仏像

仏教界の革命児的存在、運慶作品

2016-11-30

関連キーワード

夏目漱石に『夢十夜』という作品があります。夢を題材にした、今で言うオムニバス形式の物語なんですが、そのなかに運慶に関する話がありました。第六話にあたるお話で、「仁王像を彫る運慶を見物する」というもの。主人公は「運慶は木を削って仁王像を『作って』いるんだ」と認識しますが、隣にいた男から言われるのでした。「仁王像を作ってるんじゃない。木のなかに埋まった仁王像を取り出してるんだ」。分かるような分からないような、といったお話です。運慶には木のなかにとっくに仁王様の姿が見えており、周りの余分な木をどかしている、ということなのでしょう。つまり、仏師としてそれだけ優れているということなんですね。しかし何がそんなに惹きつけるのか。何故、数ある仏師のなかでも飛び抜けて有名なのでしょうか。

スポンサー

仏像の作風変遷

運慶の作風としては、「写実的」というのがまず挙げられます。それまでの仏像は、もちろん有難味こそあれど、どこか現実味というものがありませんでした。だからと言って、別にピカソの絵画のような分かりやすい歪み方をしていたわけではありません。しかし、仏教が日本にわたって来たばかりの飛鳥時代の仏像は平べったく、にっこりとしたアルカイックスマイルという笑顔が基本であったそうです。奈良時代後期にはすでに人間に近い体型となり、そののち、平安時代定朝という仏師の出現で、日本の仏像界は激変します。平安時代の終わり頃に現れたこの人の作風は、なだらかで優雅な曲線が特徴的です。しかもそれだけではなく、それまでの仏像がどこかしら中国、唐の影響を受け引きずっていたのに対し、定朝の作品は完全な日本風でした。その曲線の優美さが、優雅に笑いながら蹴鞠を行い、行事を行う雅な平安貴族の好みにぴったりと合ったようで、「定朝様(じょうちょうよう)」という流派のように発展したようです。
運慶はそんな定朝の7代目の子孫ということです。師匠は、実の父康慶。名前に「慶」の字が付く流派はいつからか「慶派」と呼ばれるようになりました。ですが、名仏師の家系だと華々しくデビューしたわけではありません。運慶の属する通称「奈良仏師」は定朝の子孫とは言え「オマケの傍流」といったところでした。それが今では「一番有名」と言っても過言ではない大仏師にまでなったのは、政府との多少のつながりと運慶自身の才能があったからでしょう。しかし、そんなつながりだけで1000年も名前が残るでしょうか?そう、才能が本物であったからです。

スポンサー

運慶の略歴

父親が分かっているのにもかかわらず生まれた年は不明。12世紀半ばくらいと推測されています。父康慶は興福寺が拠点の奈良仏師でした。円城寺の大日如来座像(1176年/安元2年)がデビュー作となります。1183年(寿永2年)には一族ほぼ総出で法華経の写経(通称「運慶願経」)を完成させています。平清盛の命令による南都焼討で焼失した伽藍・仏像復興のため、有名な京都仏師ともども興福寺の再興に参加しました(南都復興)。このとき、食堂を任されたメジャー派のトップ、成朝は「頼朝様が勝長寿院というお寺の阿弥陀様作るように頼まれてるから鎌倉に行く」とそちらへ向かったと『吾妻鏡』に記されています。運慶達は引き続き興福寺の再興と仏像修繕に努めました。共に焼失した東大寺の虚空蔵菩薩像の修繕も、父子共同で行います。ちなみに、西金堂でお釈迦様を彫っていたそうです。その頑張りが認められたのか、鎌倉幕府から仕事が入るようになりました。その作風は男性的。写実的ながらもたくましいもので、武士の好みに極めてしっくりときたようです。奈良仏師独自の技法、目の部分に玉を入れる玉眼も相まってのリアルさ、迫力を増した慶派の仏像は人気を呼ぶのでした。 ちなみに運慶には経歴に空白期間があるのですが、頼朝の奥州討伐の際、そこにあった寺院に似せ、犠牲者の霊を鎮めるよう命じられて永福寺の建造に携わったのではないか、という説もあるようです。これで鎌倉幕府とのつながりができたようです。

運慶の作品

有名仏師とは言え、意外と「運慶作品です」と判然としているものは少ないんですね。「それは、これそうかな、いや違うかなあ」というものも多々ありますし、戦国時代等で焼けてしまったものもあるためです。運慶の作品とはっきり分かっているのは、以下の数点になります。先に述べた奈良県円城寺の大日如来坐像。これは「康慶の弟子の運慶が作った」と示すサインが入っているためまず間違いナシ。
静岡県の願成就院の阿弥陀如来坐像・不動明王と二童子の像・そして毘沙門天立像、いずれも国宝です。さすが運慶作ですね。
神奈川県浄楽寺にある阿弥陀三尊像・不動明王と毘沙門天の立像も作っています。
それだけではなく、後代の仏師たちがこぞって真似する方法をはじめて行った、仏師界のコロンブスの卵的な造像を行いました。仏像というもの、実は納入品という者があります。場合によって小さな仏像だったり、お経だったり仏師のサインだったりするものですが、運慶以前の仏師はこれを台座に乗せ、その上に仏像本体を被せるように置くのが通常でした。そのため火災などのときに上のメイン仏像だけが避難させられ、納入品は置き去り状態になっていました。ドラマなどである「私の子がまだなかに」状態になるわけです。運慶はそんな事態を防ぐため、体内に入れられるように実行しました。これで、多くの納入品も救われたわけですね。南都復興での経験が生きたということでしょうか。
奈良県東大寺南大門の金剛力士像も運慶の代表作といっても過言ではないでしょう。通称仁王様です。
厳密には息子を含めた慶派の人々と共に造像したものです。あまりに大きいため、パーツを分けて作り、ガッチリ合わせるという手法を採用しています。阿形だけでほぼ3000、吽形で3100を超えるパーツから成ります。運慶は、それを2ヵ月で完成させるなど、プロデュース能力を発揮しました。ちなみに、基本的に仁王像は向かって右が阿形、左が吽形なんですが、こちらは左右逆。また正面ではなく、中央を向いています。これは見る側に与える迫力等を計算した結果のようです。天才は違います。運慶が担当したのは阿形の方で、快慶との共同作業です。「金剛力士像を完成させるんだ!」という心意気が伝わりますね。

ほかにも、興福寺の北円堂の弥勒仏やその脇侍・四天王・無著・世親兄弟羅漢像などがあります。ただし、現存しているのは弥勒仏及び二体の羅漢のみです。 神奈川県にある称名寺巧妙員の大威徳明王像ほか、大日如来や愛染明王も作ったのですが、残念なことに大威徳明王の台座もろとも現存していません。

まとめ

中国に、このような話があります。丹霞(たんか)という僧侶がいました。洛陽という場所にある慧林寺に寄った、寒さ厳しいとある夜。何かを思いついた丹霞は、恐れ多くも寺にあった仏像を燃やして暖をとっていました。当然ほかの僧侶から「何をするのだ!」言われますが、平然と「舎利(お釈迦様の遺骨)を出そうとしてたんだ」と返します。「仏像にお遺骨が入ってるわけない」「では単なる木の像ですね」といったやり取りがあったかどうか。大事なのは像をありがたがることよりも、自身のなかの仏を磨くこと、ということらしいです。
『夢十夜』の運慶の話も、木のなかにある仏を取り出そうという意味なのかも知れませんね。中国の僧侶の話は悟りを得た者のひとつのパターンですが、見る者を圧倒し、感動させた時点で何らかの仏が心に生じるのではないでしょうか。それが仏像に芸術的価値を与え、国宝にまでおしあげているのです。
そこにあるのは単なる木でも粘土でもありません。仏師の魂、まぎれもない仏の心の結晶です。一般人にとっても非常に価値ある仏像を、より魅力的にしてくれた運慶という人物は、まぎれもない偉人です。聖人かも知れませんね。

    ▲ページトップ