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動乱の幕末から明治期を「徳川の人」として生きた女傑、天璋院篤姫の波乱の生涯を追う

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江戸時代から明治時代へ――。1つの時代が終わり、また始まる時、実にさまざまなドラマが生まれます。激動の幕末を生き延びた、天璋院篤姫のストーリーもその一つです。

実家と婚家が対立する立場になる不幸にも、武家の娘らしい矜持と女性らしいしなやかさを持って、徳川の存続に尽力しました。今回はそんな天璋院篤姫の生涯に注目してみましょう。

篤姫のはじまり

篤姫は、1835年薩摩藩主島津家の一門・今和泉島津家に生まれました。「一門」というのは将軍家にとっての御三家と同じく、直系の世継ぎがいない時に、一族の分家の中から後継者を選ぶため用意された家柄のことです。

そのころの名前は島津一子といい、今和泉5代目当主の島津忠剛は、幼い頃から利発で賢かった一子を「男の子だったらなぁ」と評価していたようです。

そんな一子が、「篤姫」と呼ばれるようになったのは1853年のこと。薩摩藩主の島津斉彬の養子として「篤子」「篤姫」と名前を変えたのです。これには理由がありました。

激動の江戸へ、将軍様のもとにお輿入れ

徳川家13代将軍・徳川家定は、正室を2人早く亡くしており、また、家定自身も体が弱かったため、正室には健康で元気のある女性が望まれました。そんな中、島津斉彬の仲介で一子に白羽の矢が立ちました。11代将軍の正室であった茂姫は薩摩の出身で、健康で子宝にも恵まれその後の大名家やその正室などに多くの血筋を残していることにあやかり、薩摩の女性を探していたのです。ただし、島津家一門では将軍家に嫁ぐには身分が低いことから、藩主である斉彬の実子ということにして、釣り合うような身分になるよう整えました。

斉彬の子として鹿児島城で3カ月過ごした後、輿入れのためにいよいよ江戸に向かいます。しかし、外様大名である島津家からの輿入れには、世継ぎ問題で対立していた紀州派などの抵抗もありなかなか難航します。当時、将軍家定に男子がないため、次期将軍を巡って、一橋慶喜を推す島津斉彬や時の老中・阿部正弘などの水戸一橋派と、紀州の徳川家茂を擁立する老中水野忠邦ら紀州派が暗躍していました。輿入れした篤姫が家定との間に男子をもうけることができれば、当然父である島津斉彬の発言力も上がります。篤姫の輿入れは、一橋家の政策の1つでした。結局、篤姫は輿入れスタンバイ状態のまま2年ほどを江戸藩邸で過ごしています。

将軍家の正室は公家から迎えるというのが正式であったため、一橋派は知恵を絞り篤姫を斉彬の姉の嫁ぎ先である右大臣・近衛忠煕の養女とし「篤君」(諱は徳子)としました。このように結婚相手との家柄を揃えるための養子縁組は、この時代盛んにおこなわれていたことですが、そのたびコロコロと名前が変わり、江戸時代の女性は大変ですね。

五摂家である近衛家の娘ということになったので、紀州派の反対もなりをひそめ、1856年ようやく篤姫は定家の御台所(正室)として、大奥へ入ります。

このとき、もともとは斉彬の姉・郁姫付きであった「幾島」を御年寄(大奥女中)として伴い輿入れしています。幾島は、輿入れ前には篤姫の教育係として、輿入れ後は敵の多い一橋派の姫のサポートとして活躍する女性です。この後も江戸城と薩摩藩との連絡係として重要な役割を果たすことになります。

また、篤姫はこれまで犬が好きでしたが、家定が嫌がるため、輿入れした後で猫を飼い始めました。猫にかかった費用は年間25両、という記録が残っています。

新婚生活はたった2年??それでも江戸に残った理由

13代将軍の家定は、病弱で奇行が目立つ人物のようで、脳性麻痺ではなかったかという説もあります。気は優しく、篤姫との仲も睦まじいものでした。しかし篤姫が嫁いだ頃にはすでに世継ぎを残せるような状態ではありませんでした。そして1858年、家定は35歳で亡くなります。ついで養父の島津斉彬もその年に亡くなってしまい、立て続けに近親者を失った篤姫は、家定の逝去に伴って仏門に入ります。それ以降「天璋院(てんしょういん)」となった篤姫、家定との結婚生活は1年9カ月と2年に満たない短いものでした。

その後、亡き家定の後継として、徳川家茂が将軍となります。時は幕末、幕府は公武合体の政策を取り、孝明天皇の妹・皇女和宮を正室として迎えます。この頃、天璋院は故郷の薩摩藩から帰ってくるよう進められたと言いますが、天璋院は「私はもう徳川の人間です」とその申し出を断りました。

天璋院と和宮は嫁と姑という関係にあたりますが、始めの頃は武家と公家の育ちの違いやもともとの身分の差などが原因となり大奥を二分するような対立もあったとされます。このことは後世の映画やドラマ、物語の題材として多く用いられていますね。両者の確執はのちに解消され、戊辰戦争勃発での徳川家存続危機にはともに協力し合い、状況の打開に努めました。

変わりゆく時代と江戸城

一方、和宮の夫である14代将軍家茂も、1866年7月に第二次長州征伐の途中で病に倒れ、大阪城でそのまま亡くなってしまいます。21歳でした。前年には和宮の輿入れとともに江戸城に入っていた生母の観行院も亡くなっており、家茂の死から数カ月後には壮健だった兄の公明天皇も崩御されます。和宮もまた、天璋院篤姫とおなじように、近親者を失くしてしまいました。朝廷から京へ帰るよう勧められますが、天璋院同様、和宮もこれに応じず江戸城に残りました。

さて、家茂亡き後、一橋より徳川慶喜が15代将軍となります。大奥は、大の「水戸嫌い」。徳川慶喜の実父徳川斉昭が、大奥に対してセクハラまがいの言動をしたり、不犯の大奥女中や自分の息子の正室などなどに手を出したなどとの噂が絶えない人物だったので、すっかり大奥での評判が悪くなっていました。ほかにも、「そもそも大奥なんて不要だ」との考えを持っていた慶喜なので、大奥とは険悪な仲と言われても納得です。実際、1866年の大奥改革では、天璋院篤姫と静寛院宮(家茂亡き後の和宮)は大反対でした。

しかし、その翌年の1867年、討幕派との対立が激化し始めたことをうけ、幕府への攻撃をかわすために徳川慶喜が「大政奉還」をします。それでも情勢は悪化をたどり続け、「王政復古の大号令」によりすべての権限を失った慶喜は恭順を示し謹慎生活に入ります。それでも、徳川憎しの薩長は徳川幕府の完全壊滅を目論んでいました。そんな中、大奥の中では天璋院篤姫と静寛院宮(和宮)が動いていました。

天璋院篤姫は実家でもある薩摩島津家や西郷隆盛に対して、静寛院宮は朝廷に対して、徳川慶喜の助命と徳川家の存続を嘆願していたのでした。

勝海舟や山岡鉄舟らの働きもあって、ついに江戸城は「無血開城」され、幕府なき後も徳川家の存続はきまり江戸の民は戦火を逃れることができたのです。

大奥では家宝の品々をすべて広げたままで、江戸城を去りました。持出したり隠したりしないことで徳川女性の矜持を表したと言われています。

明治期の篤姫

天璋院篤姫は江戸城を去った後、それでも故郷薩摩に戻ることはなく、東京の徳川家宗で過ごしました。薩摩からの援助を断り、徳川家から支給される生活費と自らの所持金を切り詰めて生活していたと言います。そして、身銭を切ってでも元大奥にいた女性たちの就職や縁組に尽力を続けました。下野したことで大奥とは違うゆったりとした時間を持つこともできたでしょう。時には静寛院宮(和宮)や勝海舟らと会ったり、党側宗家の徳川家達の教育に精を出したりしていました。

そして1883年(明治16年)の11月、天璋院篤姫は徳川宗家で倒れ、意識の戻らないままその生涯を閉じました。49歳でした。亡くなった時の所持金はわずか3円(現在の6万円)ほどしか持っていなかったと言います。

葬儀には多くの人々がつめかけ、その死を悼みました。

現在は、徳川家の菩提寺であり、かの徳川慶喜が謹慎した上野の寛永寺で、夫であった家定の隣に埋葬され、静かな眠りについています。

与えられた運命を嘆いてばかりではなく、そのときできる一番良いと思われる方法を模索して、自らの運命を切り開く。そんな強いメッセージが伝わってきます。幕末というもっとも苛烈な一時代に生きた天璋院篤姫の生涯は、いまだ多くの人に感銘を与え続けています。

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