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40歳までは八百屋の店主だった!?金閣寺の襖絵【伊藤若冲】の世界に酔いしれる!

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伊藤若冲とは

京都錦小路の青物問屋の長男として生まれた伊藤若冲の家は、地主を兼ねていて裕福な家柄だったようです。この経済的な余裕が伊藤若冲の芸術を支えていたといえます。若冲が生まれた時の両親の年齢は、父が20歳、母が17歳と若く、青物問屋の跡継ぎとして若冲を教育しようとしたようです。 若冲には、弟、妹がいましたが、若冲が34歳の時、父が他界したため、家業の青物問屋を若冲が継ぎました。しかし、商売向きではなかったので、2年間丹波の山奥へ蒸発してしまうこともあったようです。そのせいで、「若冲が病死した」と噂になり、そのすきに山師たちが青物問屋の株を奪おうと画策したため、青物売りの人々が大迷惑したそうです。 事態を知った若冲は、訴訟を起こし、事をしずめ、株が動かないようにし、隠居することになりました。結局40歳まで八百屋の主人をしましたが、その後は弟に店を任せました。 家業を営む傍ら狩野派の絵師に学びましたが、模倣では自分の絵が描けないと、身の回りの動植物を徹底的に観察し描くようになりました。生涯絵を描く以外には目を向けず、妻子を持つこともありませんでした。若冲は「若冲居士」という変わった雅号を持っていました。この名前を与えたのが、禅僧大典顕常禅師です。 大典は、若冲のことを「逆算すれば10代半ばから絵画を執ったことになる。その絵画の取り組み方は、とうてい青物問屋の若旦那の趣味道楽ではない」と記しており、弟子もいたが、若冲芸術を超える人物はいなかったと言っていたそうです。若冲もまた仏門に帰依していたようです。

若冲が名付けた「独楽窩(一人で閉じこもる部屋名)」で描いた「松樹番鶏図」

若冲は、俗事(世の中のいろいろなこと)から逃れて、自分のアトリエに引き込もるのがたのしみだったようです。仏門の帰依していたころの代表作が「松樹番鶏図」です。

金閣寺(鹿苑寺)の障壁画は伊藤若冲が描いている

伊藤若冲代表作と有名なのが金閣寺(鹿苑寺)の大書院の4間、狭屋の間の床壁とふすまの障壁画です。大典禅師は、本職の画家となってわずか4年のキャリアがない若冲の本質を見抜き、後水尾天皇ゆかりの王座の間を含む5間にわたる障壁画を若冲一人に任せました。

伊藤若冲の傑作として声価が高いものの一つが、一間の襖絵面に葡萄図、一間床、違棚、壁貼付絵11面に葡萄小禽図、二の間襖絵に松鶴図(松に丹頂1羽)、三の間床壁貼付絵四面に月夜芭蕉図(芭蕉の木に満月の月夜)、三の間襖絵8面西側4面に芭蕉叭々鳥図(芭蕉の木に飛翔する1羽の八哥鳥、南側襖に芭蕉の木と岩上に止まる1羽の八哥鳥) 四の間襖6面に秋海裳図(可憐な花咲くくさむら)四の間壁貼付1面に双鶏図、四の間襖絵4面に菊鶏図、狭屋の間襖絵4面に竹図です。

伊藤若冲の世界観に心を奪われてしまう水墨画の世界が広がっています。

徳川吉宗将軍期の伊藤若冲

徳川吉宗が将軍になった年から吉宗の政策により、学歴、文化史分野で学芸復興の兆しがみられています。学問、芸術分野の人名録も初めて出版され、そこに記載されているのが、伊藤若冲、池大雅、与謝蕪村といった有名絵師達で、住所の記載もありました。

この住所録から現在の京都の四条と烏丸通りを中心に半径900メートルの中に若冲、蕪村、円山応挙といった絵師達が近所に住んでいたことがわかります。このような状況は非常に珍しく、さらに若冲と蕪村は同じ年生まれの画家で、同時期に活躍していたのも他に例がないそうです。

若冲と蕪村の作品の中に制作年月日に違いがありますが、同じ題材のものを描いている作品がいくつかあります。伊藤若冲筆「鹿図」と与謝蕪村筆「薄に鹿図」や松尾芭蕉百回忌に向けて盛んになった芭蕉顕彰の機運により、若冲、蕪村いずれも「松尾芭蕉図」を描いています。

若冲の「動植綵絵」と相国寺

「動植綵絵」の言葉は若冲が相国寺への寄進状で初めて用いた言葉とされています。動植綵絵は、濃彩、水墨両方の技法の連作したものです。動植綵絵は30幅あり、途中24幅を相国寺に寄進しました。寄進した理由は、直前に弟を亡くしたからと言われています。

相国寺に寄進した際に送った寄進状には「私は、常日ごろ絵画に心力を尽くし、常にすぐれた花木を描き、鳥や虫の形状を描きつくそうと望んでいます。題材を多く集め、一家の枝となすに至りました。

また、かつて張思恭の描く釈迦文殊普賢像を見たところ巧妙無比なのに感心し、模倣したいと思いました。そして、ついに三尊三幅を写し、動植綵絵24幅を作ったのです。世間の評判を得ようといった軽薄な志でしたことではありません。すべて相国寺に喜捨し、寺の尊厳具の助けとなって永久に使われればと存じます。

私自身なきがらをこの地に埋めたいと願い、謹んでいささかの費用を投じ、香火の縁を結びたいと思います。ともにお納め下さいますよう伏して望みます」と書かれています。若冲は、弟の死にショックを受け、没後のことを思いめぐらせていたようです。

若冲のいう香火の縁とは、自分の没後に屋敷1か所を高倉通四条上ル問屋町の町内へ譲渡し、その代わりに町内は毎年若冲の忌日に青銅三貫文を供養料とし、相国寺の常住へ納めるという契約のことだったようです。「釈迦三層像」と「動植綵絵」は相国寺の方丈の飾りに用いられました。

若冲の世界

「老松鸚鵡図」は、鸚鵡に金泥を下地に塗った上に胡粉で細かく毛描きしています。暗い松葉から浮き立たせ眼を漆で盛り上げています。静かな雰囲気を出しているようです。

「伏見人形図」伏見人形は若冲の得意な画材で遺例も多く存在します。土人形の肌触りを巧みに出すために、顔料に雲母(きら)を混ぜているのが特徴です。彩色にも繊細さが表れています。

「仙人掌群鶏図」は、西福寺にあります。引手の下に残る顔料から復元すると、当時はさらに強烈な琳派のパレットに収まらない色調であったようです。若冲の世界観いかがでしょうか?

若冲の死後、遺体は石峯寺に土葬されており、相国寺の寿蔵には、遺髪が埋められたそうです。若冲の世界観に、ぜひ足を運ばせてみて下さい。

伊藤若冲の描く有名な167枚の天井画と総金箔の襖絵に迫る

「花卉図天井画167絵」信行寺(京都)

信行寺にある伊藤若冲の「花卉図天井画167絵」をテレビなどで見た人も多いのではないでしょうか?若冲晩年の作品と言われています。普段は一般公開されていないので、公開された日は、多くの人達が訪れたそうです。そして、西福寺にある「仙人掌群鶏図襖」も若冲の晩年の作品として有名です。信行寺と西福寺にある若冲の色鮮やかな絵について詳しくご紹介していきます。

167枚の天井画から見える伊藤若冲の人物像

京都、信行寺の本堂外陣の格天井には、若冲が最晩年に手がけた「花卉図天井画167絵」があります。元々は深草の石峰寺観音堂の天井画として描かれたものだったのですが、若冲の死後、19世紀中葉に古美術商に渡り、薬種商の井上家5代目(信行寺の檀家総代)が買い求めて寄進したそうです。

「花卉図天井画167絵」は、38cmの正方形に直径33cm弱の円が1枚となっていて、その中に1種類ずつ花が描かれています。60種類近い草花には、若冲のこれまでの作風とは少し違う趣があり見る人の目を釘付けにします。

若冲は、信仰心が強く生真面目で孤独癖があった人物だったと言われていますが、それだけではなくユーモアのセンスもあったようです。ここからは、若冲が85歳で亡くなる少し前の天井画について進めていきます。
朝顔

画面の中心部分はあえて空間にし、円形に沿うように内側に朝顔の花が見えるようにしています。
「牡丹」

花卉図天井画の中で最も多く登場する花が牡丹です。中でも花を裏側から捉えたこの牡丹はとても特徴があります。
「紫苑」

白い小さな花がたくさん花開いている紫苑は、秋の山野に群生していることでも知られています。若冲の描く紫苑にもその美しさが見事に表現されています。若冲の天井画を見て「この花は何の花だろう?」と眺めながら考えるのが楽しさのひとつと言われています。

若冲が描く総金箔の襖絵に迫る

「仙人掌群鶏図襖」西福寺(大阪

若冲75歳の作品と言われている西福寺の「仙人掌群鶏図襖」は、総金箔でこの時代の最も良い質の金箔を使用して描かれています。この「仙人掌群鶏図襖」は、若冲の友人でもある大阪の豪商、薬種問屋の吉野寛斎からの依頼で描かれたものです。

西福寺の檀家であった吉野家は、1788年に若冲が火事で焼け出されていたこともあり、若冲を支援する思いがあったのではという説もあるのですが、火事から2年の歳月を経ての依頼ということから、鎮魂の意味と復興の願いを込めたものだったのではないかと言われています。

吉野家の財力が相当であったことがわかる最高級の金箔を使った襖絵に古来の伝統、めでたいものとされる鶴や松を描くのではなく、鶏を描いているのは、若冲がこの頃には「鶏の絵師」と言われるほど高名だったからということもあるのですが、ひよこには子孫繁栄の吉祥の意味もあり、サボテンの花も再生を感じさせるものという意味合いがこめられているようです。
友人の吉野寛斎は、長崎で海外の薬の買い付けをしていたこともあって、海外から入ってくる新しい動植物にも関心がありサボテンも持ち帰っていました。

この絵に描かれているサボテンは友人吉野家の庭のサボテン園を見た若冲が、この異国情緒あふれる新奇な植物のサボテンと鶏の組み合わせを思いついたのだろうと言われています。

若冲は、サボテンの一本一本のトゲを細かく描き、小さな花もしっかりつけるほど繊密に描いています。このサボテンからも若冲の生真面目さと絵の強いこだわりが垣間見えてきます。

ちなみに長崎オランダ人がウチワサボテンの樹液を石鹸(シャボン)のように使っていたことから「シャボンティ」と呼ばれるようになり、今の「サボテン」と呼ばれる語源になっているようです。

雌鳥は、姿勢を低くし子供を見ている姿が母性にあふれているのがわかります。また、雄鶏のそばで遊ぶひよこの姿がとても愛らしく、子供好きであったと言われる若冲らしい画風といえます。

1枚の襖サイズが177.2cm×92.2cmある大画面に鶏の迫力も際立っています。襖の修理の際に手金具を外してみるとサボテンの緑が当時のまま現れたそうです。今目にしている緑よりさらに色鮮やかな緑であったことから当時は、今以上に美しく色鮮やかな襖であったことが想像されます。
「蓮池図」西福寺(大阪

総金箔で描かれた「仙人掌群鶏図襖」の裏側の襖に描かれているのが「蓮池図」です。仏間であることを意識して描かれたと言われている「蓮池図」は、墨一色なのが特徴です。蓮も再生を意味する象徴と言われています。現在は軸装されていますが、総金箔の上に描かれた群鶏図とは違い静かな空間が漂っているようです。
蓮の蕾が開花し、枯れてまた新しい蕾が出て開花するまでを右から左へと描かれています。左右の蓮が左右の大きな雄鶏と呼応して描かれているそうです。当時75歳であった若冲は、約1年間西福寺に滞在して絵を完成させたようです。
「西福寺」

西福寺では、毎年11月3日の文化の日に、虫干しの名目で「仙人掌群鶏図襖」と「蓮池図」を一般公開しています。若冲晩年の作とは思えないほど力強く迫力のある美しさを堪能してみて下さい。

若冲の絵の技法は、細かく繊細に描かれている

「南天雄鶏図」(宮内庁三の丸蔵尚館)

黒と赤がぱっと目に入ってくる鮮やかで美しい「南天雄鶏図」には、裏彩色という技法が隠されています。

裏彩色とは、表面だけではなく裏面からも彩色をしていく技法です。若冲は、南天の実を裏から「辰砂」と呼ばれる彩色(水銀の硫化鉱物で結晶片が鮮やな紅色でダイヤモンドの光沢がある染料)を施し、表からは赤い染料を施して立体感を持たせています。

裏彩色は古くから仏画などで行われていた技法で、若冲が最初というわけではなかったのですが、若冲の裏彩色には、多くの工夫がされており繊細な作業が施されていることでも有名です。若冲の深いこだわりと信念が見えるこの技法は若冲の魅力のひとつでもあります。
「老松白鳳図」(宮内庁三の丸蔵尚館)

同じく裏彩色の技法を用いている作品に「老松白鳳図」もあります。この作品の裏面には、胡粉(貝殻を焼き砕いて粉末にした白色の顔料)と黄土色を全面に彩色し、表面に羽毛の綿を胡粉で細かく描いています。

このようにすることで、裏に塗られた黄土の黄色が表の描線の間から透けて金色に見えてきます。さらに、表面の白い点と線が交わり、羽が白く輝いて見えるようになりボリュームと立体感が生まれてきます。
「雪中鴛鴦図」(宮内庁三の丸蔵尚館)

「雪中鴛鴦図」の雪には、絵絹の裏と表から胡粉を吹き付けられており、降り積もる雪が不思議な遠近感を作り奥行きのある表現が生まれてきています。これが空気遠近法といわれている技法です。
1998年10月に発行された国際文通週間の切手のデザインにもなっています。

若冲の版画は現在でも再現が難しいわけ

「鸚鵡図」平木浮世絵財団

若冲の「鸚鵡図」は、様々な技法が隠されています。その中のひとつが「拓版画」と呼ばれる技法で、版木の上に濡れた紙を押し当て、凹部に紙を密着させた後に上から墨を叩いて図柄を写しだすやり方がとられています。

白い部分には型紙を用いて筆で彩色し、さらに吹き付けとぼかしを入れて表現されているようです。あまりに繊細で手が込んでいる作業のため現在でも再現不可能と言われています。

この時代に先端技術を作り出していた若冲の世界

「鳥獣花木図屏風」
MIHO MUSEUM「かざり−信仰と祭りエネルギー」展より

「鳥獣花木図屏風」は、「升目描き」と呼ばれた画面を細かい升目で区切りその中を色で埋めていく技法がとられています。お風呂のタイルやデジタル画を思わせる作品としても有名なこの「鳥獣花木図屏風」には、8万6000個もの升目で描かれており、なんのためにこのような労力のいる作品を作り出したのかという声も多く、その真意はいまだに謎のままのようです。

この絵には、23種の動物と霊獣、31種の鳥類と瑞鳥が描かれていて、17〜18世紀以降に日本に入ってきたとされるヤマアザラシ、サイチョウなどの珍獣も描かれています。実際に若冲がこの珍獣を見たといわけではなく、書物からの情報を元に描かれたと言われています。

この「鳥獣花木図屏風」には、「生きとし生けるものは全てが仏になる」という仏教の思想から描かれているようです。頭を丸め仏教に身を注いでいた若冲らしい作品としても有名です。
「相国寺」京都

「若冲」と名付けたとされる相国寺の「大典顕常」の存在は、若冲に大きな影響を与えています。相国寺の「大典顕常」とは、若冲の生涯にわたり深い親交があったようです。

それだけに、若冲の絵は相国寺で描かれたものも多く存在しています。現在でも相国寺の本堂には寺のために尽力を尽くした人物の位碑として「斗米庵若冲居士」と記されて安置されています。

家業をすて10年の歳月をかけて描いた伊藤若冲の『動植綵絵』にみる生命

「動植綵絵 紫陽花双鶏図」宮内庁三の丸尚蔵館蔵

伊藤若冲の「動植綵絵」は、江戸時代に描かれた作品とは思えないほど色鮮やかです。現在でこの美しさを見ることが出来るということは、当時はより色鮮やかだったことが想像されます。ここでは、伊藤若冲の大作「動植綵絵」について詳しくご紹介していきます。

若冲が「動植綵絵」と「釈迦三尊像」相国寺に寄進したかった理由

「相国寺」

「動植綵絵」は江戸時代伊藤若冲によって描かれた30幅になる彼の代表作です。家業の青物問屋を離れて2年後の42歳から51歳のおよそ10年の年月をかけて仕上げたとされています。

「釈迦三尊像」と共に「動植綵絵」は、若冲により相国寺に寄進されたのですが、1889年に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響で貧困になった相国寺から皇室に献納することになります。そして、相国寺は天皇陛下から一万円の御下賜金(ごかしきん)をもらい、寺を存続させます。

補足すると『廃仏毀釈』とは、「廃仏」仏を廃止し、「毀釈」釈迦の教えを壊すという意味があり、神仏習合から神仏分離をしようとした動きのことを表わします。戦国時代から安土桃山時代では、キリスト教の布教とともに小西行長などのキリシタン大名が支配するようになり、神社や仏閣など多くが焼きはらわれました。

江戸時代に入ると神仏分離を唱える動きがますます増えはじめ、その影響で池田光政ら諸大名が自分たちの領内では仏教と神道の分離を進め、仏教寺院の削減をはかりこの動きを抑制しようとします。

その結果、「釈迦三尊像」と「動植綵絵」は別の場所で保存されることになります。そもそも、「動植綵絵」と「釈迦三尊像」を若冲はなぜ相国寺に寄進したのでしょう。その答えは、若冲が絵とともに添えた手紙から見えてきます。

『私は、常日頃から絵画に心を尽くし常に優れた花木、鳥や虫を描き尽くそうと考えております。そして、題材を多く集めて一家の技となるに至りました。また、張思恭(ちょうしきよう)の描いた釈迦文殊普賢象(しゃかもんじゅふげんぞう)を見て巧妙無比なことに感心し模倣したいと思いました。

そして、ついに三尊三幅を写し、動植綵絵二十四幅を完成させました。世間の評判を得たいという軽薄な志でしたわけではありません。すべて相国寺に喜捨(自ら進んで寄付するという意味)し、寺の荘厳具の助けとなって永久に伝わればと存じています。

私自身の亡骸もこの地に埋めていただきたいと願い、謹んでいささかの費用を投資し香家(焼香)の縁を結びたいと思っております。ともにお納め下さいますよう」といった内容です。

その後、相国寺に寄進された絵を見た多くの人々が、完璧なまでに計算された裏彩色をはじめとした若冲の技法に感動したことも記されています。中でも禅僧であったにも関わらず、その職を退き当時高級品として身分の高い人物しか飲めなかったとされるお茶を身分に関係なく多くの人にふるまいながら、禅を説き人々から尊敬されていた「売茶翁(ばいさおう)」が「動植綵絵」を見て感動し「丹青活手の妙、神に通ず」と言ったとされています。若冲は売茶翁のこの言葉に感激し、その後彼の絵をいくつか描いています。

「動植綵絵」を詳しく見る

相国寺で「動植綵絵」が並べられていた様子を復元すると、釈迦三尊像を中心左右対称になるように右側「梅花小禽図(ばいかしょうきんず)」左側に「梅花皓月図(ばいかこうげつず)」、右側「雪中鴛鴦図(せっちゅうえんおうず)」左側「雪中錦鶏図(せっちゅうきんけいず)」右側「芦雁図(ろがんず)」左側「芦鵞図(ろがず)」というように対になるように配列が計算されていたようです。

若冲は、初めからこのような配列になるように計算していたというわけではないようですが、制作の途中からこのような対称的な絵の構図制作を強く意識するようになったと言われています。

室町時代の禅宗の寺院では、本尊(寺院の中で最も中心的な仏像)としての道釈画が三幅対、五幅対の形で掛けられることがあり、その場合脇絵の左右幅では道釈画に無関係の花鳥画や山水画が掛けられました。

これは日本独自の伝統とされています。若冲は、この伝統からさらに飛躍した釈迦三尊像の配置を考え華麗な花鳥30幅を持ってくるという誰もが驚く奇想を成し遂げています。

「動植綵絵 群鶏図」宮内庁三の丸尚蔵館蔵

「動植綵絵」の中の絵について少し触れていくと、雄鶏が13羽描かれた「群鶏図」では、その優美さと複雑に入り込む雄鶏の姿に見る人が圧倒されると言われています。若冲は生涯の中で鶏図を多く手がけていることでも有名です。この鶏は古くから日本にいたとされる地鶏で、唐丸や軍鶏(しゃも)がモデルになっています。

「動植綵絵 南天雄鶏図」宮内庁三の丸尚蔵館蔵

若冲作品の中でも真っ赤な南天の実と真っ黒の軍鶏が鮮やかな絵が「南天雄鶏図」です。「南天雄鶏図」は、細部まで計算した技術と年数を経て完成された若冲の情念が生み出した傑作と言われています。

「月下白梅図」

「梅花小禽図」では、月光に梅花の姿が美しく映し出され、濃淡で変化をつけるという技法がとられた絵です。同一の構図で「月下白梅図」という作品もあります。

若冲にとって「動植綵絵」とは

若冲は輪郭線を描くことはせず、色を巧みに使い分け濃淡や配色により立体感を出すなどの工夫をしています。例えば鳥の白い羽など白を貴重とした色を出す場合、下地に金泥で濃淡をだし、一本一本丁寧に描くことで光沢を出していく計算がされています。

また、花などは、単純な形の繰り返しで表現しているにも関わらず、そこにリズム感や躍動感が強く印象に残るようにしてあります。「動植綵絵」は、若冲が釈迦三尊像を荘厳するために描いた絵とされていますが、それだけではなく、若冲の生命へのこだわり生命力を表した絵でもあります。

その理由は、花、鳥、魚などこの世に生を受けたすべてのものには、仏をうやまい大切に思うという考えが若冲にはあったからです。若冲の細部までこだわり追求するという情念が絵に生命力を与えていくことになります。ぜひ、若冲の「動植綵絵」の美しさを感じてみて下さい。


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