『「我慢」は「我」の「慢心」』禅の教えで「我慢」は禁物と言われる理由

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座禅といえば、座っていると足がしびれて痛くなる、ちょっとでも動くと警策でたたかれる。スポ根もののマンガやドラマで見た特訓シーンを思い浮かべる人は多いのではないでしょうか。座禅はかつて、根性を鍛える修行と思われていた時代がありました。じっと動かずに集中し、足がしびれる痛みを我慢する。我慢することにこそ修業の意義がある。今でもそう思っている人がいるかもしれません。

禅僧に話を伺うと「座禅は我慢してするものではない」といわれます。また、別の法話では「我慢とは戒めるべきものだ」とさえ言われることも。「我慢」は禅の教えには禁物なようです。

実は「我慢」には、「耐える、こらえる」という意味の「我慢」のほかに、仏教用語で別の意味があったのです。痛みをこらえる「我慢」と仏教用語の「我慢」。そのどちらもが「禅」の精神には不要といわれています。「禅」と「我慢」についてまとめてみました。

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痛みを「我慢」することが座禅の妨げに

足の痛みに耐えることも修行とする考え方がありますが、痛みに耐えることと修行とはまったく別のもの。苦痛が仏道の修業になるということはなく、座禅中の痛みは本来目指すべき座禅の妨げになるといわれています。

「結跏趺坐の姿勢をするだけで痛い修行だよ」そう思われる方もいるでしょう。日本人が苦手な結跏趺坐のポーズは、座禅のもとになったヨーガではパドマ・アーサナ(蓮華坐)と呼ばれています。インド人が瞑想するポーズとしては、長時間座ることができるラクなポーズ。しかも、下半身を締め付けることによって安定し集中力が増す足の組み方といわれています。座禅で悟りを得たお釈迦様も、面壁九年の座禅で禅宗の祖になったインドの達磨大師も、わざわざ痛い思いをするために結跏趺坐をされていたのではなく、ラクに長時間集中して座る座法を選んだら、それが結跏趺坐だったのです。

いったん、座禅を始めたら、5分、10分と無理のない時間の範囲で動かずにじっくり坐るという決意は必要ですが、一定の時間を楽に座れるように姿勢を工夫することは悪いことではありません。座禅中は五感を刺激しないことが大事であるのに、痛みがあっては集中することができません。痛みを耐えることよりも、大切なのは姿勢を調えること、そして息を調えること。この2つができてこそ、心が調えることができると思われます。

道元禅師が著された「普勧坐禅儀」にはつぎのような言葉があります。以下引用します。
「いわゆる坐禅とは習禅にはあらず。唯これ安楽の法門なり」
拙訳すると「いわゆる坐禅とは、悟りを得よう、仏に近づこうとして習い行うものではない。座禅とは、ただ最高の安楽を感じることができる法門なのだ」という意味になります。安楽とは心身の苦痛や思い悩むことがなく、安らかで楽しいこと。座禅が足の痛みを我慢して行ったとしたら、安楽の法門とは大きな隔たりがありますね。

座禅中は、ラクに結跏趺坐を組むことができるように、座布団の上に座ったり、座蒲を使ったりすることが認められています。また、最近は寺社も積極的にいす座禅のすすめを行うようになりました。座禅のスタイルに安楽をもとめることは正しいこと。動くことをこらえることはあっても、痛みを無視するような「我慢」は必要ないものです。

「我慢」は「我」の「慢心」という意味

「自分を押さえて耐える」という意味で使われている「我慢」ですが、本来、仏教用語では「自分を偉いと思い、他人を軽んじる」ことを意味します。文字通り「我」の「慢心」ということですね。仏教では、自分に執着することから、自分を高く見て他人を軽視する心が生まれると考えられていて、慢心は深く戒められています。

仏教の世界観では、この世に存在するすべてのものは、色(肉体、形あるもの)・受(対象を受け入れて感受する働き)・想(感受したものを表象すること)・行(受、想、以外の心の作用)・識(認識の作用)の五つの要素(五蘊)からなり、どこにも我は存在しないと考えられているそうです。

また「慢」は、仏教では心身を悩ませ智慧を妨げる「煩悩」のひとつに数えられています。俗に煩悩は108あると言われていますが、教義によって数はさまざま。その中で六大煩悩とよばれているのが「貪・瞋・癡・慢・疑・悪見」。「慢」はおごりたかぶる心です。ちなみに「貪」は欲が過ぎること、「瞋」は怒りの心、「癡」は愚かなこと、「疑」は疑う心、「悪見」は間違った見解のことをいいます。

「慢」は七種に分類されていて、「我慢」も七慢のひとつ。七慢とは、慢(劣っている人に対して勝っているとうぬぼれること)、過慢(自分と同等の人に自分が勝っているとうぬぼれる)、慢過慢(勝っている人を見てさらに自分は勝っていると思う)、我慢(自負心が強く自分勝手)、増上慢(悟っていないのに悟っている、得ていないのに得ているとおこり高ぶること)、卑慢(非常に勝れている人を見て自分は少劣っていると思う)、邪慢(間違った行いをしても正しいと言い張ること)とされています。

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自分を押さえて耐えるのは「辛抱」または「忍従」

もともと「我慢」は仏教用語の慎むべきこと、絶つべき煩悩を意味していました。おごりたかぶる気持ちから、「我を張ること」「強情なこと」に転用されるようになり、その様子が他人から見ると「(他人の批判や悪い状況にも)耐えて忍ぶ」ように映って、近世からは現在のような意味になったそうです。

そう知ってしまうと、寺院や僧侶の前など仏教に関わり合いのある場では「自分を押さえて耐える」という意味として使うことも、ちょっとためらわれますね。では、「我慢」のかわりになんと呼べばいいのでしょうか。

寺では「辛抱」と呼ぶことが多いそうです。「辛抱」の語源は「心法」ともいわれています。「心法」とは物資である「色」に対して「心」つまり精神的な働きのこと。さらにその心を鍛える修行法をさす場合もあります。自分の「我」にとらわれて強情に態度を変えないという印象がある「我慢」よりも、精神的な修行のためにじっと耐える「辛抱」のほうが、よりポジティブな印象を受けます。

徳目としては「忍辱(にんにく)」ということばもあります。六波羅蜜という、仏道の修行を積んで悟りを得、菩薩になるための実践徳目があるのですが、ここでは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の6つが挙げられています。「忍辱」はいかなる困難があっても耐え忍び、称賛されることがあってもおごらない心持ちをいいます。

座禅中、足の痛みや動きたい気持ちに耐え忍ぶ時間があったとしても、「我慢」ではなく「辛抱」する気持ちで受け止めたいものですね。

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