日本史

あなたの知らない遊廓の世界と秘密

2017-01-25

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遊廓といえば華やかなイメージをする人が多いでしょう。
もしかしたら、親の借金などで売り飛ばされた可哀想な女性が遊女として働かされていると思っているかもしりません。
では、実際の遊廓はどのようなものだったのでしょう。
遊廓の世界を覗いてみましょう。

遊廓とは

遊郭とは、政府が管理・運営する、主に性風俗(遊女)を扱う場所のことを示します。遊廓の廓は「くるわ」とも読み、周囲の囲いや、囲いの中の地域を表します。
他の地域や場所で、遊女を扱う仕事を営業させないために、地域から隔離するという意味もありました。
江戸時代に幕府が設置した『吉原遊廓』が有名で、敷地面積は二万坪を越え、働いている遊女も最盛期には数千人いたとされています。
大規模な遊廓は大阪や京都、長崎にも存在していました。小規模なものであれば、各地に点在しており、宿場町など人が集まるところであれば、遊廓が存在していたと考えて問題はないでしょう。

*吉原遊廓の成り立ち
1612年(慶長17年)、庄司甚右衛門(ショウジジンエモン)という人物によって吉原遊廓は設立されました。
江戸市の遊女たちを集めて傾城(ケイセイ)町の設立を幕府に願い出て、五年後に許可されています。その後、庄司甚右衛門は吉原遊廓の惣名主(そうなぬし)となり、吉原遊廓の発展に尽くしました。
ちなみに傾城というのも遊廓と同じ意味を持っています。

遊廓の人々

『遊廓主』
楼主とも呼ばれ、遊廓の主人であり、遊廓内において絶対の権限を持っていました。
状況次第では遊女の命を奪うことさえ許される存在でした。
また、遊廓主の家族(妻や子供)も、強い権限を持っていることがよくありました。遊女の統制や扱いなど、遊廓主から経営を任されている場合もあったのです。

『女衒』(ゼゲン)
若い女性を売買する仕事、人身売買の仲介業者です。
遊女としての品定めが主な仕事であり、遊女として優れた資質を持つ若い女性を買い付け、遊廓主に売り渡しました。
女衒は独自のネットワークを持っており、地方の女衒から遊女を買い付けるなど、他の女衒との連携はかかせませんでした。
当然、優れた遊女を見定められる女衒は、遊廓主に重宝されました。
また、女衒に買い付けされなければ、遊女にはなれないという図式も成り立つのです。

『弾左衛門』(ダンザエモン)
江戸時代に奴隷の身分とされていた穢多(エタ)・非人の頭領で、江戸幕府から正式に任命されていました。世襲制で13代(正確には12代)続いています。
江戸幕府からは『穢多頭・弾左衛門』と呼称されていたようですが、自らは『長吏頭(ちょうりがしら)・弾左衛門』と称していたようです。
遊廓は町奉行所や寺社奉行の管轄ではなく、遊廓の治安は彼らが担当しました。遊女が遊廓外に逃亡するようなことがあると、部下(穢多役人)と共に捜索をするなどの役目を負っていました。
また、奴刑(ヤッコケイ)を課せられた女性(罪を犯し、人別帳から除かれ、奴隷の身分となる)を、女衒に売り渡す権利も持っていました。
慣例的に、奴刑になって預けられた女性を犯す(レイプする)ことになっていたようです。

『穢多役人』
弾左衛門の部下として、遊廓の治安維持の仕事をしていました。呼称にもある通り、身分としては遊女と同じ奴隷でした。

『遊女付き』
遊女のお世話をする女性で、主に未成年の少女がこの仕事に就きました。
遊女個人に遊女付きがつくケースもあり、それは稼ぎの良い遊女(太夫と呼ばれるなど、遊女としてのランクが高い)であり、将来遊女として有望な少女が、個人の遊女付きになりました。

『やり手』
年齢的に客を取れなくなった遊女は、遊廓主によって『やり手』と呼ばれる仕事で再雇用されることがありました。
やり手とは、遊女を監視・監督する立場の者を示し、元遊女が大半を占めました。
新しい遊女への教育や、働きの悪い遊女に対する折檻まで、遊女に関することであれば、どんなことでも仕事に含まれていました。
遊女時代に遊廓主やその家族に上手く取り入った者が、やり手として再雇用されるケースが多かったようです。

『雑用係など』
やり手と同じで年齢的に客が取れなくなった遊女が、遊廓主に雑用係として再雇用されました。

二種類の遊女

『金銭的劉による遊女』
借金苦など、金銭的な理由で女性が身体を売り遊女になるというのが一般的に広まっていますが、大多数を占めるものではなかったようです。
遊女として仕事を全うし、借金を返済すれば奴隷の身分からは解放されました。
ただし、当時の情勢を考慮すれば、人さらいや騙して連れてくるというのがまったく無かったとわけではありません。
また、女衒によるスカウトによって遊女になる女性も、わずかながらに存在しました。

『奴刑による遊女』
遊女の大多数は奴刑により、奴隷の身分となった女性でした。
1699年までの判決がまとめられた『御仕置裁許帳』には、幕府の許可なしに売春を行った者や窃盗を行った者、夫や父親の犯罪による縁坐により、奴刑に処されたことが記されています。
刑罰としての奴隷身分ですので、よほどの理由がない限り、奴隷から解放されることはありませんでした。
例外的に、奴刑の中には年季奉公という、一定の年数だけで遊女として働く刑も存在し、その場合は一定期間、遊女としての仕事を全うすれば、奴隷の身分からは解放されました。

*遊女になれない女性
奴刑によって奴隷の身分となったものの、女衒の買い手がつかなった女性は、同じ奴隷身分の男性たちの慰みものとしての運命が待っていました。

テレビなど、メディアの影響により、遊女になる女性は借金によるものが多いと思われていますが、実際には奴刑によって遊女にさせられる女性が多かったのです。
これは女性に対して死刑を避け、罪一等を減じる習慣が奉行所にあったためでもあります。
遊廓の世界と秘密を覗くことはできたでしょうか。

遊郭はなぜ江戸文化の象徴となった?美と退廃の魅力とは

「日本初体験の人に、日本文化を完全網羅する形で、エキサイティングに楽しんで欲しいのだけど、どこを案内したらいい?」
と相談された時、皆さんならどこを案内しますか?

東京オリンピックが開催される2020年まで、もう間もなくです。
この地球規模のスポーツと平和の祭典に参加し、あるいは見届けようと、世界各国から押し寄せる人々の目当ては、オリンピックだけではないはずです。

古くは大航海時代、マルコ・ポーロが旅した時から今に至るまで、神秘のヴェールに長く包まれていた日本への憧れは、ヨーロッパの中央に行くほど、伝統的に強いものなのだそうです。

さて、先ほどの質問に対する答えは、アメリカの大手旅行雑誌「Travel+Leisure(トラベル・アンド・レジャー)」が毎年発表する「世界の人気観光都市ランキング」にて、ほとんど答えが出ているようです。

2014年及び2015年の2年連続グランプリだったのが、「京都」でした。

エキゾチックかつ技巧的な装飾が美しい和風建造物が軒を連ねる小路を、しゃらしゃらと歩む舞妓さんや芸妓さんの後ろ姿を、ときに遠慮がちに、ときに大胆なツーショットでカメラに収める外国人観光客の姿は、京都の日常風景となっています。

日本人からしてみれば「コテコテすぎる日本」と感じる佇まいを保つ祇園界隈の風情は、いまもなお旅人たちの心をギュッとつかんではなさない新鮮な魅力を失わず、それが熱心なリピート客を生み出すエッセンスとなっています。

「日本の粋をまるごと体感したい」という、世界中の人々が京都に寄せる期待と熱い気持ちは、そのまま「遊郭」に寄せる当時の江戸庶民の想いと同化するのではないでしょうか。

ところで遊郭ってなに?

近年、江戸時代遊郭のライフスタイルが、新進気鋭の映画監督や映像クリエイターの手で続々と映画化されています。それまで「怨念と情念のどろどろした沼地」のようなイメージで捉えられていた遊郭は、例えば2007年公開の『さくらん』(監督:蜷川実花)ではPOPな色彩感覚と女の上昇志向ストーリーの相乗効果で「花魁はゴージャスでロック」といった新しいイメージを、若い女性たちの間に広めました。

では、実際の遊郭はどういった場所だったのでしょう。

豊臣秀吉の時代、それぞれ好き勝手に営業をして風紀を乱しがちだった遊女(私娼)を一箇所に集め、柵などで囲った小さな家に住まわせ、そこを「傾城町」や「色里」と呼び、遊女を公的に管理することが始まりました。

遊郭」という呼び名は、江戸時代から明治初期に使われたもので、例えば江戸の吉原遊郭では、品格も知性も芸事もハイレベルに備えた花魁(遊女のトップスター)の中でも別格の花魁は「太夫」と呼ばれ、10万石の大名と同等に扱われたという話が残っています。

スタート時点では遊女(公娼)というクラスであっても、自らの美貌と知略でパトロンを持ち、努力と知性と品格で花魁へと成り上がり、美と名誉の女神として男たちを魅了するラブストーリーに、現代女性がつい憧れてしまうのも頷けるのですが、現実的に言えばそんな栄光に預かるのはほんの一粒のダイヤモンドだけです。張り巡らされた柵の中に、身寄りがなかったり近親者に売られたりした少女たちが集められ、身体が衰えるまで娼婦として搾取され、病を受けて死にいたる、深すぎる闇が存在していたからこそ、飾れるものはことごとく過剰なほど美しく作り上げられ、目の覚めない夢のような「遊郭」というテーマパークが用意されたのです。

遊郭の歴史をかんたんにおさらい

遊郭として有名なのが、江戸文化の中心地となった吉原遊郭と、日本きっての観光名所となった島原遊郭です。現代とは比較にならないほど旅行が人生の一大事業だった江戸庶民は、地方から江戸や京都にやってきたあかつきには何としてでも「吉原・島原に足を運んでみたい」と情熱を燃やしていましたし、そこで一夜を明かしたことを一生の自慢として故郷に手紙を出したり、旅費が尽きるまで滞在したり、とことん全力で楽しみました。

これほど大ウケした吉原・島原スタイルにあやかろうと、地方から集められた少女で構成された遊郭で編み出された言い回しである「廓言葉」もそのままに、この2つの遊郭をいいとこ取りしたスタイルの遊郭が、日本各地で作られるようになりました。1929年の記録によると、全国に540箇所以上の遊郭が営業していたそうです。

さらに遊郭は、裕福な名士や大名なども気軽に顔を出せるデートスポットであり、かつ時には気の効いた賢い美女が機密を保証する安全な密談の場にもなりえたことから、彼らの持ち込む「当代きっての洗練された美のセンス」が蓄積されていきました。

この美の蓄積こそ、今もなお海外の人々まで魅了する「日本文化の粋を一度に体感できる場」として、深い闇を抱えながらも、憧れを集める源泉となっているのではないでしょうか。

「格子窓」にどんなイメージをもつ?

「女はかごの中の鳥」という言葉が生まれたのもまた、遊郭の格子窓の様子からだと言われています。

遊郭スタイルといえば、入り口の真っ赤な大門、並木道、そして憂いの瞳が並ぶ格子窓ですが、この格子窓が明治時代、あまりにも女性蔑視だということで廃止となり、代わりに遊女の写真を貼ったこともあるようです。

しかし、評判が悪すぎて客足が他に取られてしまったことから、格子窓はすぐに復活しました。

遊郭の名物として格子窓のニーズは高く、客の要望や時代によって、窓が小さくなったり細長くなったりなどデザインチェンジも行われたようですが、やはり「かごの鳥」という悲しい印象は今も昔もあったのです。

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