日本画

「鉄斎」の魅力。画家で儒学者、神官とさまざまな顔を持つ富岡鉄斎とは

2016-11-14

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画家で儒学者、神官とさまざまな顔を持つ富岡鉄斎という人物の名前を聞いたことはあるでしょうか?富岡鉄斎は、画家を目指していたわけではありません。しかし、世間は画家としての鉄斎の魅力に惹きこまれました。

「前世は画家だったのだろう。今生に筆をふるって画を描くのは定めし輪廻だろう」と鉄斎は自分のことを詩にしています。画家を本業とは思いたくなかった現れのようです。鉄斎の魅力を詳しくご紹介していきます。

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富岡鉄斎は、世界的にも有名な画家

「一休戯謔図」布施美術館蔵

一休は、山科の寺に蓮如を訪問したちょうどその時、蓮如は外出して不在でした。一休は、仏壇の阿弥陀像を倒してしてしまいます。一休は、阿弥陀像を枕に大いびきで寝てしまいます。

しばらくして、蓮如が帰ってきてこのありさまに驚き一休の肩をたたき「お前が、わしの米びつを倒したら、わしは困るがな」と言いました。一休は目を覚まし起き上がり、2人で手を叩いて大笑いしたという一面を画にした作品です。

このようなユーモラスな画を描いた富岡鉄斎とは、世界的な画家と言われるほどの人物です。国内の評価も非常に高く生涯「私は、画家は本職ではない!」と言い続けながらも、画家としての名声を高めました。

過去に武者小路実篤、棟方志功、など多くの文学者や画家、評論家から絶賛されるだけではなく、国外でもブルーノ・タウトをはじめ多数の外国人から賞賛され続けています。

鉄斎死後にこれまでにないほど多くの画集が出版されたり、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアの西洋諸国やアメリカ、ブラジルなどの諸外国で遺作展が開かれたりしています。このような功績をあげた人物は鉄斎以外にはいないそうです。

鉄斎は幼少のころから学者を志し、その学問の領域は桁違いに広く、石門心学(さまざまな宗教、思想の心理をわかりやすく身近な例を使い説いていく)、国学、陽明学(知識と実践は、相ともない一体化すべきだという哲学)詩文などを学んでいました。

鉄斎が遊戯だという絵画にしても南画、大和絵、狩野派、琳派など多くの画を学んでいます。しかし、鉄斎は終世、博学者として生きていくことを望み画家として称されることを嫌っていました。

大きな展覧会など出展することもなかった鉄斎でしたが、世間は鉄斎を放っておかなかったようです。世間の目を集め続けた鉄斎は、石上神宮、大鳥大社の神主を務め、40代半ばで京都に戻り京都市美術工芸学校の「修身」を教えています。

そのスタイルは、自身が学んだ様式、技法にとらわれることなく、極めて自由奔放な独創的なものだったそうです。ここから、鉄斎の画の世界をご紹介します。

ジャンルが広すぎる富岡鉄斎の画の魅力とは

「大江捕魚図」東京国立博物館

鉄斎の「大江捕魚図」には、川を真ん中にして働く漁師たちの姿が描かれています。日本か中国か現実なのか理想郷なのか見る人の目を離さないもので、大胆でありながら繊細、不思議な力があると言われています。

日本の画壇の外にいたにもかかわらず画の評価は非常に高かった鉄斎は、帝国美術院会員にもなりました。鉄斎本人にしてみれば画家で名声を得ることは、本来の願いではなかったようです。あくまで鉄斎は、儒士として活躍していきたいと願っていました。
「阿倍仲麻呂明州望月図」重要文化財

阿倍仲麻呂は20歳の時に遣唐留学生として当時の中国に行き名前を「朝衡」に改め玄宗に仕えて、李白や王維などと文明を挙げました。そして、30年後、遣唐使藤原清河にしたがってやっと日本に帰国することになります。

そのとき、送別宴の席で東の空に浮かんだ月を見て「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」(大空をはるか見上げると東の空に月が出ています。あの月はふるさと春日にある三笠山に出ていた月と同じでしょうか)と日本に帰れる喜びをしみじみと詠みました。その歌は、そこにいた一同が感涙を流したという百人一首にもなっている有名な句です。

しかし、阿倍仲麻呂は出航した舟が難破したため日本へ戻ることが出来ず、再び中国の朝廷に仕え日本に二度と戻ることはありませんでした。その話を鉄斎が画にした作品です。
「掃蕩俗塵図」

「燕居筆記」に載っている明の王陽朝の文章を元に描かれた作品で、鉄斎の理想としている自己の清らかな精神世界を象徴しているものだそうです。鉄斎は、着色に派手なものと渋いものの2種類を使い分けて描いています。この「掃蕩俗塵図」は、渋い色調の代表作と言われています。
「盆踊り図」高島屋史料館蔵

久邇宮朝彦親王の命令により制作した作品が「盆踊り図」です。鉄斎は浮世絵も学んでいたことがよく分かる作品と言われています。空中の提燈に「鉄斎」の名前が描かれ、ぶらさがっているのがおもしろい作品と高く評価もされています。

鉄斎は文人画家だから書筆しか使わなかったと言われていたようですが、この作品は刷毛(はけ)を使って描かれていることがはっきりわかるものです。

当時、鉄斎は、刷毛を使うから嫌いだと言った人も出てきたようですが、鉄斎はそんな批評はまったく気にもしていなかったそうです。むしろ、筆の代わりに墨の棒をそのまま紙にこすりつけて描くこともあったほど大胆な手法をとることもありました。
「餐水喫霞図」金剛峯寺蔵

弘法大師空海の「遊山慕仙詩」から選んだもので「水を餐み霞を喫う」の意味です。空海が中国の南山に修行をした景色です。空海を訪ねてきた新羅道者に贈った詩の一節のようです。

鉄斎は、この詩を画にしています。真っ黒の山水の画に中国の人は「墨猪墨豚」と言って嫌ったようですが、鉄斎は「真っ黒なのは俗気がなくて良い」と言っていたそうです。

富岡鉄斎の魅力が語る

富岡鉄斎は、89歳で他界しています。鉄斎の作品は今日までに残っているものも莫大な数に達しているようですが、偽物も10倍20倍とも言われています。

そのため、鑑定も非常に難しいそうです。鉄斎が魅力ある人物ということの現れとも言えます。

富岡鉄斎の描く絵は天皇陛下にも親しまれたほどの優美さを持つ

「富岡鉄斎」

日本美術会や世界中で名前が知られている人物が富岡鉄斎です。彼は、1時間に3枚程度の書画を仕上げることが出来たと言われています。70歳代の富岡鉄斎が一年間で描き上げた書画はなんと313点ということもわかっています。

富岡鉄斎の書画は、戦争、震災などを経ても多数現存しているということですが、一般に公開されている作品は、その一割にも満たないそうです。そこで、天皇陛下からも親しまれていた富岡鉄斎の貴重な書画について詳しくご紹介していきます。

富岡鉄斎の絵は皇族の人々にも愛されている

「旧蝦夷風俗図」 東京国立博物館蔵

富岡鉄斎は、儒家や神官としても知られています。明治2年に東京遷都(都を東京へ)が行われることになり、天皇の東への移動に従って鉄斎も東京に向かうことになります。しかし、妻の(中島華陽の娘)たつが亡くなったため急いで京都に戻ってきます。

妻の死後、「称呼私弁」「山陽詩註」の出版をして学者としての名前も知られるようになっていた鉄斎は、自分の座右の銘でもある「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実行するように日本各地を旅して歩くことを決めます。

明治5年には、大洲藩士佐々木禎三の娘ハルと再婚しますが、一ヶ月もたたないうちにまた、旅へ出かけることになります。「旧蝦夷風俗図」は、鉄斎が北海道を旅した時の絵で「目、耳、鼻、口をいまだに開けていない自然のままで手が加えられていない」という意味を表す荘子の句を書き、アイヌの生活の様子を表現しています。

その後、妻子とともに大和の石上神社、堺の大島神社の神官として尽力し、余暇をつくっては歴代の天皇の御陵の実地調査を行っていました。さらに、老廃した神社の復興など多忙な日々を送っていたようです。

「瀛洲僊境図」宮内庁蔵

明治六年に天皇陛下に拝謁(はいえつ)を賜り、神宮斎王でおられた久邇宮殿下(くにのみやでんか)にも拝謁することができ、7月に日本の位である「正七位」を授かります。これが縁となって宮家と鉄斎の繋がりが深くなっていきます。

「群仙祝寿図」

それから、久邇宮京都別邸で催された「大文字鑑賞会」に招かれるようになると、そこからは、何度も久邇宮家へ書画を納めるようになっていったようです。現存している作品として有名なのは「瀛洲僊境図(えいしゅうせんきょうず)」「群仙祝寿図(ぐんせんしゅくじゅず)」です。

瀛洲、方丈、蓬来山は、「三神山」として知られています。長寿にあやかりたいとする人々が、瀛洲や蓬来山の絵を鉄斎に依頼しに来ることが多かったようです。その依頼に答え鉄斎は、多くの「瀛洲僊境図」を残しています。

鉄斎は、死ぬ3日前にも「瀛洲僊境図」を描いています。その絵は、長年お世話になっていた医師に贈られたそうです。最後に描かれた「瀛洲僊境図」の筆致は、90歳とは思えないほど優れていることでも有名です。

富岡鉄斎の優れた書画には物語が隠されている

「二神会舞図」東京国立博物館蔵

日本のみならず世界中から愛されている富岡鉄斎は、絵の修業を20歳前後から始めています。驚くことに鉄斎の美しい絵は、すべて独学で習得した技法です。鉄斎は、多くの画家の絵を真似して自分の技術に変えたのでした。

その絵は、狩野派、大和絵、琳派、浮世絵、大津絵と様々なジャンルの流派を研究し、高山寺の鳥獣戯画、池大雅、与謝蕪村の「十便十宜」を一回ではなく何回も模写しつづけたそうです。

鉄斎は「わしの絵は盗み書き」とみずから言っていたという話も残されています。鉄斎の絵の見どころは、その画力だけではなく絵から知ることが出来る物語にもあります。 「二神会舞図」から見える物語は、天孫降臨(天照大神の命を受け、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)は、葦原の中つ国を収めるために高天原から日向国の高千穂三峰へ天降る)の際に、猿田彦が一行の進路をふさいでしまいます。

その時、一行の先導にたっていた天宇受売命(あまのうずめ)が自分の豊かな胸を開いて話し合いをはじめたのです。ついには猿田彦みずからが、天孫の道案内をしたという神話を題材にしています。二神の表情が見ごたえのある絵として知られています。

「魚藍観音像」布施美術館蔵

「魚藍観音像」は、中国の金沙灘に魚売りの美女が現れたことから始まります。多くの男性が結婚を申し込むと、美女は婿選びのコンテストのために「普門品(ふもんぼん)」「金剛経」「法華経」などを次々に暗記させることをします。

最後に勝ち残った馬氏の息子と結婚することになりますが、結婚式の直前に美女は急死してしまいます。やむなく美女は墓に葬られましたが、後日ひとりの僧侶が現れて馬氏の息子とともに墓を開くことをします。

墓を開いてみると黄金の鎖子骨があるだけでした。僧侶は「これは、観音がお前を教化するために出現されたのだ」と言い残し飛び立ってしまったという物語があります。この物語から「魚藍観音像」は別名「馬郎婦観音」とも呼ばれています。

この絵の筆致を見るからに鉄斎が明清画の研究もこと細かにしていたことが立証されているようです。富岡鉄斎の真面目な人柄がわかる美しい絵をぜひ、鑑賞してみて下さい。

富岡鉄斎の美しい絵には人間味あふれた力が宿っている

富岡鉄斎は、神官や画家、儒学とさまざまな分野で活躍していました。「群僊祝寿図」の中央の寿老人は鉄斎の自画像で自分の長寿を祝った絵と言われています。どこかユニークな絵を描く鉄斎は、いつも「わしの画を見るなら、まず賛を読んでくれ」と話していたそうです。そこで、鉄斎の絵と鉄斎の残した言葉から彼の魅力について詳しくご紹介していきます。

富岡鉄斎から仏心を解釈する

「古仏龕図(こぶつがんず)」

「賛を読んで画を見ること」と鉄斎は言っていますが、彼の賛をすべて1字1句正確に読むことは難しく解読出来ないそうです。しかし、鉄斎自身が語る絵と言葉に彼の人間性が垣間見えてきます。

「古仏龕図」の古仏とは、悟りを開いた者。龕は、仏像をおさめる厨子(ずし)のことを表します。岩窟の中にいるのは、布袋、維摩(ゆいま)、達磨(だるま)、観音、魚籃観音、阿弥陀如来です。

この絵の両脇には本来鉄斎の書で「求仏求仙全妄想」「無憂無慮即修行」と対句で記されています。わかりやすく説明すると「われわれは、もともと不生不滅の仏心をそなえ持っているのであって、それを惜しい、欲しい、憎い、可愛という誤った思いから生まれる執念に変えなければ、そのまま仏なので、そのうえさらに修行をして仏になろうとしたり仙人になろうとしたりするのは全くの妄想である。生まれつきの仏心のままでいて憂いや考えをめぐらせることを起こさないことが修行というものだ」という意味になるようです。

「王元之竹楼記図(おうげんしちくろうきず)」清荒神清澄寺蔵

「王元之竹楼記図」は、宋(中国)の官吏の王元之が黄州に流された時、竹楼二間を建てて役者を退出して暇な時間にその竹楼で鶴の羽毛の衣を着て、華陽巾(かようきん)をかぶり、手に『易経(えききょう)』を持ち、お香をたいて黙座し、浮世の雑念を忘れ去ったという内容の「黄州竹楼宝」という文が元になっています。

「竹楼は、黄州府治の東にある。規模はたいそう小さい。揚子江に南面し、帆かけ舟や魚鳥の眺めが素晴らしい。王元之の建記に『遠方に山が見え近くに揚子江がある。

ひっそりと、また広々としたこの眺めはつぶさに形容することが出来ない』とある。詳しいことは竹楼記にある。だから、くだくだしい説明は省略する」と、この絵に対する鉄斎の説明書きがあります。鉄斎の人間性が見えてくる説明書きがとてもおもしろいところです。

「教祖渡海図」東京国立近代美術館蔵

「教祖渡海図」は、儒教、道教、仏教と教義に違いがあっても命のあるものすべてを救う点で結局同じであるという思想を表しています。達磨がかじをとり、さまざまな聖者たちが丸木舟に同乗しているのがわかります。

賛に「人参、甘草、白朮、陳皮。中に毒薬少林の一技あり。」と書かれています。これは、室町時代の禅僧万里周九の『梅花無尽蔵』から引いていて、「釈迦、孔子、老子諸聖の教えは、衆生の病に応じて与える薬のようなもので、言うなれば人参、甘草、白朮(びゃくじゅつ)、陳皮のように作用のおだやかな薬草のようなもの。だが、少林寺に面壁九年の修行をした達磨の禅は、作用の激烈な苦い薬で、おおいに効き目がある」という釈文になるようです。つまり、少林寺を薬に見立てて言っているのです。鉄斎は、このような画題を好んで多く描いています。

長寿を目指し、ますます精力的な富岡鉄斎の絵

「釈尊出山図(しゃくそんしゅつざんず)」

鉄斎が83歳の時一人息子の謙蔵(46歳)が亡くなります。その追善供養のため菩提寺に納めた絵が「釈尊出山図」です。

この賛の釈文は「この釈迦如来の手形のある所では、もろもろの神々がお守りくださること、仏の親族の如くであろう。もしこの手形を大切にして供養すれば、国を太平にし家を守り、悪を去り、邪を駆り、利益福徳がかぎりもないであろう」と記してあるそうです。

83歳になった鉄斎は、「謙蔵が死んでみると、わしもなかなかもうろくするわけにはいかん」と言って、それから多くの絵を意欲的に描くようになっていたと伝えられています。

「福禄寿図」清荒神清澄寺蔵

「福禄寿図」は、鉄斎の親友の石川三碧の高寿を祝って贈られた絵です。

寿老人は中国の南極老人星の化身とされる七福神のひとつで、頭が長く、短身の老人で、いつも鹿を連れているという特徴があります。鹿は録と同音、蝙蝠(こうもり)の蝠(ふく)は福と同音になり、寿老人のそばには鹿と蝙蝠を描くことで福禄寿となります。

賛には、「真に大いに富貴にして、また且つ寿考なれ。永く福禄に綏(やす)んぜよ。宜(むべ)なり爾(なんじ)子孫」と書かれています。「大いに富に栄え長生きして下さい。長く福禄を受け、御子孫繁昌なさいますように」という意味になるそうです。

85歳の鉄斎が友人に「長生きして下さいよ」と描いた「福禄寿図」には、ものすごいパワーが宿っているように感じませんか。

富岡鉄斎のユニークな絵

「双寿搗餅図(そうじゅうとうへいず)」清荒神清澄寺蔵

「双寿搗餅図」は、大阪の古書籍商鹿田松雲堂の子息の結婚祝いに贈った絵です。賛の釈文は「あなた方は、瓢箪(ひょうたん)を2つにわって作った杯で酒を飲むという婚礼の儀式を行って新たに夫婦となられたが、おふたりとも長生きして沢山の子孫を餅をついて養育してください」という内容のようです。鉄斎の「餅をつく」=「子作り」と解釈することが出来るおもしろい絵です。

「聚沙偽塔図(しゅしゃいとうず)」清荒神清澄寺蔵

「聚沙偽塔図」は、『法華経』の方便本に出ている「沙(すな)を聚(あつ)めて塔を偽す」という句が元になります。

子供が砂を集めて塔を作るという些細な遊びが、すでに仏道を成し遂げるものであるという大乗仏教の精神を説いています。この絵の子供達が愛らしく、塔を作る遊びが色鮮やかで楽しげに描かれているのが目を惹くところです。

「三老吸酢図(さんろうきゅうそず)」清荒神清澄寺蔵

蘇東坡(中国北宋の詩人、政治家)が黄山谷(中国北宋の詩人、文学者、書家)と共に仏印禅師を訪れた時、仏印が桃花酸を出してもてなします。3人は、その酢をなめて共に顔をしかめたという故事が元になっているのが「三老吸酢図」です。

この絵には、釈迦、孔子、老子が酢をなめて顔をしかめた三聖吸酢図をもじって描かれています。

「宰相になるには、五斗の酢を吸うほどの苦労をせねばならぬと古人が言っているが、東坡は平素、おれは気の大きな人間だと威張っていたのに一滴の酢が口に入ると、たちまちしかめ面をした。とても五斗の酢を吸えそうにない。

だから移り変わる世の中に入れず、宰相になれなかったのも当然だ。たまたま、この三酸図を見たので、この文を書いて一笑する」と鉄斎がこの絵に記しているところがまた、おもしろさを引き立てています。

鉄斎の絵と言葉から彼の思想や温かくユニークな人柄が見えてくるのではないでしょうか。ぜひ、富岡鉄斎の美しくおもしろい絵を鑑賞してみて下さい。

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