日本画

尾形光琳の見せるリアルな鳥、可愛い動物と筆墨の冴えが際立つ作品に触れる

関連キーワード

京都国立博物館の公式キャラクター「トラりん」は、光琳の「竹虎図」から生まれたキャラクターというのはご存知ですか?「トラりん」はネットでも話題になっているキャラクターです。
光琳が墨絵で描く絵には「トラりん」のようなモデルが生まれるほどかわいい絵も多数あり、光琳の違った画風が見られます。ここでは、光琳の違う一面が見える美しく面白い絵をご紹介していきます。
「トラりん」京都国立博物館公式キャラクター

尾形光琳の幅広い絵の才能

「桜鹿鶴紅葉図屏風」

尾形光琳と言えば、宗達の絵を模写し学んで「琳派」を築いた人物です。花鳥図など光琳の描く作品は、美しさの中に優れた技法が光るものも多いのですが、墨絵で描かれた絵には、どこか優しく軽妙なタッチが面白く可愛い作品も多く存在します。

同一人物が描いたように見えないほど光琳の絵幅の広さがわかります。「竹虎図」(京都国立博物館蔵)もまたその軽妙な墨絵のタッチが漫画のような面白さを感じさせます。  

尾形光琳の鳥はリアルに美しい

「孔雀図屏風」

小竹に緑青が剥落して輪郭線のみが残されていますが、梅の枝は農墨で一気に描かれ、その上から薄墨で幅広く描き、茶系の農墨のたらし込みや緑青のたらし込みが入っています。

また、オスの孔雀の羽毛をくねらせ、抑揚を持たせた羽と羽の波が動静を全体に表し、迫力を持たせているのがわかります。メスの孔雀は、胡粉と群青、緑青を主に描かれていて、羽毛は、胡粉地の上に金泥で羽軸の左右には銀の斑紋が並べられています。

直立した脚、折り曲げられた脚にまで細かい色使いが配色されていて光琳の筆墨が美しい作品です。光琳の絵には多くの鳥が描かれているのですが、その細部に渡り描写力が際立っているのがわかります。

こちらは、「竹虎図」のような軽妙な明るさとは違った美しさとリアルな鳥が描かれています。
「鳥獣写生」

光琳の「鳥獣写生」は、66種類の鳥と3種の獣(タヌキ、モモンガ、ラクダ)計93枚描かれた作品集です。光琳は、狩野探幽の「鳥類写生帳模本」を模写して「鳥獣写生」を描いているのですが、模写したとは思えないほど見ごたえのある作品ばかりで、筆の技量の高さがわかる作品と言われています。

尾形光琳の描く人物画には独特の魅力がある

「草紙洗小町図」

光琳は、花鳥画家としてその名を知られていることが多いのですが、人物画も数多く描いており、その画には独特の魅力があります。
紫式部図」

紫式部図」では、石山寺で窓越しに琵琶湖がうつる月影を見ながら執筆をしている十二単の女性がはっきりとした色調で描かれています。「秋好中宮図」「草紙洗小町図」を見ても光琳の描く平安女性には共通して、しもぶくれでしゃくれた風貌の女性が多いです。
「秋好中宮図」
「禊図」

「禊図」は、伊勢物語の第六四段中の和歌「恋せじと御手洗川にせしみそぎ神はうけずもなりにけるかな」

意味は、「もう恋をしないと決心して神社近くの河で清めて行ったみそぎだが、神は私の願いを受け入れてはくださらなかった」という和歌の描写です。

この和歌にでてくる人物は、在原業平と藤原氏の家来である二条后高子だという定説があります。高子は天皇の寵愛を受ける立場、業平は阿保親王の息子で皇族という間柄です。

業平は天皇の寵愛する高子を横から手を出してしまっているということなので、立場的にも非常に不味い状況が見える一句です。

「禊図」の特徴は、流水の縁に波状曲線で表現されており、そこに人物の視線がそれぞれ外側へ広く散らばり、再び図中に戻るような構成に見えます。主人公がさだめに放心しているさまをまとめあげている作品です。
「三十六歌仙図屏風」

また、光琳の人物画には群衆の描き方に面白い特徴があります。「禊図」でも見られるように各人物に動静の統一感がなく視線が意識的に分散して描かれています。

「三十六歌仙図屏風」は、几帳の陰に徽子女王をわざとかくし、歌仙が一処に会しているという場面を、清らかにで静かなものではなく真逆の構成になっているのが面白さのひとつです。

歌仙たちの視線や動静が調和することがないので、登場人物それぞれに強い個性が垣間見え、その表情や素振りから感情表現がうまく出来ているのがよくわかります。

尾形光琳の個性が見える優しい画

「布袋図」

光琳の描く漢画(中国絵画)には、優しく面白みのある作品が多くあります。その作品は、活気と親しみを感じるもので光琳自身の性格がわかるようにも見えます。
「仕丁図扇面」

光琳といえば、俵屋宗達の絵を模写していることでもよく知られていますが、模写では表されないのが目の表現です。光琳の描く目には、眼下の一角を流し目で睨むようにじろり一方に寄せて描かれることがほとんどです。

この目の描き方が、人物像の性格が見えるようでもあり、光琳の表現力が冴えていることがわかるものでもあります。

「仕丁図扇面」に出てくる人物はどこか朗らかにも見えます。「仕丁図扇面」は、小西家文書中の画稿群の中に「仕丁図」のための下図も残されていて、その人物描写には光琳ならではの優れた技法が光っています。

尾形光琳のまた違った絵の良さにも浸ってみて下さい。

遊び人尾形光琳だから描ける面白く美しい絵に魅了される!

「白梅図」切手

尾形光琳というと日本画史に残る有名人で、「琳派」を築いた人物でもあります。光琳は「琳派の祖」と言われている俵屋宗達が大好きで多くの絵を模写し、宗達の技法を学んでいったのですが、その背景には意外な真相があります。

ボンボン育ちで、親の遺産を使い果たし遊びほうけていた尾形光琳の人物像と絵に込められた面白さと美しさを詳しくご紹介していきます。

尾形光琳の家系から見える真実

尾形光琳の生まれた家は、呉服商で屋号が「雁金屋」と言います。曽祖父の道伯が染色業を始め浅井長政の三人娘淀君、京極高次夫人の引き立てを受けるようになり「浅井家御家来筋のもの」と言われていったのが最初です。

この曽祖父 道伯の妻が「本阿弥光悦の姉 法秀」でした。後に尾形光琳は、この本阿弥光悦の親戚筋ということに深く思いを寄せていきます。祖父の代に移り特権雁金屋が誕生し、豊臣秀頼、高台院(秀吉の後室)、徳川家康、秀忠などの注文を受けるようになります。

秀忠の娘和子が後水尾天皇の女御とし入内し、東福門院になってから呉服の注文も多くなりこの女院が亡くなるまで雁金屋は繁栄したのですが、宗伯の後妻の子宗謙(光琳の父)の代に移り雁金屋は衰退しはじめ、その後家業をやめることになります。

父宗謙が亡くなり、光琳、幹山、助右衛門の三兄弟で遺産を分けることになると、大金を手にした光琳は、毎日遊び続けあげくの果てに家以外何もかも失い散財してしまいます。ここからようやく絵を始めるようになります。

この時、光琳のパトロンになる役人 中村内蔵介との出会いがあり、彼の娘を5年間養育し、内蔵介の世話で自分の息子を銀座役人小西家へ養子にやるなど親交を深めていきました。

少し余談ですが、中村内蔵介の先祖は中村九郎右衛門で徳川家康が伏見に銀座を創立した時、座人として加えられていた人物です。パトロン内蔵介の助けもあり光琳も後に「法橋」の位を獲得し「法橋光琳」の落款も持つようになります。
「中村内蔵介蔵」重文 奈良大和文華館

曽祖父 道伯の妻が光悦の姉であるということで、本阿弥光悦が親戚筋にいることが光琳には大きく、常に光悦を意識するようになり、その芸術の域に強い尊敬と憧れを持つようになります。

光琳は光悦の「光悦鹿之硯箱」を愛蔵し、光琳蒔絵の図案や技術も光悦蒔絵の影響がかなり大きく出ているのもそのせいです。

尾形光琳 「住之江蒔絵硯箱」
本阿弥光悦 「舟橋蒔絵硯箱」
「槙楓図」重文 俵屋宗達筆 山種美術館

尾形光琳が俵宗達を模写する理由

「槙楓図」尾形光琳

尾形光琳が画家として活動しだしたのは、40歳になってからと言われています。それまでは遊びに夢中だった光琳ですが、散財し、画家になることを決意するうちに、憧れを抱いていた本阿弥光悦と共に料紙を作るなどしていた俵屋宗達にも関心が出てきます。

俵屋宗達の絵を多く模写することで技法などを掴んでいきます。これが「琳派」の誕生になります。宗達を模写した作品も多種多様にあります。ここから、光琳と宗達のおもしろく美しい絵に進めていきます。

「槙楓図」は、一見そっくりに見えるのですが、光琳は宗達の絵をそのまま模写しているのではなく、光琳の資質と自分との違いをしっかり自覚した上で光琳らしいオリジナル作品に変えています。

光琳は朱と緑青を強調することで、金地との色彩効果を鮮明にしています。また、2つの木々の位置をわずかに左右広げていき、葉の重なる部分を少なくし槙の葉を平面に並べ明るい色彩で描くことでうっそうとしたイメージをなくしています。

そして、大樹の湾曲を小さくすることで、奥行表現をなくしてしまっています。両者の絵にはそれぞれ違う味わい方が生まれているのがよく分かる作品です。

風神雷神図屏風」 俵屋宗達国宝 京都建仁寺

風神雷神図屏風」 尾形光琳

風神雷神図屏風」は、俵屋宗達の代表的な作品です。この「風神雷神図屏風」の模写も光悦なりの表現方法に変えてあります。

まず、宗達の二神は画面の両端からややはみ出した格好で金地に溶け込むような雲にふんわりと乗り空中をただよっているように描かれています。

それに対し光琳は、二神を画面の中央部にやや下げた場所から雲を墨で黒く塗り込むことで安定した雲を強調し、平面上で二神の相互のかかわりあいを大切に描くようにし、輪郭線をはっきりと描くことで彩色のコントラストも強調しています。

その結果、宗達の二神には、どこかユーモラスの表情と姿勢がこの世のものではない恐ろしさを強調出来ているのに対し、光琳の二神は、どこか現実的すぎたものになってしまい滑稽さが出てきてしまっていると言われています。

光琳ならではの絵の表現がおもしろい作品

「鵜舟図」東京静嘉堂

光琳が45歳前後の作品と思われる「鵜舟図」は、斜めに配置された鵜舟と下の鵜が、右上から左下へ向かい、いったんカーブして右下方向へ展開している構図で描かれており、鵜舟と鵜が波に漂う様子が結びついて斬新な面白みが出ていると言われています。

軽妙な筆使いと水墨を基調に淡彩に描かれたところが光琳のあかぬけた才気に満ちた作品とも評されている絵です。

光琳だから描ける絵にどっぷりはまってみるのもおもしろいかもしれません。ぜひ、光琳の絵を見るときの参考にして下さい。

尾形は上層階級の家柄だった

はじめに、尾形家の華々しい歴史についてご紹介していきます。 尾形光琳、乾山兄弟の家柄は、京都の高級呉服商雁金屋(かりがねや)でした。 尾形家の系図には、元祖は戦国時代末の足利義昭(あしかがよしあき)に仕えていた伊春(これはる)がいます。

伊春の子供、道柏(どうはく)の代から染色業をはじめたようです。道柏は、「浅井殿御家来筋のもの」と言われていたので、その縁から浅井長政(あさいながまさ)の三人娘、淀君(よどきみ)、京極高次(きょうごくたかつぐ)夫人、徳川秀忠(とくがわひでただ)夫人などの引き立てを受けていたようです。

三代目宗伯(そうはく)の代には、豊臣秀頼(とよとみひでより)、豊臣秀吉の後室である高台院(こうだいいん)、徳川家康、徳川秀忠などの注文を受ける特権商雁金屋と呼ばれ、京都上層町衆として繁栄していたようです。

その後、宗伯(そうはく)の後妻の子供の宗謙(そうけん)が雁金屋を継ぎました。この宗謙の子供が、長男藤三郎、次男光琳、三男乾山です。 この当時、上層商人達は、芸事など多趣味で贅沢な暮らしをしていました。 それにより家業が潰れることが多かったようです。

雁金屋もそのひとつで、宗謙は、芸事以外にも大名貸し(金融業)にも手を出し、貸し倒れにあいました。そして、雁金屋は消滅しました。

宗謙は、本阿弥光悦流の書家、和歌や漢詩を読み、絵をたしなみ、能楽にも熱心でした。光林、乾山は、この父の影響を受けているようです。この作品は尾形宗謙作の書です。

尾形光林、乾山は、遊び人

尾形宗謙は、雁金屋を立てなおそうと必死だったようですが、新しい開拓をする才覚にはかけていたようで、1687年に亡くなりました。このとき、光林30歳、乾山25歳です。

父の死後、莫大な遺産がはいったため、生活に支障をきたすことはなく、それどころか酒や女遊びにふけ、遺産を食い潰す散在生活を送っていたようです。光林40歳を過ぎた時ようやく生活を考えだし、絵を生業にしました。

光林の妻は本阿弥光悦の姉であるなど、京都の上流階級との付き合いも深く恵まれた環境にあったため、俵屋宗達(たわらやそうたつ)、狩野派の山本素軒(やまもとそけん)に学んだことにより、狩野淡幽(かのうたんゆう)のスタイルと、土佐光起(とさみつおき)の大和絵の気品と、装飾性をあわせもった画風を確立させていきました。

また、弟の乾山は、二条家から窯を譲られ「幹山窯」を開き、絵付けを光林が行うことをしていました。この絵が評価され、ここから、光琳の本格的な絵の道が開けていきます。

光琳は、屏風絵から、水墨画、陶器の絵付け、扇面、手描き小袖の絵付け、漆工芸品のデザインなど幅広く才能を開花させていきました。

幹山、光琳の代表作のひとつが「銹絵観?図角皿」(重要文化財東京国立博物館(展示されている作品があります。 尾形光琳らしい自由な心で生来の持ち味がにじみ出ている作品としても有名です。

紅白梅図屏風(国宝)は遊郭を匂わせている?!

尾形光琳とは、みやびで優美な伝統を感じさせる大和絵的な描写の中に斬新な構図や画面展開を取り入れ、独自の様式を確立していた人物と言われています。 

そんな光琳の作品の中に「紅白梅図屏風」(国宝)は、「春の訪れを告げているような老木に紅梅も押し寄せる流水に喜び、身もだえするかのように白梅は流水に枝を差し伸べているようだ」と言われています。 

梅と流水というモチーフについて遊興とのつながりをみようとする説もあるようです。 梅にせよ流水にせよ春の訪れを告げるものであるがゆえに、艶冶(なまめかしく美しい)といった意味を含ませているのです。

遊郭を描いた江戸時代の絵には、梅を描いたついたてが置かれていることがあり、この屏風と似た流水紋をあしらった枕絵本があるようです。光琳の遊び人ならではの特徴的な屏風のひとつかもしれません。

この絵は、MOA美術館に展示してあります。

呂尚垂釣図(ろしょうすいちょうず)の画面構成へのこだわり

呂尚(ろしょう)とは、中国の賢人です。光琳が47歳以前に描かれた作品のようです。この絵は、呂尚自体の衣紋線をはじめとして、崖、水際、土波のあらゆる線が呂尚のおへそあたりに集まるように構成されています。

人物を円形の枠の中に収めようとした方法は、画面構成を考えているからだそうです。この作品は、光琳が大画面構成に新しい方向を模索している状態を表すものと言われています。

維摩図(ゆいまず)に見る滑稽さ

維摩(ゆいま)とは、釈迦の教化を助けた在家者のことで、十大弟子(じゅうだいでし)や弥勒(みろく)などの菩薩(ぼさつ)をやりこめるほどの弁舌と知恵を持っている人物とされています。

水墨画では、維摩図は好画題であったようです。命のある全ての生物(人間)の苦悩を一身に背負って病気になり、払子(ほっす)を手にひじかけにもたれかかるさまを描かれることが多かったようです。

その姿は、眼光の鋭さは消えていないというふうに描かれる伝統があり、光琳もまたその伝統を負っています。

しかし、光琳の描く維摩には、がんこで自分の意見を決して曲げず、他人に心を開かないといった維摩の性格を真正面からとらえようとはせず、大きすぎる目、鼻、手つきから滑稽さを浮き彫りにしようとした、屈折した心理が表されているそうです。

住之江蒔絵硯箱にある歌絵とは

古今集の藤原敏行朝臣の歌「住の江の 岸に寄る波 よるさへや ゆめの通路 人めよくらむ」鉛板の岩を貼り、その間に蒔絵で描き、銀板で歌の文字を表しています。

蓋の表「すみの江 に寄よるさへや」、蓋の裏「ゆめの通路人目」、身に「よく覧」の文字があります。

「岸」と「波」の文字がないのは、絵があらわしている「歌絵」(平安時代に好まれた)の趣向で、この硯箱は本阿弥光悦の「船橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえばこ)を模しています。住之江蒔絵硯箱には外側があり、光琳直筆で「鷹峰(たかみね)大挙庵住物 光悦造以写之法橋光琳(花押)」と記されています。

これは、「光悦の蒔絵を模した作品です」という意味になります。この硯箱は、光琳の作品を代表する傑作であると言われています。

尾形光琳は、「光琳模様」と呼ばれた独自の世界観を作り上げました。尾形光琳死後100年を経て、酒井抱一により琳派として復興されています。

遊び人尾形光琳だから描ける面白く美しい絵に魅了される!

「白梅図」切手

尾形光琳というと日本画史に残る有名人で、「琳派」を築いた人物でもあります。光琳は「琳派の祖」と言われている俵屋宗達が大好きで多くの絵を模写し、宗達の技法を学んでいったのですが、その背景には意外な真相があります。

ボンボン育ちで、親の遺産を使い果たし遊びほうけていた尾形光琳の人物像と絵に込められた面白さと美しさを詳しくご紹介していきます。

尾形光琳の家系から見える真実

尾形光琳の生まれた家は、呉服商で屋号が「雁金屋」と言います。曽祖父の道伯が染色業を始め浅井長政の三人娘淀君、京極高次夫人の引き立てを受けるようになり「浅井家御家来筋のもの」と言われていったのが最初です。

この曽祖父 道伯の妻が「本阿弥光悦の姉 法秀」でした。後に尾形光琳は、この本阿弥光悦の親戚筋ということに深く思いを寄せていきます。祖父の代に移り特権雁金屋が誕生し、豊臣秀頼、高台院(秀吉の後室)、徳川家康、秀忠などの注文を受けるようになります。

秀忠の娘和子が後水尾天皇の女御とし入内し、東福門院になってから呉服の注文も多くなりこの女院が亡くなるまで雁金屋は繁栄したのですが、宗伯の後妻の子宗謙(光琳の父)の代に移り雁金屋は衰退しはじめ、その後家業をやめることになります。

父宗謙が亡くなり、光琳、幹山、助右衛門の三兄弟で遺産を分けることになると、大金を手にした光琳は、毎日遊び続けあげくの果てに家以外何もかも失い散財してしまいます。ここからようやく絵を始めるようになります。

この時、光琳のパトロンになる役人 中村内蔵介との出会いがあり、彼の娘を5年間養育し、内蔵介の世話で自分の息子を銀座役人小西家へ養子にやるなど親交を深めていきました。

少し余談ですが、中村内蔵介の先祖は中村九郎右衛門で徳川家康が伏見に銀座を創立した時、座人として加えられていた人物です。パトロン内蔵介の助けもあり光琳も後に「法橋」の位を獲得し「法橋光琳」の落款も持つようになります。
「中村内蔵介蔵」重文 奈良大和文華館

曽祖父 道伯の妻が光悦の姉であるということで、本阿弥光悦が親戚筋にいることが光琳には大きく、常に光悦を意識するようになり、その芸術の域に強い尊敬と憧れを持つようになります。

光琳は光悦の「光悦鹿之硯箱」を愛蔵し、光琳蒔絵の図案や技術も光悦蒔絵の影響がかなり大きく出ているのもそのせいです。
尾形光琳 「住之江蒔絵硯箱」
本阿弥光悦 「舟橋蒔絵硯箱」
「槙楓図」重文 俵屋宗達筆 山種美術館

尾形光琳が俵宗達を模写する理由

「槙楓図」尾形光琳

尾形光琳が画家として活動しだしたのは、40歳になってからと言われています。それまでは遊びに夢中だった光琳ですが、散財し、画家になることを決意するうちに、憧れを抱いていた本阿弥光悦と共に料紙を作るなどしていた俵屋宗達にも関心が出てきます。

俵屋宗達の絵を多く模写することで技法などを掴んでいきます。これが「琳派」の誕生になります。宗達を模写した作品も多種多様にあります。ここから、光琳と宗達のおもしろく美しい絵に進めていきます。

「槙楓図」は、一見そっくりに見えるのですが、光琳は宗達の絵をそのまま模写しているのではなく、光琳の資質と自分との違いをしっかり自覚した上で光琳らしいオリジナル作品に変えています。

光琳は朱と緑青を強調することで、金地との色彩効果を鮮明にしています。また、2つの木々の位置をわずかに左右広げていき、葉の重なる部分を少なくし槙の葉を平面に並べ明るい色彩で描くことでうっそうとしたイメージをなくしています。

そして、大樹の湾曲を小さくすることで、奥行表現をなくしてしまっています。両者の絵にはそれぞれ違う味わい方が生まれているのがよく分かる作品です。
風神雷神図屏風」 俵屋宗達国宝 京都建仁寺
風神雷神図屏風」 尾形光琳

風神雷神図屏風」は、俵屋宗達の代表的な作品です。この「風神雷神図屏風」の模写も光悦なりの表現方法に変えてあります。

まず、宗達の二神は画面の両端からややはみ出した格好で金地に溶け込むような雲にふんわりと乗り空中をただよっているように描かれています。

それに対し光琳は、二神を画面の中央部にやや下げた場所から雲を墨で黒く塗り込むことで安定した雲を強調し、平面上で二神の相互のかかわりあいを大切に描くようにし、輪郭線をはっきりと描くことで彩色のコントラストも強調しています。

その結果、宗達の二神には、どこかユーモラスの表情と姿勢がこの世のものではない恐ろしさを強調出来ているのに対し、光琳の二神は、どこか現実的すぎたものになってしまい滑稽さが出てきてしまっていると言われています。

光琳ならではの絵の表現がおもしろい作品

「鵜舟図」東京静嘉堂

光琳が45歳前後の作品と思われる「鵜舟図」は、斜めに配置された鵜舟と下の鵜が、右上から左下へ向かい、いったんカーブして右下方向へ展開している構図で描かれており、鵜舟と鵜が波に漂う様子が結びついて斬新な面白みが出ていると言われています。

軽妙な筆使いと水墨を基調に淡彩に描かれたところが光琳のあかぬけた才気に満ちた作品とも評されている絵です。

光琳だから描ける絵にどっぷりはまってみるのもおもしろいかもしれません。ぜひ、光琳の絵を見るときの参考にして下さい。


尾形光琳記事一覧はこちら
尾形光琳の見せるリアルな鳥、可愛い動物と筆墨の冴えが際立つ作品に触れる
『紅白梅図屏風』から尾形光琳の技法とこの絵に隠された秘密

▲ページトップ