徳川家康の本拠地、江戸城から発見されたものとは?!北条の名城、小田原城もご紹介!

2016-08-17

関連キーワード

1 江戸城

 江戸城は徳川将軍の居城です。江戸時代には千代田城とも呼ばれました。はじまりは1457年、扇谷上杉氏の執事である太田道灌の築城で、のちの本丸の区域あたりに3つの郭が作られていました。

 1590年、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされたあと、三河・遠江・駿河から関東8州へ国替えされた徳川家康が新たな本拠地として江戸を選びました。これはそれまで、北条氏の居城であった小田原城では西に寄り過ぎているというのと、鎌倉では交通に不便であるということを考慮し、これから町を広げていくということを考えて江戸を選んだものです。この時点では江戸は寂れた村でしかなく、城も小規模な城でしかなかったのです。そして孫の家光の時代まで、3代50年をかけて天下普請に乗り出したのです。

 その結果、外側に外堀をめぐらす渦郭式の大城郭が完成し、総郭内に武士・町人地を取り込んでいきました。

 現在の皇居は西の丸と吹上御苑の地区となっています。西の丸には新宮殿、吹上御苑には吹上御所や宮中三殿などがあり、一般には公開されていません。宮内庁の許可を得て、新宮殿付近の参観をすることはできますが、常に見ることが可能なのは本丸・二の丸あたりの東御苑です。

 東御苑は入り口は大手門、堀をまたぐ土橋を超えると枡形の大手門です。江戸城92門のうち、防備がもっとも厳しい城門です。そこを入ると三の丸です。入門票をもらって直進すると大手三之御門、切込はぎの石垣が非常に美しく見えます。ここはすでに二の丸で、同心番所・百人番所の前を通って櫓門形式の中之御門から枡形の本丸正門に至ります。

 南へ向かえば西の丸へ行きますが、本丸へは正門を入ります。ここは江戸城の中心で11万4千?の広場にはかつては壮大な本丸御殿がありました。設置されている銅版の本丸図で確認すると、南の部分が公式政庁の表、それに続いて将軍の日常生活の場である中奥、ついで女性の世界である大奥があったことがわかります。

 南へ行くと三重の富士見櫓がありますが、鉄柵があって入れません。蓮池堀沿いに北へ向かうと江戸城に唯一現存する多聞である富士見多聞が左側にあります。

 大奥の先に天守台があります。石垣の高さは11m。かつてはこの上に高さ45mの5層の大天守がそびえていましたが、明暦の大火(1657年)で焼失してからは再建されていません。再建に向けて計画図も描かれましたが、保科正之が、「天守は合戦に必要なものであって平和な時代には必要ない。それよりも江戸市街の経済復興を優先するべきである」という意見を出し、また、財政的な負担からも考慮されて再建が見送られたとされています。

 北へ進むと北拮橋門から北の丸へ出ますので、東へ進んで梅林坂か汐見坂を下ると二の丸へ戻ります。このあたりに御殿はありませんが、回遊式の庭園を歩くのもいいでしょう。少し歩くと再び大手三之御門に戻っていきます。

 江戸城に現存する櫓は富士見櫓・桜田櫓と二重橋を入ったところの二の丸伏見櫓の3つです。

 1923年(大正12年)、関東大震災で壊れた土手の改修工事のさなか、伏見櫓の地下から16体の人骨が発見されました。それらは3.6mの地下で2mおきに向き合い、頭や肩には銭が乗せてあったといいます。これには江戸城の人柱説も飛び出しました。

2 小田原城

 北条氏時代の城は非常に巨大なものでした。
北条早雲は小田原に入ると、大森氏の旧城を修築し、本丸からの二の丸・三の丸と拡張し、土塁・空堀も整えていきます。城は次第に拡大し、5代氏直は周囲20kmにも及ぶ土塁・空堀の大外郭をつくり、町全体を囲い込みました。しかし、築城の行われた1590年(天正18年)、豊臣秀吉は小田原攻めを強行しました。これは実権を握っていた4代氏政が秀吉の再三の上洛要請を拒否し続けたことが原因となっています。これにはこの小田原城が堅固な守りで過去に武田信玄上杉謙信の攻撃でも陥落しなかったという実績が北条氏の自信になっていた可能性があります。このときも城内には食料が1〜2年分も備蓄され、多くの農兵が動員されていました。

 秀吉はこの小田原城を力攻めすることはなく、20万ともいわれる大軍で囲み、さらに攻略拠点としての陣城を作らせています。標高260mの石垣山に本丸・二の丸を持つ城を2ヶ月足らずで築かせたのです。完成すると秀吉は小田原城側の樹木を伐採させました。小田原評定中の北条軍は一夜城の出現に驚愕したそうです。その後、北条軍はついに降伏し、あとへは徳川家康の家臣、大久保氏が城主として入りました。

 江戸時代の城は小さくなっていきます。幕府はいったん北条氏の旧城を破壊し、寛永年間(1624〜44)に再築しました。城は本丸・二の丸・三の丸と張り出す梯郭式で、北と南に多くの郭が作られ、本丸には3層4階の天守も築かれました。

 天守は18世紀はじめの大地震で倒壊し、まもなく再建されましたが、明治になって他の建物とともに破壊・売却されました。

 現在の城は本丸と二の丸あたりが残り、天守は1960年に再建されています。

▲ページトップ