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只管打座『28歳で座禅理論を確立した努力家、道元禅師の教えとは』

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出典:[Hiroaki Kikuchi]https://ja.wikipedia.org/|https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%B9%B3%E5%AF%BA#/media/File:%E6%B0%B8%E5%B9%B3%E5%AF%BA%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%A0%82.JPG

道元禅師は、唐から日本に曹洞宗の教えを持ち帰って広めた日本曹洞宗の開祖です。
貴族の出であった道元禅師は、帰国後に禅の修行場を求めて京都を離れ、越前の国で大仏寺(後の永平寺)を開かれました。座禅をしている姿そのものに仏性を見出し、修行のなかにこそ悟りがあるという修証一等(修証一如)、余念をまじえずただひたすら座禅を組むという只管打坐の禅を伝えられました。道元禅師の生い立ちやその教えについてまとめてみましょう。

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禅こそが正法と主張し末法思想を否定

道元禅師は鎌倉時代の初め、1200年に生まれました。父は内大臣源頼通、あるいは源通親の子である大納言堀川通具。母は、摂政関白藤原元房の娘の伊子と言われています。幼くして相次いで両親を亡くした道元禅師は、比叡山にいる母方の叔父の良顕を訪ね、14歳のときに天台座主公円について出家されました。それからは仏法房道元と名乗るようになります。

平安時代の天台宗は、加持祈祷などを行うことで、貴族から厚い信頼を受けており、本山である延暦寺の勢いは強いものでした。天台教学は当時の仏教では最先端の学問でもあり、浄土宗の開祖法然・臨済宗の開祖栄西・浄土真宗の開祖親鸞・日蓮宗の開祖日蓮と、のちの鎌倉仏教の礎を築いた僧たちは、みな延暦寺で学んでいます。道元禅師も延暦寺で天台教学を学んだのち、天台宗の教えに疑問を抱き、18歳からは建仁寺で栄西の弟子である明全に師事するようになります。さらに24歳のときに、南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗の如浄禅師のもとで学ばれ、印可を受けられました。

28歳で帰国された後「ありのままの姿がそのまま仏法であり、日々の修行がそのまま悟りである」と、禅の教えを広められ、33歳のときには座禅修行の場として、京都に興聖寺を開かれました。当時、浄土宗や真宗など、新たに興った鎌倉仏教の大半は末法思想を肯定していたのに対して、道元禅師はこれを否定。また、公案を重視する臨済宗に対する批判もされています。

旧仏教からの反発は日に日に強まり、「禅こそが国家護持のための正法である」と書いた『護国正法義』をきっかけに、延暦寺からさらに弾圧を受けることになりました。そこで道元禅師は京を離れて越前に赴き、大佛寺、のちの永平寺を建立して修行場とされました。執権北条時頼、波多野義重の求めに応じて鎌倉に下向された時期もありましたが、権力に近づくことを避けて半年間で辞去されています。後に、道元禅師の弟子によって曹洞宗は教団化されていきました。道元禅師自身には宗派を興す、教団を大きくするという意識はなかったと言われています。

修証一等(修証一如)とは

道元禅師が禅の教えを広めるために書かれた書や、後日、弟子たちが道元禅師の言動をまとめて記した書が今日までたくさん残されています。

初めての著作であり、座禅の実践をすすめるために書かれた『普勧坐禅儀』、生涯をかけて書かれた仏教思想書の『正法眼蔵』、道元禅師の言行を弟子たちが年代別にまとめた『永平廣録』、曹洞教団の守るべき規則や理想を記した『永平清規(典座教訓・対大己法・弁道法・知事清規・赴粥飯法・衆寮箴規)』、弟子の懐奘がまとめた言行録の『正法眼蔵随聞記』、宋で天童如浄に学んだことを記録した『寶慶記』などがあります。こうした書籍から、道元禅師の考え方を知ることができます。

道元禅師の仏法の修業や悟りに関する考え方は、修証一等(修証一如)ということばで言い表されています。これはどういう意味でしょうか。僧からの帰国後、早い時期に書かれたという『弁道話』(のちに『正法眼蔵』の一巻に収録)から、道元禅師の語を引用します。 「それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆえに、初心の弁道すなはち本証の全体なり」 弁道とは「仏法の修行精進すること」。修は「修行」、証は仏教用語で「悟り、修行や仏事の成果を示すこと」という意味です。意味を拙訳すると、「修行と悟りが同じものではないと考えるのは、仏教を信じない者の意見である。仏の教えでは、修行と悟りはまったく等しいものである。現在も悟りを得たうえで修行をしているから、初心者の修行はそのまま悟りの全体なのである」。つまり、悟りは修行した結果もたらされるものではなく、座禅などの修行を行っている姿のなかにこそ悟りがあるという考え方です。

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曹洞宗の座禅は只管打座

「只管打座」ということばは、曹洞宗の禅の根幹にありますが、このことばは宋からの帰国後に書かれた『普勧坐禅儀』にもすでに書かれてあります。この書には座禅の意義や教理がまとめてあり、道元禅師による座禅理論の本であるとともにマニュアルといってもよいかもしれません。また、只管打座こそそが正しい悟りへの道とする宣言書のようにも思えます。以下、引用します。

「およそそれ自界他方 西天東地等しく仏印を持し、もっぱら宗風をほしいままにす。 唯打(ただ)坐を務めて兀地に礙えらる。 万別千差と謂うと雖も、祗管に参禅弁道すべし。 何ぞ自家の坐牀を抛却して、みだりに他国の塵境に去来せん。 若し一歩を錯まれば當面に蹉過かす。」

祗管(=只管)は「ただひたすら」「ひとつのことに専念する」という意味です。「打坐」とは座禅をすることです。拙訳すると「仏のいるこの世界でもほかの世界でも、インドや中国、日本でも、同じ正しい仏法が伝えられているが、これはもっぱら坐禅を行ってきたからだ。ただ座禅ばかりしてほかのことはしなかった。仏道の修行の道はいろいろあるが、ただひたすら坐禅を行うべきだ。どうして自分の座禅を行う修行を放り出して、みだりに他人のつまらない考え方に迷う必要があるだろうか? そんなことをしてはならない。もしも一歩を間違えると、だいなしになってしまう」

この文章を書かれたのは、道元禅師がまだ28歳だったころでした。ひたすら座禅を組むことにかける熱い気持ちが伝わってきます。
自分からは何も言わないが、チャットをされたら答えるという人が多い印象ですね。

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