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【前編】山下清 裸の大将でも知られる彼の人物像と作品の面白さ

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「裸の大将」でも知られている山下清の放浪記は、テレビドラマでも芦屋雁之助さんや塚地武雄さんが演じたことでも有名です。多くの絵とともに彼の波乱万丈の道のりをご紹介していきます。

    山下清の美しい花火の張り絵

    「江戸川の花火」(貼り絵)

    「江戸川の花火」は、昭和12年の山下清が15歳の時に八幡学園で描かれたものです。八幡学園の園長が園児たちを連れて江戸川から花火を見に行ったときのことを描いたものだそうです。

    この年の秋に早稲田大学で開かれた八幡学園子供達の少展覧会で「江戸川の花火」も出展され大絶賛されました。ここから山下清の花火がどんどん美しく鮮明になっていきます。
    「長岡の花火」(貼り絵)

    「長岡の花火」は、昭和25年山下清が28歳の時に描かれた作品で、前年の夏に新潟県の信濃川河川敷で見た花火の記憶を元にし、八幡学園に戻って制作されました。
    「両国の花火」(油絵)

    現在は「隅田川花火大会」という名称になっています。昭和30年に山下清33歳の時、制作されたものが「両国の花火」で、油絵の秀作と言われている作品です。

    山下清のために花火大会の見物席を用意してくれていたようで、山下清の手記に「一等席から悠々と見物できたので、手放しで喜んでいた」とあります。「両国の花火」は、映画館「松竹セントラル劇場」の緞帳として飾られ入場者の人気を集めました。
    「富田林の花火」(貼り絵)

    大阪の「PLの花火」として現在は知られている山下清制作の「富田林の花火」は、昭和44年、清47歳の時の作品です。この花火大会の絵を依頼され招待を受けてから3ヶ月の製作期間を経て仕上げた貼り絵です。翌年に清は、眼底出血を起こしたために貼り絵として最後の絵になります。

    「僕は迷ってしまう。 新潟では児童相談所に泊めてもらって3日、4日いた 相談所の窓から花火を見た 僕は、花火を見るのが好きで花火の絵をよく描いたけど 新潟のはほんとうにすばらしかった 仕掛けが大きくて日本一だそうです 両国の花火も日本一だと言うし 多摩川の花火も日本一だという どれがほんとうの日本一なのか僕は迷ってしまう」

    山下清の実際の談話からです。

    各地域からVIP席を用意してもらったり、招待を受けたりしていることだけを見ているとその功績が素晴らしい人物であったことは言うまでもありませんが、実は、ここまでの道のりは決して楽なものではなかったようです。ここから、山下清が歩んできた波乱万丈の道のりへと進めていきます。

    【後編】山下清 裸の大将でも知られる彼の人物像と作品の面白さ

    山下清の道のり

    「蝶々」昭和9年12歳作

    大正11年に山下清は通いの板前であった父大橋清治、母ふじの長男として生まれました。両親は裕福ではなかったようですが、長男の誕生を大きく喜んでいたそうです。しかし、関東大震災の影響で一家は新潟県白山に疎開することになります。

    3歳になった清は重い消化不良の病気を患い3ヶ月ほどで回復したものの歩行が不自由になり少し吃りだしました。一家は、再び浅草に戻り清も浅草の石浜小学校に入学するのですが、友達に馬鹿にされる日々が続いたようです。

    一方で清の父は、お酒の量が増えたせいで、脳出血で倒れ3年間寝たきりの状態から亡くなります。この時、清と弟の3人の子供を抱えた母は、生活のために2人目の夫と再婚します。

    しかし、新しい父は知的障害のある清を極端に嫌っていたようです。日々、劣等感が募る清は、その反動で盗み、喧嘩、傷害事件を起こすことが続いたそうです。ある日、風邪を引いた母の代わりに継父が味噌汁を作るのですが、清が「この味噌汁うまくないな」と、ひとこと言ってしまいます。その言葉に腹を立てた継父は、食卓をひっくり返し、清を土間に蹴り飛ばしました。

    このことがきかっけとなり母は離婚を決意し、旧姓の山下に戻り母子ホーム「隣保館」へ子どもたちと引っ越しました。しかし、「隣保館」だけではなく新しい小学校でもいじめられる日々が続き、とうとう刃傷事件を起こしてしまい、清は「隣保館」から追われることになります。

    この時救いの手を差し伸べたのが知的障害児を社会へ送り出すための支援をしていた「八幡学園」です。
    八幡学園に移った清は、ここでも近所の桃畑から苦情が来る悪さをしたり、園児の服を裏のドブ川に捨てたりすることをしていたようです。学園長は、八幡学園の教育の一環として行われている「貼り絵」に清の関心を向けさせることにします。清はだんだん貼り絵を続けることに没頭するようになりました。
    「湖畔」昭和13年16歳

    この頃、清は戦争を描いた絵も多く制作しています。昭和12年日中戦争が勃発し、戦争はどんどん激化されていきます。
    「高射砲」昭和13年16歳

    「湖畔」で描かれた、ゆったりとした優しく美しい絵から「高射砲」のような荒々しい絵を描いていた清の心には戦争に対する恐怖が常にあったようです。
    「学園からでかけるところ」(鉛筆画)

    翌々年には、自身も徴兵検査を受けることになっていた清は、昭和15年11月に6年半過ごした八幡学園から風呂敷包みひとつだけ持って姿を消してしまいます。ここから、山下清の放浪の旅が約14年続くのです。

    「僕は八幡学園に6年半位いるので学園があきてほかの仕事をやろうと思って ここから逃げて行こうと思っているので へたに逃げると学園の先生につかまってしまうので 上手に逃げようと思っていました」(裸の大将放浪記より手記)

    山下清の放浪の旅

    清は、八幡学園から抜け出し、千葉県内で雑用係として職業を転々としていきます。仕事に付いた場所は、問屋の新宅、豊四季の鍛冶屋、柏駅前の蕎麦屋(根本屋本店)、我孫子の弁当屋(弥生軒)、馬橋の魚屋(加藤商店)があります。
    「弥生軒」

    採用してもらうために天涯孤独の身の上話(作り話)をしたり、「頭が悪いから兵隊さんにはとられないから、雇って欲しい」と、嘘をついたりしたそうです。

    しかし、山下清の放浪癖は続き、どこかへ出かけていなくなっては、問屋の新宅、弥生軒、魚屋の三軒のどこかへ戻ってきてまた、お世話になる生活をしていようです。この三軒の店主は、本当に優しい方達なのでしょう。八幡学園にも同じように突然戻る時があったそうです。
    「お蝶夫人屋敷」長崎県 昭和39年42歳

    こうして、山下清は、あちこちを放浪し多くの作品を残し、有名画家になっていきました。

    その後、放浪の旅はヨーロッパへと続いていきます。
    オランダの風景」昭和36年39歳

    彼の自由さが絵にも素直に表れ面白さをだしているではないでしょうか。

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