世界史

スペイン内戦と一人のチェリストの物語 パブロ・カザルスの『鳥の歌』

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「この歳になるまでいくつもの国を訪れ、たくさんの美しい土地に出会った。でも私の心に刻まれたもっとも純粋に美しいところはカタルーニャだ。目を閉じれば、サン・サルバドルの海岸沿いの海が浮かぶ。(…)カタルーニャは私の生まれ故郷だ。カタルーニャは母のように慕わしい……」
『パブロ・カザルス 鳥の歌 』

 伝説のチェリストとして人々に記憶されているパブロ・カザルス(1876-1973)。彼はその卓越した演奏技術のみならず、国連での『鳥の歌』の演奏をはじめ、フランコによって苦しめられていた郷土カタルーニャの平和を願ったさまざまな平和活動によっても知られています。二度の大戦とスペイン内戦を経験した彼の90年以上にわたる人生から、スペイン激動の時代をたどります。

1. 天才チェリスト パブロ・カザルス

 パブロ・カザルスは1876年12月29日、カタルーニャの小さな村エル・ベンドレルに生まれました。父カルロスは教会オルガニストとして活躍していました。カザルスは早くから音楽への才能を見せ、言葉よりも早く音楽を理解したと言われています。

 カザルスがチェロに出会ったのは11歳のとき。エル・ベンドレルでの三重奏コンサートでチェロの音色に魅了されたカザルスは、家に帰るやさっそく父親に、「チェロを弾きたい」とお願いしました。しかし、あいにく父カルロスは息子が、音楽家になることをよく思っていません。そのとき助け舟を出したのが母ピラールでした。ピラールのおかげで、バルセロナでチェロの勉強をスタートさせることができたカザルスは、みるみる腕を伸ばし、自ら築き上げたその革新的な演奏スタイルは教師をも驚嘆させました。

 カザルスの天才ぶりを象徴するエピソードが伝わっています。時はカザルスがブリュッセル王立音楽院へ転入した1895年。教師が転入生カザルスにレパートリーを尋ねたところ、「なんでも弾けます」との答え。異国スペインから来たカザルスにかねてから嫌悪感を抱いていた教師と生徒たちが、「やつの鼻を折ってやる」といわんばかりに要求したのが、「チェロのパガニーニ」ことセルヴェの難曲『スパの思い出』でした。教師と生徒達の悪意ある期待とは裏腹に、カザルスがこの難曲を見事に弾ききると、教室中が水を打ったように静まり返ったといいます。教師はこの卓越した才能をなんとか音楽院にとどめようと説得しますが、不当な扱いに怒ったカザルスは決して応じませんでした。

 こうしてスペインにおいて天才の名をほしいままにしたカザルスですが、1895年、スペイン王家からの奨学金を辞退し、成功を求めてパリを訪れたものの、機会に恵まれずに貧困生活に耐えなければなりませんでした。

<カザルスと『無伴奏チェロ組曲』>
 1890年、カザルスの人生を大きく左右する出来事がおこりました。父とともにチェロの新しいレパートリーを探していたカザルスは、一冊の楽譜を発見します。バッハの『無伴奏チェロ組曲』。当時、ほとんど演奏されず、わづかにシューマン(1810-1856)による編曲版が知られている作品でした。カザルスはこの忘れられたバッハの曲に目をつけ、長年の練習の末コンサートで演奏するようになりました。カザルスの演奏は日陰に甘んじていた名曲を人々に知らしめ、やがて『無伴奏チェロ組曲』は、カザルスの代名詞ともいえるレパートリーとなりました。

 カザルスは1930年代に『無伴奏チェロ組曲』全6曲を録音しています。この『無伴奏チェロ組曲』のレコードは、音質こそ悪いものの、ノイズのなかから聴こえてくるカザルスの音楽は多くの音楽愛好家の心をつかみ、時代を超えて愛される名盤となりました。カザルス以後、『無伴奏チェロ組曲』はチェリストの主要レパートリーとなり、フルニエやロストロポーヴィチをはじめ、多くの名チェリストたちが録音をしています。

2. 世界的なチェリストへ

 1899年、一旦バルセロナに戻ったのち再びパリを訪れていたカザルスに転機が訪れます。当時の名指揮者シャルル・ラムルーに演奏が認められ、カザルスがソリストとして抜擢されたのです。カザルスのソリストデビューは大成功をおさめ、国際的な活躍への第一歩を踏み出しました。その後も、1901年のアメリカやロシアなどで着々とキャリアを重ね、国際的なチェリストとしての名声を確固たるものとしました。また、カザルスはフランスの名ピアニスト、アルフレッド・コルトーらと友誼を深め、この二人にヴァイオリニスト、ティボーを加えた、カザルス三重奏楽団(トリオ)は名実ともに世界最高のトリオとして活躍し、その演奏は伝説として語り継がれています。

 1914年、第一次世界大戦が勃発すると、カザルスはパリを離れアメリカに亡命しました。終戦を迎えると、カザルスはヨーロッパでの積極的な音楽活動を再開させます。まず、カザルスは故郷カタルーニャにしっかりとしたオーケストラがなかったことから、自らの手で自らの名を冠したパウ・カザルス管弦楽団を結成します。「パウ」とは、スペイン語の「パブロ」に相当するカタルーニャ語であるとともに、「平和」を意味しました。オーケストラの費用はカザルスが負担し、指揮もカザルスが行うなど、まさにカザルスとカタルーニャのためのオーケストラでした。次に、年収の少ない労働者だけが加入できる「勤労者音楽協会」を組織し、会員に向けてパウ・カザルス管弦楽団のコンサートを格安で提供しました。

 スペインの政治にも光芒が注ぎます。1930年、7年続いたプリモ・デ・リベラ将軍による独裁政権が崩壊し、翌年には無血革命によって第二共和政が成立します。カザルスは、この第二共和政成立の式典においてベートーヴェンの交響曲第9番を指揮しています。

 このように順調な音楽家人生を歩むカザルスにも、1930年代という時代の翳りが迫っていました。1933年にはドイツでナチスが政権を握ると、カザルスはドイツでの演奏を一切拒否するようになりました。一方で音楽仲間のコルトーはナチス政権下のドイツ国民に音楽を聴かせようとしたことから、二人は衝突し、伝説的なカザルストリオの活動も終焉を迎えます。

3.スペイン内戦の勃発

 1936年7月、カザルスがバルセロナにおいて、自らが創設したパウ・カザルス管弦楽団と、ベートーヴェンの交響曲第9番のリハーサルをしているさなか、カザルスは一枚のメモを渡されます。それは、スペイン内戦の勃発を伝えるものでした。安全のためにただちにリハーサルを中止することを求められたカザルスは、楽団員に尋ねます。
「さてお別れですか、それとも、この曲を終わりまで演奏してからにしますか。」
楽団員たちは、演奏を続けることを選びました。『歓喜の歌』をカタルーニャ語で歌いあげたとき、カザルスの目には涙があふれていました。そして、カザルスとオーケストラは、平和が訪れたときにふたたび交響曲第9番を演奏することを約束します。カザルスの平和への長く苦しい戦いが始まったのです。

<スペイン内戦>
 1936年7月から1939年3月にかけて、アサーニャ率いる人民戦線とフランコ率いる反乱軍の間で行われた内戦。ソ連と国際義勇軍がアサーニャ政府を支持した一方、ドイツ、イタリアがフランコを支持、内戦は国際紛争の様相を呈した。イギリス、フランスは不干渉政策をとり、政府側を支持せず、政府内部の内紛もあって、フランコ側の勝利となった。反ファシズムのために集まった国際義勇軍には、ヘミングウェーやオーウェルが参加し、内戦の経験を踏まえて、それぞれ『誰がために鐘は鳴る』、『カタルーニャ讃歌』を残した。また、パブロ・ピカソの『ゲルニカ』は、スペイン内戦時のゲルニカ爆撃を主題としている。(参考:『世界史B用語集』山川出版)

4. プラドへの亡命

 3年にわたる内戦の結果、フランコ独裁政権が成立しました。内戦ではフランコに対抗する共和派であったカタルーニャは、カタルーニャ語の使用禁止などの弾圧を受けました。共和派を支援するなど、かねてからフランコに反感を持っていたカザルスは、フランコ独裁政権下のスペインでは演奏しないことを宣言し、亡命。亡命先としてカザルスが選んだのは、フランス南部の小さな村、プラドでした。町にはカタルーニャ語がときおり聞かれ、カタルーニャの文化も息づいていました。このカタルーニャの余香漂うフランスの村、プラドが、カザルスの新たな活躍の舞台となります。

5. プラド音楽祭

 フランコが政権の座につき、カタルーニャへの弾圧を強めた頃から、カザルスはコンサートの最後にきまってある曲を演奏するようになりました。その曲とは、カタルーニャ民謡『鳥の歌』。カザルスにとって『鳥の歌』を演奏することは、望郷の思いの表現にとどまらず、フランコ政権への抵抗の表現をも意味しました。

 第二次世界大戦がはじまると、カザルスはチャリティーコンサートを除いて公開演奏を停止し、終戦後しばらくの間を除いて、カザルスはプラドにこもり、演奏を行いませんでした。転機はバッハ没後200年にあたる1950年。この年、世界中からカザルスを慕う音楽家がプラドに集い「プラド音楽祭」を開催しました。なかでも注目を集めたのが、カザルスの出演でした。70代も半ばに迫っていたカザルスは、ホルショフスキをはじめとする数多くの音楽家たちの勧めに従って指揮およびチェロ演奏を行い、健在を世界に示しました。『鳥の歌』でしめくくられたプラド音楽祭は大成功を収め、音楽祭は継続されることとなりました。1957年には、多くのカタルーニャ人が住み、カザルスの母ピラールの生まれた地でもある第二の故郷プエルトリコで「カザルス音楽祭』がスタートしています。私生活ではおよそ60歳差婚、夫婦でプエルトリコに移住しました。

6. “Peace Peace Peace”

 再び活動をはじめたカザルスは、1958年、ニューヨークの国連本部で演奏を行い、その模様は世界中に中継されました。1961年には、アメリカホワイトハウスで演奏し、この時の演奏を収めたレコードは歴史的名盤として未だ語り継がれています。いすれのコンサートでも『鳥の歌』が演奏されました。

 1971年、90歳を超えたカザルスは、国連平和賞を受賞しました。その授賞式の場で、「わたしはカタルーニャ人です。」と述べ、常に平和を希求してきたカタルーニャの歴史を語ります。次の言葉はそれに続く有名な一節です。
「今から、カタルーニャ民謡の1曲を演奏したいと思います。El cant dels ocells、『鳥の歌』です。天空の鳥たちは、”Peace Peace Peace”と歌うのです。 」

 1973年、カザルスは96歳でプエルトリコにて亡くなりました。その2年後、フランコが死去し、1978年にはカタルーニャ自治州が発足しました。1992年のバルセロナ・オリンピックではベートーヴェンの交響曲第9番が演奏され、開会式には『鳥の歌』がカタルーニャ語で歌われています。21世紀に入ってスペインからの独立の気運高まるカタルーニャ、はたしてカザルスの願った平和は訪れるのでしょうか。

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