加賀百万石の本拠地、金沢城と中部地方を彩る浜松城と犬山城

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1 金沢城

 別名尾山城とも呼ばれる加賀百万石の本拠である金沢城は一向宗の尾山御坊(金沢御堂)に始まります。寺院という形をとってはいましたが大坂石山本願寺と同じく、城塞のような建物でした。織田信長と激しい戦いののち敗れ、信長は跡地を1580年に佐久間盛政に与えました。盛政はここを城郭として改修を行い、巨大な平山城としての体裁を整えました。信長の死後、賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉と柴田勝家が争うと勝家についた盛政は戦死し、秀吉は金沢城を前田利家に与えました。利家は1592年から大規模な改修を行い、堀を拡大し、五重の天守や櫓を建造しました。ここに百万石の大名の居城としての面目を存分に保つ城が完成したのです。

 城は二重の堀と石垣で囲い、本丸を中心に二の丸・三の丸と広がっていく渦郭式縄張で築城され、城下を組み込んでいきました。しかし1602年には落雷によって天守が焼失。代わりに三階櫓が建てられましたが、1759年の宝暦の大火でその三階櫓も焼失し、天守や三階櫓は再建されることはありませんでした。

 往時の面影を残すのは搦め手正門だった二の丸の石川門(重要文化財)や、本丸付壇の三十間長屋(重要文化財)などに過ぎません。また近くには日本三名園の一つに数えられる兼六園があり、一見の価値があるところです。

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2 浜松城

 浜松城の前身は今川貞相が築城したといわれる曳馬城でした。後に今川氏親の配下である飯尾氏が居城としたあと、徳川家康が領有します。家康はそれまでの居城であった岡崎城を長男の信康に譲り、南西の高台に浜松城を拡張して築き、それ以後、家康が江戸に入るまでの17年間を過ごしました。その間、城の近くで武田信玄の軍と三方ヶ原の戦いがあり、家康は大惨敗をして城に逃げ帰っています。そのときはわざと門を開けて空城のように見せることで窮地を乗り切ります。

家康はそのときの自分の情けない姿を絵に書かせ、それからその絵を見ることで自分の戒めとしたということです。北条氏が小田原城で滅亡したのち、家康は大規模な国替えとなります。北条氏が治めていた関東八州に移動となったのです。そして元の家康の領土であった駿河・遠江・三河が豊臣秀吉に没収されると堀尾吉晴が城主として入ります。家康が政権を取り、江戸時代に入ると城主は代わりますが、幕府中枢の人間がよく入ったりすることから「出世城」と呼ばれたりもしました。天保の改革を行った、老中・水野忠邦もここの城主です。

 城は三方ヶ原台地南端部の傾斜地に築かれています。南北約500m、東西約450mの地に西から東へ本丸・二の丸・三の丸が階段状に並ぶ梯郭式縄張になっています。天守は当時の絵図面にも描かれておらず、存在しなかったと考えられます。本丸にあった二重櫓が天守の代わりに使われたようです。また、明治時代には廃城とされたため、ほとんどの建物が失われました。1958年の復元天守と野面積みの天守台石垣がそのときの様子を偲ばせます。

3 犬山城

 木曽川の南岸、はるか断崖の上に見える白亜三層の犬山城は、唐の詩人である李白の詩にちなんで荻生徂徠が白帝城とも名づけました。白帝城は中国の古い時代の城で三国志で有名な劉備が亡くなった城でもあります。

 戦国時代に織田信康がそれまでにあった砦を改修し、現在地南東の木下城から移ってきたと言われています。その後、子である信清があとを継ぎますが、織田信長と対立した結果、信長に奪い取られます。それから池田恒興や織田信雄と城主が代わり、江戸時代になると尾張徳川家の付家老である成瀬正成が入り、それから成瀬家は9代続きました。

 明治になって廃城となり、多くの建物が撤去されていきました。残された天守は濃尾地震(1819年)をきっかけに、旧藩主であった成瀬氏に城の修復を条件に譲渡されました。それによって犬山城は日本唯一の個人所有の城となったのです。しかし2004年には財団法人白帝城犬山文庫に移管されました。

 城は標高80mの山上にあります。17世紀後半の絵図面によると梯郭式縄張で、本丸から南へ二の丸(樅の丸・杉の丸・桐の丸)、三の丸(松の丸)が張り出していて、その西と南には侍屋敷が広がっていました。また、山麓には東・南・西の三方に外郭が構えられました。

 野面積みの石垣の上に立つ天守は三層四階(ほかに石蔵二階)になっています。塗りごめの壁と黒塗りの下見板の外壁をもつ一・二階の入母屋の屋根の上に望楼をのせた前期望楼型の天守になっています。かつては美濃金山城の天守の移築説が有力でしたが、解体修理の際に移築の痕跡がないことがわかりました。屋根の唐破風はのちに付加されたものでありますが、増改築の時期については二説があって定まっていません。

 内部は一階が城主の居住の間で、周囲に武者走りがあり、二階は武具の間、三階は破風の間、そして四階は高欄の間で望楼の役を果たしていました。戦国時代初期からの古式の姿を現在にも残す天守は極めて価値の高いものです。

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