果、光琳の風神雷神は、動きが止まって見えるようになります。

次に酒井抱一の風神雷神図屏風は、光琳の絵を模写して出来ています。抱一は、宗達の絵を見ていないので、宗達の風神雷神図屏風の意図した表現内容は残っておらず形だけが残ったように見えると言われています。

抱一の風神雷神の特徴は、人間的な親しみのある表情が描かれているので、本来の怖さとは違い新しい抱一らしい2神が存在して出来上がっています。風神雷神図屏風にはそれぞれの良さがあり、見る人を楽しませてくれるものです。風神雷神図屏風を見る時の参考にしてみて下さい。


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