日本画

エロおやじに変貌『葛飾北斎の底を流れる官能生活は、精力絶倫の彼だから遊蕩を必要としたと言っても過言ではない』

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葛飾北斎が幼少のころは、「モノの形状を写す癖あり・・・」と言われていた。

北斎の姓はもともと川村で、「葛飾」は号です。浮世絵師が常に「勝川」「喜多川」「歌川」と称した例にならって出生地の本所が、もと葛飾だったので「葛飾」をもって姓としたのです。宝暦、明和の時代は浮世絵の全盛初期でもあったことから「鈴木春信類本」が続出しました。「谷中笠森稲荷の茶屋女おせん」、「浅草奥山の柳屋おふじ」などの美人が評判と重なって、鈴木春信が錦絵にこれらの女性を描いたことで、一気に江戸民衆の心を遊蕩に導いた時代にあり、このような淫蕩的な空気の中に北斎は育ってしまいました。聡明なたちだった北斎がわずか6、7歳の幼年であったとはいえ、絵師を志していた彼の目に、春信の誘惑にみちた美人画がどんなに美しく、なまめかしく映ったかは想像できるでしょう。世の中の人が女絵に魅惑されて夢の中をさまよっていた?この明和2、3年のころ、北斎は絶えず半紙に絵を描いて楽しんでいたのです。

15歳の頃には木版彫刻師に師事して彫刻の技を学ぼうとしましたが、地味で陰気な作業の木版彫刻術は北斎の性格には適していなかったようです。世の遊蕩気分の誘惑の中で、しばらくの後、彼は木版彫刻習うのをやはりやめてしまいました。その後まもなく勝川春秋の門人となり、あこがれの浮世絵という画法を正式に習うことができたのは、北斎18、19歳の時でした。

葛飾北斎は「北斎漫画」と称してコミックか?絵手本か?「読本」ブームが到来!

江戸時代には多くの人が絵に興味を持つようになりました。読本の販売が熱を帯びてきて、物語はもちろん、そこに添えられた挿絵への興味が目立つようになります。
「読本」とは江戸中期から幕末にかけて流布した小説の1ジャンルで仏教的因果、そしてそれらの理念に基づいて、和漢混交の文体を用いて複雑なストーリーを展開させるものでした。代表的なものには上田秋成の「雨月物語」や建部綾足の「本朝水滸伝」などが生まれました。これに遅れて江戸では、18世紀末に山東京伝と曲亭馬琴により「読本」の執筆がはじめられて、この二人の競作を軸に多くの作品が生み出され「読本」の一大ブームが訪れることになったのです。この時代、文学的ジャンルの本を馬琴のストーリー、北斎の挿絵という二人三脚で大評判となっています。

★ここで面白い馬琴の逸話が残されています。
稿本のとおりに少しも違わず描くのは故人の北尾重正と歌川豊国、そして国貞だけですが、これは彼らの筆が自由自在であるからです。北斎の筆ももちろん自由自在ですが、挿絵とはいえ自分の絵だから作者には従わないと考えているため、北斎はわざと位置を振り替えてきます。だから北斎に描かせる場合は、右に置きたい人物はわざと左に描けば、必ず右に描いてくるというのです。
度重なる転居癖などとともに、北斎の天邪鬼ぶりを示すものとして理解されています。

葛飾北斎の墨使いとベロ藍(ブルシアン・ブルー)の効果

北斎の「読本」挿絵の特徴として一つ挙げられることは、基本的に墨一色摺りという制約を逆手にとって、黒の面を効果的に用いていることです。具体的には背景を漆黒に擂り潰して暗闇を表現していることで、この技法は北斎の読本に限られることではないのですが、人物の緊張感ある配置、モチーフなどの効果は抜群といえるでしょう。「富嶽三六景」の中で使われた藍摺10枚は今までの植物性の藍色にはない鮮烈な色感で多くの人を驚かせました。この顔料が名所絵で空や水面を摺り出すのに効果的であり、今までの藍に比べて風景や空間の奥行が表現できることを実証してくれたものといえるでしょう。ほかの絵師たちもこぞって藍の濃淡を使って、それまでの風景画にはない新鮮な感覚を見せています。また、今までの北斎の単調な浮世絵と違って遠近の大胆な対比と幾何学的な画面の構成による構図は独特の味を見せてくれたのです。

歌川広重と葛飾北斎の違い

名所絵の風景画として一世を風靡して「富嶽三十六景」から「富嶽百景」まで楽しませてくれた北斎でしたが、またしても彼の素直でない性格が影響し、風景のリアリティへの違いが現れています。北斎のもつ斬新な視覚を強調させたり、見る人へ感嘆させる方法を選んだりという造形へのこだわりが、徐々に広重の風景をリアルに表現する方向へ観客が移動していったというのが本音のように見てとれます。名所絵、花鳥図のいずれの分野でも、後から出てきた広重が大衆性のある親しみやすい画風で人の心をひきつけ始め、版元もそのような動向には敏感に反応したので、北斎としてもこれらの分野から手を引かざるを得なくなり、関心を失っていったことは否めません。しかし、その当時としては、今でいうものの見方をデフォルメさせて描く技法を使って強調しているのには驚きと北斎の冒険心を垣間見ることができるように思います。

最葛飾北斎の「画本彩色通」は子どもたち、初心者への贈り物

晩年の北斎絵手本や絵本は、初心者がそばに置いて筆使いからモチーフの形態構図を学ぶことができるように描かれた性格のものといえるでしょう。数少ない貴重ともいえる本格的な絵手本です。これは北斎が世を去る前年(1848年)89歳に刊行されたものです。初編の挿入文には以下のように綴られています。

「画を好める児童のためにとて成し安きさゐしき(彩色)のみをくり出して一小冊となし彩色通と題す」。

大半は花鳥、山水、人物などの彩色法に関して、下処理からはじまり細部の彩色まで詳細かつ具体的に示したものであり、長い年月をかけて獲得した北斎自身の画技を画壇に対して伝え残そうとした宝物といえます。

葛飾北斎、晩年の肉筆画

北斎は80歳を越えたころから精力的に肉筆画を描いているが、若いころに見られた浮世絵本来の風俗画(美人画)のしなやかな人物画表現や色鮮やかな色彩などとは違って、強烈な姿態描写や鮮烈で刺激的な配色が主体になっています。

かぞえ90歳で老衰・・・・・当時の世で長い人生を謳歌できた葛飾北斎は異例づくし

老衰で死を迎える前年に描いた自画像を大阪天王寺の私立美術館で観ると、あの形相といい、迫力せまる顔の表情は「まだまだ描きたい」と訴えているように思えます。

北斎の天才といわれる所以は、やはり固定した自分の作風に安住しないこの絵師の凄さにあるのではないでしょうか?常に新しい試みへの挑戦を続け、そして自分の持つ絵技を子どもたちや、絵に興味を持つ初心者への伝承をも大切にして残そうとした絵師「葛飾北斎」の見事な人生に驚愕するとともに、これからも大切にしなければいけない彼の作品の数々、なまめかしい美人画・春画だけでなく、日本の象徴ともいう富士の山を舞台に四季折々を交えて、リアルにそして彼なりのデフォルメを見せてもらえる「富岳三十六景」、読本にあるお化けや妖怪の世界、虫や植物の繊細な絵図、幼いときの環境となっていた郭に生きるエロの世界を浮世絵に描いてきた天才・葛飾北斎のすさまじい人生は語りつくせぬものが多すぎるようです。

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