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春日局ゆかりの古社! 南宮大社へ行ってみよう!!

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岐阜県不破郡垂井町に南宮大社があります。
美濃国一之宮で、当地出身の春日局が深く関係している神社です。
数キロメートル西には関ヶ原古戦場があり、歴史好きたちが訪れている場所です。
そして、地元の人々から「南宮さん」と呼ばれ、親しまれています。
南宮大社は大きな鳥居と、緑に囲まれた朱色の社殿が特徴的で参拝客の目をくぎ付けにします。
そこで今回は南宮大社の魅力をご紹介します!

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南宮大社のご祭神と歴史とは?

南宮大社の主祭神は金山彦命で、彦火火出見尊と見野命が配祀されています。
神代には、日本の国土を産んだ伊邪那岐命と伊邪那美命という夫婦の神様がいましたが、伊邪那美命は火の神様・迦具土神を産んだため、やけどを負って亡くなってしまいました。
怒った伊邪那岐命は迦具土神を殺してしまい、そのときに産まれたのが金山彦命です。 金山彦命は文字通り、金運招福や製鉄・鉱業、山の神様といわれています。

また、弘文天皇元年(672年)に起きた壬申の乱で、吉野を脱出した大海人皇子(のちの天武天皇)に、南宮大社の宮司が味方し、勝利しました。 そのことからこの地を「不破郡」と名付けられ、宮司も大領(長官)になりました。 そのため、「破魔除災」のご利益もあるといわれています。 社伝によると、初代天皇・神武天皇が東征する際、金鵄(金色のとび)を助けて霊験を顕したといわれています。 そして、当郡府中に祀られ、第10代崇神天皇の御代に美濃仲山麓の現在地に奉還されました。 そのころは「仲山金山彦神社」とよばれていました。 天慶3年(940年)には、平将門の乱の誅伐の勅願を行ったり、康平年中(1058年~65年)には安部貞任追討の神験により、正一位勲一等の神位勲等が与えられ、源氏や北条氏、土岐氏など武将の信仰を集めました。 そして、国府の南方に位置するため、明治時代には「南宮神社」、戦後には「南宮大社」と改められました。

朱塗りの社殿が鮮やかな南宮大社ですが、関ヶ原の合戦により焼失してしまいます。
寛永19年(1642年)、西美濃出身で江戸幕府第3代将軍・徳川家光の乳母である春日局の願いにより、家光の手で再建されました。 また、家光はなかなか子供ができず、春日局に「南宮大社で祈祷してもらってはどうか」と、助言しました。 すると、祈祷がかない、嫡子・家綱を授けることができ、家光はたいへん喜びました。 そして、南宮大社に小判7千両を寄進しました。

鉱業守護や破魔除災、武神だけではなく、子宝にもご利益がある南宮大社。
その広大無辺なご神徳で、人々を守っています。

金山祭を見てみよう!

毎年、11月8日に「金山祭(通称・ふいごまつり)」が行われています。
金山祭は地元の野鍛冶の奉仕で、古式ゆかしい鍛錬式が行われます。全国から鉱山や金属業関係者が参拝し、南宮大社の祭事のなかでも一番重要で人気のあるお祭りではないでしょうか。

金山祭は、ご祭神が府中から現在の地に遷座された日に由来する鎮座祭です。
鍛錬式では朱塗りが美しい高舞伝で行われます。 前日に神様を迎え、当日に神職や烏帽子をかぶり直垂姿の野鍛冶、楽人が集まって身を清めます。 宮司が火打ち石で点火する所作をし、あらかじめ火を起こしてあった炉から鋼を取り出します。 鋼は見るからに熱そうなオレンジ色をしており、奉行3人が鍛錬します。 そして、出来上がった小刀は神前につつしんで供えられます。

厳かな雰囲気に包まれる中、昔ながらの鍛錬式をみる金属業関係者などは、これまでの感謝とこれからも業務上の事故が起きないように祈願します。

みなさんもぜひ、金山祭をご覧になってください!

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白玉椿が描かれた絵馬を奉納しよう!

南宮大社は白玉椿がご神木です。
本殿を取り囲むように白玉椿の木があります。
花が咲く春ごろ、境内はたくさんの白玉椿に彩られ、さらに華やかさがアップします。 また、白玉椿が満開に咲くころに「高山社祭」という神事が行われます。 南宮山の山頂付近に高山社の奥宮があり、神職が祝詞奏上し、玉串をつつしんでお供えするなどの神事が行われます。 奥宮にもたくさんの白玉椿が咲き、この神事は別名「椿祭」ともよばれています。

神社によると、白玉椿の木は樹齢を重ね、見上げるほどの高さがあるものが多いといいます。
椿は古来の中国では90歳の長寿のお祝いを「椿寿」とよんでおり、とってもおめでたい花なのです。 そして、椿の霊力により、悪魔を追い払うという故事もあります。

南宮大社では、宮中で毎年「豊明節会」が行われるたび、大社の巫女が白玉椿の枝を献上したと伝えられています。
また、社務所では白玉椿が描かれた「椿絵馬」(初穂料1000円)を授与しています。 持って帰りたくなるくらい、かわいらしい絵馬です。

南宮大社のシンボル、白玉椿。
ぜひ、その美しさを堪能してくださいね。

いかがでしたか。
南宮大社は全国の神社の中でも、美しい社殿と美しい椿が咲く神社として有名です。
また、古来からある神事を継承し、未来へとつなげています。 長い歴史の中で証明された広大無辺なご神徳に、参拝客たちは想いや願いを伝えています。
ぜひ、みなさんも南宮大社へお参りしてくださいね!

■所在地
〒503ー2124
岐阜県不破郡垂井町宮代1734ー1

古式ゆかしい神事が伝えられる南宮大社

岐阜県にある南宮大社には、長い歴史に埋もれることなく、古いしきたりが受け継がれた神事・祭礼が、数多く残されています。江戸時代に再興された朱塗りの社殿などが目を引きますが、南宮大社を訪れるなら神事祭礼も見逃せないポイントです。

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美濃国一宮として栄えた南宮大社

南宮大社があるのは岐阜県不破郡垂井町。かつては美濃国一宮として知られた、由緒正しい古社です。南宮大社と称するようになったのは戦後になってから。それまでは何宮神社と称していました。祭神は金山彦命で、彦火火出見尊と見野命が配祀されています。

創建時期については神武天皇の御代という説や、崇神天皇の御代という説など諸説あり、詳細はわかっていません。平安時代中期の文献「延喜式神名帳」に「仲山金山彦神社」の名前で、名神大社として記されていることから、これよりもかなり古い時期からあったことは間違いないようです。

縁起不詳とはいえ、歴史の長い南宮大社には、古式をそのままに伝える神事が多く残されています。中でも「例大祭」と「金山祭」は、全国から人が集まる有名な祭です。

少年少女が主役の古式ゆかしい御田植祭

例大祭の前日におこなわれる「御田植祭」は、農作物の豊穣を願って行われる神事。宮代地区から選ばれた3?5歳の21人の少女が、手甲・脚絆・前掛け姿にタスキを掛け、髪に金と銀の折り紙で作った蝶を飾って登場します。

同じく宮代地区から選ばれた7人の男児は、笛や太鼓・小鼓を鳴らす囃子方と、田おこしの所作を行う所役に扮します。お囃子が始まると、鍬役と圦(いり・えぶり)役に扮した男児が、境内に仮設された斎田で田おこしの所作を行い、中盤から早乙女姿の少女たちがずらりと並び、リズムに合わせて田植えを行います。早乙女に扮した少女たちは、髪飾りの蝶を大切に保管しておき、嫁入りの時にタンスに入れて持っていくという風習も残っているようです。

もともと現在は末社である御田代神社の斎田で、明治時代の中頃まで行われていた神事でした。神事の一連の流れは室町時代に完成したといわれ、国の重要無形文化財に指定されている神事です。

ご祭神が里帰りする例大祭の神幸式

例大祭のメインともいえるのが神幸式。南宮大社のご祭神が、もとは御旅神社に鎮座していたという伝説が由来の神事です。南宮大社のご祭神の金山彦命と、本殿内の樹下神社の大己貴命、同じく本殿内の高山神社の木花開耶姫と瓊瓊杵命が、神輿に移されて御旅神社まで里帰りする神輿渡御式です。

午後、一番太鼓とともに法被姿の氏子たちが集まり、高舞殿の前に3基の神輿が並べられます。二番太鼓がなると宮司によって、金山彦命と樹下神社・高山神社のご祭神が、出発のために神輿へ遷されます。三番太鼓が鳴り響くといよいよ出発です。

仙道・仙道大麻・御幸太鼓・前導・供奉に続けて、3期の神輿とご神宝が行列に並び、楼門から下向橋・大鳥居・石鳥居を経て、相川に架かる御幸橋を渡ると、御旅神社に到着です。御旅神社に到着すると、遷霊の祝詞が挙げられ神事が終了します。

胡蝶の舞などが奉納された後は、来た道を今度は南宮大社へ向かって戻る「還幸」が行われます。途中の祭礼場で行われる、4人の男児による還幸舞も、無形文化財に指定されている神事芸能。宝冠を頭に2人の男児が羯鼓を鳴らして舞う「羯鼓舞」、2人の男児が紫縮緬の頭巾と綿入姿で舞う「脱下舞」、最後は男児4人が揃って木彫の竜頭と鱗模様の衣を着て舞う「竜子舞」の3つの舞が奉納されます。

ひたすら舞い続ける五穀豊穣を願う蛇山神事

例大祭と並行して行われる蛇山神事は、当日の早朝1時から始まる神事です。南宮山の奥にある蛇池から降りてきた神が宿った竜頭を、還幸で神輿が到着する祭礼場に建てられた、「蛇山」と呼ばれる約13メートルの櫓の上に取り付けられます。

五穀豊穣を祈願して行われる神事ですが、この神事のいちばんの特徴は、祭礼場に神輿が到着するまで舞い続けるところ。明け方から午後に神輿が到着するまで、絶えることなく舞を続けます。この蛇山神事も国の重要無形文化財に指定されている神事です。

野鍛冶の鍛錬式を再現した金山祭

南宮大社が全国から崇敬を集めているのは、ご祭神の金山彦命にあります。金山彦命は鉱山の神様。そこから鉱山だけでなく、金属やそれに関わる加工業の神様として、崇敬されている神様なのが理由です。

南宮大社で行われる金山祭は、「鞴(ふいご)祭」とも呼ばれている神事で、全国から鉱山や金属関係の業者が集まる有名な祭です。ご祭神の金山彦命が南宮山へ遷られたと伝えられる、崇神天皇5年霜月上申日(現在の11月9日)の前日に、境内の高舞殿の前で行われます。

烏帽子に直垂姿の神職と奉行と呼ばれる3人の野鍛冶が、この祭りの主役を務めます。神職が火打ち石で日を起こす所作を執り行うと、いよいよ祭りの本番。3人の野鍛冶が、鉄床に置かれたオレンジ色の鋼に、交代で槌を打ち込む音が境内に鳴り響きます。完成した小刀を神前に奉奠すると、すべての神事が終了です。

南宮山の奥宮で行われる高山社祭

南宮大社のご神木である白玉椿にちなんだ祭礼。この祭が行われるのは境内ではなく、南宮山山頂付近にある高山神社の奥宮です。白玉椿にちなんでいることから、椿祭とも呼ばれるこの祭は、残念ながら一般には公開されていません。

南宮山の高山社奥宮の前で、神職が祝詞の奏上と玉串の奉奠を行います。椿の霊力が魔を追い払うという言い伝えもあり、古くは宮中の「豊明節会」で、巫女がご神木の白玉椿の枝を手に、舞を献上したこともあったようです。

将門伝説に由来した節分祭

939年(天慶2)に起きた将門の乱で、打ち落とされた将門の怨霊の首が、火を噴いて京へ飛んでいくのを、南宮大社の火須勢理命(隼人神社のご祭神)が、矢竹を持って射落したという伝説に由来する祭で、魔除けと五穀豊穣を祈願する神事です。裏面に「鬼」と書かれた大的を狙って、12本の矢を射ることから、大的神事とも呼ばれています。現在でも隼人神社の前には、将門の首を撃ち落とした矢竹が生えています。

大祓式は蘇民将来が由来の茅の輪くぐり

夏に入る前に行われる大祓式は、蘇民将来に由来する茅の輪くぐりが有名な神事です。正月以来の罪や穢れを、人の形をした形代=人形(ひとがた)に移して、無事に夏を越せるよう疫病除けの祈願をする神事です。楼門を入ったところにかけられた、茅の輪をくぐる風習は、全国の神社で見られる神事で、平安時代から行われています。

構成になってから始められた行事もありますが、南宮大社の神事祭礼は、平安時代から室町時代にかけての頃と、変わらぬ古いしきたりを残しているのが大きな特徴です。春日局の願いによって、徳川家光が再興したエピソードが有名ですが、南宮大社を訪れるなら、ぜひ祭礼や神事のスケジュールをチェックして、目の前で行われる古式ゆかしい神事を堪能してください。

日本一の金属の神様がいる南宮大社

南宮大社があるのは岐阜県不破郡垂井(たるい)町。
かつては美濃国の国府が置かれた場所で、美濃国の中心部として栄えてきました。
南宮大社へはJR東海道線の「垂井」駅から歩いても18分と、散歩する気持ちで立ち寄れる便利な立地にあります。国道21号線も近くに通っているので、思いついて立ち寄ることも可能な神社です。

伝説に語られる南宮大社の成り立ち

南宮大社の創建には、いまだ不明なことが多く、確実なことはほとんど分かっていません。社伝によると、神武天皇の東征に金鵄(きんし)を助けた功を認められた金山彦命が、この地に祀られるようになったと記されています。その後、崇神天皇の御代になって、現在の地に奉還されたのが南宮大社のはじまりです。

創建された当初は「仲山金山彦神社」と称していましたが、国府の南にあることを理由に「南宮」と呼ばれるようになったと伝えられているそうです。平安中期に記された「延喜式神名帳」にも、仲山金山彦神社の名が名神大社として記載され、美濃国一宮とされているので、仲山金山彦神社が南宮大社の前身であることと、少なくとも平安時代にはすでに大きな神社になっていたことは間違いがないありません。

金属加工が得意な金山彦命

南宮大社のご祭神である「金山彦神(かなやまひこのかみ)」は、天照大神の兄神にあたる神様。神産みでイザナミが火の神カグツチを産んで苦しんだ時に、吐き出した嘔吐物から化生した神様です。名前の通り「金山=鉱山」を司る神様で、工業や鍛冶、金属を加工する技巧を守護するとして広く信仰され、全国の金山神社で祀られています。古事記では「金山毘売神(かなやまびめのかみ)」とともに生まれたとあることから、通常は金山毘売命とともに祀られる神様です。

また、三野(=美濃)の本巣国造(もとすのくにのみやつこ)の長幡部(ながはたべ)氏の祖とされる、八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノオウ)の祖父神「天御影之神」が鍛冶を司る神様で、天御影之神の父神・天津彦根命(アマツヒコネノミコト)」も、「火」や「日」に関わりが深く、鍛冶や金属加工を連想させることから、金山彦命と習合していったとも考えられています。

神武天皇その人と言われる彦火火出見命

主神の金山彦命とともに配祀される彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)は、火遠理命(ホオリノミコト)の別称で、有名な海幸山幸の説話に登場する山佐知毘古といえば知ってる人も多いでしょう。天照大神の系譜につながる瓊瓊杵命(ニニギノミコト)と木花佐久夜毘売(コノハナサクヤビメ)の間に生まれた子で、神武天皇の父とも神武天皇その人とも言われています。社伝に記された伝説にも登場しているので、神武天皇その人を祀っていると考えるのが妥当なようです。

謎に包まれた見野命

見野尊については、謎に包まれ詳細は不明です。おそらくは美濃国造の祖神、もしくは地元の神様の可能性がもっとも高いと考えられています。天地開闢の後、日本書紀では国常立尊(クニノトコタチノミコト)・国狭槌尊(クニノサツチノミコト)についで、3番目に生まれた神様、豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)の別称として記載があります。

古事記では5柱の「別天津神」につづく、神代七代の2番目に生まれたのが豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)と記されていますが、見野尊の記載は見当たりません。見野尊以外の豊斟渟尊の別称に、すべて「豊」の文字が見られることから、生命力あふれる「大地」を神格化した神様と考えられます。大地に注目してみると、見野命はもともと地元で祀られていた、豊穣の神様が習合したと考えられそうです。

関ヶ原の戦いと春日局の願い

有名な関ヶ原の戦いのあった関ヶ原は同じ不破郡の関ヶ原町、距離にして約6キロメートル車で約10分のところにあります。合戦の時には南宮山を中心に、多くの武将たちが陣を構えた場所でした。豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛はこの地にゆかりのある人物で、竹中氏の陣屋や菩提山城跡などの史跡が残っています。

戦場からこれだけ近くにあったため、南宮大社も社殿を焼失してしまいます。社殿の復興が叶ったのは、関ヶ原の戦いから42年後の1642年(寛永19)に成ってから。春日局の強い願いによって、三代将軍徳川家光によって再興されました。春日局の父の斎藤利三が、美濃の曽根城の主だったことが理由ではないかと言われています。諸説あり詳細は不明ですが、斎藤利三が美濃斎藤氏の系譜だという説もあるようです。

江戸時代の神社建築が見られる貴重な社殿

この再建にあたって家光が寄付した金額は約7000両。現在の価値に直すと約21億円という巨額が投じられ、往時に負けない立派な伽藍が整えられました。主に彩られた華麗な姿は、美しいだけではなく、江戸時代の神社建築の様式が、まとまって見られる点で貴重な存在です。
幸か不幸か戦火で焼失したことが、同時代の建築様式をまとまって生み出す要因の一つとなっています。

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