落語

落語家として、俳優として、タレントとしての林家正蔵の魅力

関連キーワード

歌舞伎の名跡「林家正蔵」の当代を務める九代目林家正蔵さん。落語家としての活躍はもちろんのこと、俳優としてドラマや映画に出演することも多いほか、タレントとしてバラエティー番組に参加している姿も多く見かけます。今回は、そんなマルチな分野で活躍されている林家正蔵さんについて、ご家族のことにも触れながら、その魅力を解析していきたいと思います。

スポンサー

初代林家三平、海老名香葉子夫妻の長男として誕生

九代目林家正蔵さんは本名を海老名泰孝(えびなやすたか)さんといい、1962年に初代林家正蔵さんと海老名香葉子さん夫妻の長男として誕生しています。姉に海老名美どりさん、泰葉さんを持ち、弟は二代目林家三平さん、祖父は七代目林家正蔵さんであり、家族そろって芸能界で活躍されている芸能一家の一員です。

1978年、「林家こぶ平」の名で初代林家三平さんの元へ弟子入りした正蔵さん。当時周囲は「小三平」の名で弟子入りするとばかり思っていたそうですが、弟の二代目林家三平さんが「お兄ちゃんは小太りだから、こぶ平がいいんじゃないか」と言ったことを発端として「林家こぶ平」と名乗ることになったとか。これには正蔵さん自身も不満があったらしく、のちに父親は弟子の名前を付けるのが下手だったと語ったこともありました。

1980年、初代林家三平さんが逝去されたことで、林家こん平さんへ弟子入りすることになります。その後は稽古を積み重ね、1988年には真打へ昇進、古今亭志ん朝以来の最年少での真打昇進でもあり、史上初の親子三代での快挙でもありました。

「林家正蔵」の九代目襲名にあたって

2005年には名跡「林家正蔵」の九代目を襲名しますが、一筋縄ではいかなかったようです。と言いますのも、林家正蔵さんは以前からテレビへの出演も多かったため、メディアでは高い評価を得ていたにもかかわらず、落語家としては伸び悩んでいたそうです。その様子を見た鈴本演芸場の席亭から、新しい名前を襲名することを勧められた正蔵さん。自身は父の名跡である「林家三平」を継ぐとばかり思っていたそうですが、実は祖父からの名跡「林家正蔵」の九代目を継ぐことを知らされます。本人は断るつもりだったそうですが、周囲からの説得もありこれを了承。義兄である小朝さんが言うには、襲名に併せて正蔵さんは古典落語を3年間で50席覚えたそうで、かなりの意気込みとプレッシャーを抱えながらの襲名だったことが窺えます。

ここで少し疑問に思うことはありませんか?当代の林家正蔵さんが九代目であるのに対して、祖父は七代目林家正蔵を継承していますよね。では間の八代目は誰が継承したのか、これには名跡「林家正蔵」の歴史が関係しています。

そもそも「林家正蔵」の代々の系統は実は五代目で絶たれているのです。ちなみに海老名家ももともとは「林家」とは関係がありません。というのも、七代目林家正蔵さんのとき、落語協会内部で派閥争いが置き、いざこざの結果それまで名乗っていた「柳家小三治」の名跡が使用できなくなったため、代わりに「林家正蔵」を継承することになったとか。これにより海老名家が代々「林家」を名乗ることになったのです。

その後、七代目林家正蔵さんが逝去されると、今度は「林家正蔵」の名跡を貸してほしいとの要請がありました。当時「八代目林家正蔵」は七代目の息子である林家三平さんが継ぐことになっていましたが、ここでも落語家同士の名跡争いが起因し、「一代限り」で林家症状の名跡が外部へと渡ることになったのです。結局三平さんが「林家正蔵」を襲名することはかなわなかったこともあり、その息子が「林家正蔵」の九代目を襲名するという結論に至ったのでした。

スポンサー

俳優・タレントとしての活躍もめまぐるしい林家正蔵さん

林家正蔵さんは落語家として高座に立つ以外に、俳優として、タレントとしてテレビ出演することも多い方です。その活躍は目まぐるしいものがありましたが、その反面いかりや長介さんに「もっと本業の落語の勉強をしなさい」と叱られたこともあったとか。

バラエティー番組への出演も多い一方で、ドラマや映画で熱演も見せている林家正蔵さん。また、一世を風靡した人気アニメ「タッチ」では、主人公の上杉和也・達也とバッテリーを組むキャッチャー役である松平孝太郎役を務めたほか、「それいけ!アンパンマン」や「ポケットモンスター」「美味しんぼ」などの国民的人気を誇るアニメにも声優として出演しています。

現在は積極的に高座に立っている?

メディアでの活躍が多かったこともあり、「九代目林家正蔵」を襲名した後もそのイメージを払しょくできていないと言われている正蔵さん。しかし襲名後は、メディアでの活動よりも積極的に高座に挑むことが増えているそうです。今後はさらなる進化を遂げた正蔵さんの独奏会も開催されることでしょう。ぜひチェックしてみて下さい。

スポンサー

落語会をリードする正統派、林家正蔵。芸への迷いから救った先達の言葉とは

現在の林家正蔵さんは9代目。祖父は7代目林家正蔵師匠、父は爆笑王の異名をとった初代林家三平師匠という、落語一家に生まれ育ちました。
子供時代から父の三平師匠や一家でのテレビ出演も多く、中学卒業後、父の三平師匠に入門。こぶ平の名で活躍し、寄席ではもっぱら漫談をやっていたそうです。
その9代目正蔵さん、実はこぶ平時代、長い間自分の芸について悩んでいたそうです。そして、多くの師匠や先輩方の言葉に目を開かれたといいます。
こぶ平から正蔵へ、そして落語会を牽引する存在となった正蔵さん。その軌跡の一部を紹介します。

芸能一家に生まれ育つ

正蔵さんは1962年12月東京根岸に生まれ、本名は海老名泰孝(えびなやすたか)といいます。先に述べたように落語家の血筋ですが、長姉はタレントの海老名美どりさん、次姉はシンガーソングライターの泰葉さん、実弟は同じく落語家の2代目三平さん。そして義理の兄に俳優の峰竜太さん(美どりさんの夫)と落語家の春風亭小朝さん(泰葉さんの夫、2007年離婚)、という芸能一家なのです。

1978年中学卒業と同時に入門。父の人気もあり、早いうちからタレントとして活躍するほか、20歳の頃には劇団WAHAHA本舗に参画するなど、幅広い活動に挑戦しました。しかし、古典落語の勉強はあまりやらなかったといいます。

歴史ある名跡と偉大な祖父、父に挟まれて

林家という亭号(落語家の苗字にあたる)を持つ落語家は、現在東西併せて約60名います。その林家の始祖といえば江戸時代、文化年間に活躍した初代、林屋正蔵なのです(1811年ごろに正蔵を名乗る。当時、林家は林屋と書く)。
初代正蔵は、江戸で自分の定席(常設の寄席)を持ち、戸板を用いた場面転換、怪物の人形や鳴り物などを用いた、派手な仕掛けの見て楽しめる怪談を得意とした、怪談噺の祖。地方からも見物客が押し寄せる、江戸きっての人気落語家でした。ですから、林家正蔵というのは非常に歴史の重みのある名跡なのです。
(ちなみに、初代と今の正蔵さんと血のつながりはありません)

祖父の7代目は、風呂桶職人の家に生れたものの、落語や浄瑠璃など芸事に秀で、アマチュアとして地元の寄席に出るうちに、25歳になってから初代柳家三語楼師匠に入門、プロに転向したという変わった経歴の持ち主です。
1930年7代目林家正蔵を襲名。落とし噺、新作を得意とし、英語や流行語を噺に盛り込んで爆笑をとる高座スタイルで、怪談噺や人情噺を得意とした6代目までとは異なる芸風で一世を風靡しました。SP レコードで自分の落語を残すなど、進取の気概にも満ち、落語芸術協会の幹部を務めるなど活躍しましたが、1949年10月に肝臓炎(三平師匠は『源平盛衰記』の高座で肝硬変と話している)にて、56歳の若さで亡くなりました。

父の三平師匠は、7代目と同じく、時事ネタを得意とした型破りのスタイルで、折からのテレビ普及の波に乗って、昭和の第一次演芸ブームの火付け役、中心的存在となり、爆笑王の名を欲しいままにしました。見た目の破天荒ぶりとは異なり、自作の小噺の下ネタにも放送禁止用語を一切使わないなど、芸には厳しい姿勢を貫いた人です。

その父に弟子入りを決意した9代目正蔵さん。実はその決心には、祖母の言葉が後押しとなったと言います。

こぶ平誕生 祖母の言葉が後押し

15歳の時、祖母に連れられ行きつけのそば屋、尾張屋に入って天丼を食べているとき、祖母が泰孝少年を見てこう語ったと言います。
「あなたのおじいちゃんは、知らないだろうけどとてもいい落語家でした。お父さんはすごい落語家です。代々なるもんじゃないけれど、私はおまえの高座姿を見られたら、思い残すことはないよ。目の黒いうちに落語家におなりよ」
(『日本経済新聞』2015年12月21日夕刊「落語家林家正蔵(1)」)

泰孝少年は大学を出てから落語家になろうかな、と漠然と考えていたそうですが、おばあちゃんのこの言葉を聞いて、決意を固めたのだそうです。

早速父の三平師匠に入門を申し出ますが、「うわっついてるからダメだ」と言下に却下されます。その後3回入門を願い出て、ようやく許されたそうです。
すぐに許可されなかったのは、泰孝少年の覚悟のほどを、三平師匠は見極めていたからでしょう。

こうして1978年、泰孝少年はこぶ平となりました。
ちなみに、こぶ平という名前の由来ですが、ゲンコツをもらってできる「こぶ」から来たとも、小太りだった体型からとも言われています。

正式に噺家の道に入ったのもつかの間、入門から2年後の1980年9月、三平師匠が54歳の若さで亡くなります。肝臓癌でした。
こぶ平さんは兄弟子の林家こん平師匠の元に身を寄せます。

やがて、1981年二つ目昇進。
当時、お客さんからは亡くなった三平師匠のような芸を求められ、その声に応じて漫談をやっていたそうです。それが受けることもありましたが、実はご本人、漫談は自分の芸ではないと、悩み続けていたのです。

真打昇進と自分の芸探しの旅

1987年、多くの先輩を追い抜いて、25歳という若さで真打に昇進しました。
親子三代で真打昇進は史上初の出来事です。
それでも、こぶ平さんは自分の芸を探し、悩む日々が続いていたといいます。

そんな折、一緒に真打昇進試験を受けた先輩、故古今亭右朝さんから呼び出されます。右朝さんはいくつもの賞を総なめにするほどの実力者。にもかかわらず、残念ながら昇進試験に落ちてしまい、こぶ平さんに追い抜かれてしまいました。その右朝さん、こぶ平さんにこう言ったといいます。

「こぶちゃんの『孝行糖』は、俺もいいと思ったよ。抜いていくのもわかるけど、ちゃんと抜いてくれ。納得できるぐらい売れて、落語のほうでも、あいつじゃしょうがねぇって言える人になってくれよ」
(林家正蔵『九代正蔵襲名』近代映画社刊、2005年、p56)

また、同じく二世落語家の故3代目古今亭志ん朝師匠は、こぶ平さんにこう語ったそうです。
「俺はおやじ(五代目志ん生)にはなれない。まねようとしてもできない。だから緻密で花のある芸を目指した。こぶ、おまえは三平兄さんにはなれません。あなたは漫談でなく筋のある噺をやりなさい。稽古量を増やして、誰が何と言おうと曲げずに」
(『日本経済新聞』2015年12月22日夕刊「落語家林家正蔵(2)」)

こうした先輩たちの言葉を聞きながらも、こぶ平さんの自分の芸探しの旅はまだ続いていました。そして40歳を目前に、古典落語に正面から向き合いたいという自分に気がついたのです。

こぶ平さんは当時義理の兄であった、春風亭小朝さんに相談します。小朝さんはこぶ平さんの真摯な態度を見て協力を約束。後日、読売GINZA落語会で一緒に古典落語をやるように誘います。その落語会は、小朝さんのほか、柳家花緑さん、桂小米朝(現米團治)さんなど、実力派の落語家が出演する華やかなものでした。そしてこぶ平さんは『景清』という演目でトリをつとめたのです。

公演後の打ち上げで、小朝さんはこぶ平さんにこう言いました。
「思ったとおりだ。だいじょうぶ。ちゃんと古典でやっていける」

正蔵誕生 先達の言葉を力に

それからこぶ平さんは3年間で50もの古典落語を習得。
低い声を出すため浄瑠璃の新内を学んだり、歌舞伎を観て、その所作を自分の芸に取り入れたりするなど、道を極めるためにさまざまな努力を積み重ねます。小唄はなんと名取の腕前です。
その真摯な取り組みを評価する人が増え、正蔵襲名を後押しする声が高まりました。そしてついに2005年襲名が実現します。

正蔵さんは襲名後も、先達の言葉から学び続けようと「言葉帳」を作って持ち歩き、ためになる言葉を聞くと、許しを得て書き留めるようになりました。
そうした言葉をいくつか紹介しましょう。

山田洋次監督の映画に出演した際、監督からこんなことを言われ、今でもその言葉を宝物として大切にしているそうです。
「正蔵くん、落語家ってなんだろうね。あなたが舞台に出てきて座布団に腰を下ろしてお辞儀をして、すっと顔を上げたときに、『今日はどんな話をしてくれるんだろう』って、まだ何もしゃべってもないのに、何かわくわくさせてくれる。そんな落語家っていいよね。そうなってもらいたいよね。正蔵くんならそうなれると思うし」
R25 Online「何もしゃべっていないのに、わくわくさせる落語家」2013年1月17日

また、正蔵さんの古典への挑戦を後押しした小朝さんからは、「良かったねではダメだ。すごかったと言われるようでなければ」と激励を受けます。

そして人間国宝の柳家小三治師匠にいたっては、なんと「笑わせてはいけない」とおっしゃったそうです。
古典落語は先人が練り上げてきたもので、普通にやれば自然と笑いが起こるようにできている、わざとらしい小細工は不要とのご達見です。

永六輔さんは、こぶ平時代から正蔵さんのことを誉めたことがなく、批判してばかりだったそうです。
その理由は、三平師匠にあります。師匠が晩年、闘病生活をしている頃、相談があるからと永さんを呼び出したそうです。そこで、師匠はこう頼んだのです。
「約束してほしいことがある。こぶ平を絶対に誉めないでくれ、叩いてくれ」

永さんは、その約束を守り、ご本人には申し訳ないとは思いつつ、三平師匠との約束を果たし続けます。こぶ平さんの高座を「銃殺もの」と酷評したり、とにかく誉めない。叩くことに徹したそうです。
こぶ平さんが正蔵を襲名したとき、永さんは意を決し、三平師匠との約束やいきさつを手紙にしたため、正蔵さんに渡したそうです。その最後には、こう記されていました。
「こぶ平を誉めないできたが…正蔵なら誉めてもいいのだろうか」

こうして、多くの人が正蔵さんに言葉をかけ、正蔵さんはその言葉の力で成長の階段を登ってきたのです。

ジャズが趣味、グルメ番組、そして分野を超えた交流

正蔵さんは落語以外にも幅広い世界と接しています。
中学の頃からジャズを聴き始め、レコードとCDのコレクションは3万枚に上ります。そして、ラジオ番組やジャズ専門誌で評論家として活躍し、『知識ゼロからのジャズ入門』(幻冬舎刊、2008年)という本まで出すほどのめり込んでいます。

また、情報誌に目を通し、一流から流行りの飲食店まで足を運んでチェックするなど、グルメな一面も。
それが高じて、「林家正蔵の今日も四時から飲み」という、午後4時からリーズナブルで粋に飲める店を紹介するテレビ番組も担当しています。

また、歌舞伎俳優の市川染五郎さん、タレントの所ジョージさん、作家のいとうせいこうさん、など分野を超えた幅広い交流を通して、常に刺激を受けているそうです。

さらなる高みを目指して

最後に父であり師匠であった三平師匠が、正蔵さんに遺した言葉を紹介しましょう。
「笑わせる 腕になるまで 泣く修行」
「明るく元気で一生懸命やりなさい」

林家の最高位の名跡である「正蔵」を襲名して十年あまり。
今や正蔵さんは一門を背負い、自分の長男の弟子入りを受け入れ、また、所属や流派を超えた落語家の集まり「六人の会」のメンバーとして、どんなときも人様から自分の性根を見られている、という緊張感を忘れず、ブレずに、真っ直ぐに、一生懸命自分の芸を磨いています。

今は、何が欲しい、こうなりたいというような欲はない、けれどもただ一つ言われたいことがあるそうです。
それは「いい噺家になったね」の一言。

先輩方からの数々の言葉を胸に、いい噺家を目指して、今日も地道な努力を続けている正蔵さん。ぜひその高座を一度ご覧になってみてください。

映画や舞台、声優も。縁で広がる活動の場。落語家、林家正蔵

林家正蔵さんといえば、落語協会の副会長を務め、誰もが認める正統派の落語家です。こぶ平時代からテレビ出演など、タレントとして活躍している姿を思い起こす方も多いでしょう。
実は正蔵さん、これまでに25本以上の映画に出演している、俳優・声優でもあるのです。今回は、役者としての林家正蔵さんにスポットを当ててみましょう。

スタートはテレビドラマの子役から

正蔵さんの俳優としてのテレビ出演は1972年、林家小三平の名前でテレビドラマの子役として、『一心太助』に出演したのが最初です。その後しばらく時間を空けて、NHK少年ドラマシリーズなどに出演するようになります。

初めての映画の仕事は声優として、1985年公開の『ペンギンズ・メモリー 幸福物語』というアニメ作品に出演しました。この映画は、サントリーのペンギンズバーというCMで起用された、ペンギンのアニメキャラクターが主人公で、トムというペンギンの声を担当しました。

その後、アニメ映画『タッチ』では捕手の松平孝太郎の声、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』では寺井巡査の声を担当するなど、活躍の場を広げていきます。

そして、映画出演は1989年、『右曲がりのダンディー』の実写版で、玉置浩二さんが演じる主役、一条まさとの同僚、安田一生を演じたのが最初です。
その後、『学校の怪談』(1997年)では人面犬、『カラフル』(2000年)では援助交際の中年男など、どちらかというとサエない役が続きます。

『頓馬(とんま)の使者』が取り持った縁

正蔵さんがまだこぶ平だった頃、山田洋次監督が柳家小さん師匠のために書き下ろした、落語『頓馬(とんま)の使者』をやりたくて、お願いに行ったそうです。その時監督は「稽古を見せること」を条件に快諾されたそうで、それから監督との付き合いが始まりました。

そして2005年、山田監督から映画『武士の一分』に出演のお誘いが。もちろん承諾したかったのですが、正蔵襲名と重なり、全国ツアーがあったため泣く泣く断りました。

その後、2011年のNHK連続テレビ小説のスペシャル版『どんど晴れスペシャル』で、無銭飲食をした作家が葛藤を抱えながらも、人情の機微に触れて改心する様子を好演。2013年、ついに山田洋次監督の『東京家族』で、金井庫造役として出演することができたのです。

さらに、2016年山田監督の20年ぶりの喜劇映画『家族はつらいよ』にも出演。そのとき、父、初代林家三平師匠のおはこ、軽く握った右手を頭にのせて「どーもすいません」、というポーズを映画の中で披露したところ、大ウケだったといいます。
この映画を家族で観た正蔵さん。母の海老名葉子さんはとにかく笑いっぱなし。そして最後にテロップで正蔵さんの名前が出たときは、本当に嬉しそうだったそうです。 そして、ポツリと「映画の家族もつらかったけど、海老名家のほうがつらいわよね」と言ったそうです。しかしそのとき正蔵さん、「家族はつらい。でもまんざら悪くないわね」と母は言いたかったのではないかと感じたそうです。

こうして、正蔵さんは着実に俳優としての足跡を残してきました。

ついに舞台の主役に挑戦

そんな正蔵さんが、KAKUTA第27回公演の『愚図』で初めて舞台で主演をしました。演じたのはスーパーマーケットのマネジャーで、妻とうまくいかず、売れ残りの弁当を公園で販売するような、パッとしない男です。
役作りのために、コンビニで買った弁当を夜の公園で食べていると、警察官に職務質問されてしまったとか。また、夜の外出を妻に怪しまれたり、いろいろと苦労があったそうです。

ポスターで披露したボサボサ頭、呆然とする表情は、初代林家三平師匠にそっくりという声も。みなさんはどう思われますか?

舞台も縁のなせる技

KAKUTAの舞台に出ることになったのも、縁による巡り合わせでした。
落語家の柳家喬太郎さんと楽屋で話しているときKAKUTAという劇団の芝居がすごいから、観に行ってみたらと勧められたそうです。それをきっかけに青山円形劇場で『痕跡(あとあと)』という鶴屋南北賞を受賞した芝居を観たところ、終演後、感動で立ち上がれなかったそうです。

それからすっかりKAKUTAファンとなり、劇団の人達とも顔なじみ、仲良くなって一緒に焼肉を食べていたところ、KAKUTA主宰の劇作家・演出家の桑原裕子さんが、焼肉の煙の向こうから、「正蔵師匠、今度出てみませんか?」と出演依頼。
二つ返事で「やらせてください」と承諾した正蔵さん。後になって、2時間も演技が続けられるだろうか、煙の向こうからだから出演依頼は幻だったのかも、など、いろいろ心配になったそうです。

しかし、そんな不安もいっときだけ。林家正蔵ではなく、本名の海老名泰孝として、ぐずな主人公をどう演じるかがテーマに。というのも落語家が芝居に出ると、どうしても落語家臭が出てしまうので、それを消すために努力したそうです。

生きているって、まんざら悪くないよね

正蔵さんいわく、この芝居は人間関係のもつれ、ゆがみでいろいろなトラブルが描かれるけれども、観終わったあとの気分は決して悪いものではないそうです。 それは正蔵さんが落語をとおして表現したい、「生きているって、まんざら悪くないよね。また明日もある」というものと共通するといいます。

来年3月も山田洋次監督が演出する音楽劇、東京・日生劇場での『マリウス』 に出演するなど、今後も役者としての活動が待っています。 落語家としてもますます脂が乗ってくるでしょうが、役者林家正蔵の活躍からも目が離せなくなりそうですね。

芸能一家生まれ!林家正蔵の濃すぎる?身内のあれこれ

人柄が良さそうでバラエティ―番組への出演でもお馴染みの九代目林家正蔵さん。
彼は現在林家一門を背負って立つ立場でもあり、最近はテレビ出演を控え高座へも積極的に取り組んで芸を磨いているそうです。
一方で、九代目林家正蔵さんと言えば、ご両親やお姉さん、弟さんが芸能界で活躍しており、言ってしまえば「濃ゆい」家族構成であるようです。
そこで今回は、九代目林家正蔵さんの身内の方々について詳しく紹介していきたいと思います。

祖父は七代目林家正蔵、父は初代林家三平、弟は二代目林家三平

九代目林家正蔵さんは1962年に初代林家三平さんと海老名香葉子さんの長男としてこの世に生を受けています。祖父には七代目林家正蔵さんを持つ彼は、言うまでもなく落語一家の嫡男としてその後落語の途へと身を寄せていくこととなったようです。

ここで祖父、父、息子での名跡の違いに疑問を持つ人も多いのではないでしょうか。確かに、祖父は七代目林家正蔵を継ぎながら、父は初代林家三平、しかし息子は九代目林家正蔵となっており、数字が合いませんよね。これには実は、名跡「林家正蔵」を巡るひとつの物語があったようです。

と言いますのも、そもそも「林家正蔵」の代々の系統は、五代目で断絶していると言われています。
その後七代目がこの世を去ったのち、五代目蝶花楼馬楽さんから「正蔵」の名を貸してほしいという申し出が来たそうです。当時彼は弟弟子である九代目柳家小三治さんと「五代目柳家小」の名跡をかけて争っており、敗北してしまっていたとか。結局柳家小三治さんが「五代目柳家小」を継ぐこととなりましたが、そうすると襲名後に「蝶花楼馬楽」の名跡が「柳家小」の名跡よりも格上になってしまうということでもめたそうです。一方で、七代目亡き後、ちょうど開いていた格上の名跡が「林家正蔵」だったとか。そこで五代目蝶花楼馬楽が「林家正蔵」の名跡を付与してほしいと頼み、実現に至ったと言います。
しかし単に「付与」という形になったことで、五代目蝶花楼馬楽さんが初代林家三平さんの後ろ盾になってくれるということは一切なかったとか。結局初代林家三平さんは五代目蝶花楼馬楽よりも早くこの世を去ってしまったため、「林家正蔵」の名跡を名乗ることはありませんでした。その後五代目蝶花楼馬楽さんは「林家正蔵」の名跡を海老名家に返し、自身は「彦六」の名を名乗るようになったのです。

実は九代目林家正蔵さんは、自身も父と同じ名跡である「林家三平」を襲名するとばかり思っていたそうですが、一変して祖父と同じ「林家正蔵」を襲名することになっていたとか。「林家正蔵」は「留め名」と呼ばれる、いわば最上位の名跡であることから、正蔵さんは襲名にあたって古典落語を中心にかなり勉強したそうです。一方で、「林家三平」の名跡は正蔵さんの弟である元「林家いっ平」さんが継承することとなりました。

姉は元女優の海老名美どり、シンガーソングライター泰葉

芸能一家でもある林家ファミリー。正蔵さん、三平さんには2人のお姉さんがいることも有名ですね。
まず長女である海老名美どりさん。俳優の峰隆太さんの奥様であり、以前は女優として活躍されていましたが、現在は美容研究家として活動されています。そして次女の泰葉さん。
泰葉さんと言えばなんといっても春風亭小朝さんとの離婚会見で注目を集めましたね。歯に衣着せぬ物言いで、小朝さんのことを「金髪豚やろう」と仰ったことは多くの方々を驚かせたと思います。また、結婚を機に芸能活動引退となった泰葉さんですが、離婚後は芸能活動を開始しているようです。現在はライブ活動やディナーショーの開催など、音富岳活動も行っているそうです。

現在は奥さんと3人のお子さんに恵まれる

九代目林家正蔵さんは一般女性の方と結婚されています。
歌舞伎俳優と違って落語家の奥様はあまりメディアにも顔の露出がない傾向にありますが、林家正蔵さんの場合も同じく、奥様の顔写真などは公開されていません。また、正蔵さんは息子さんが2人、娘さんが1人と、三人の子宝にも恵まれているとか。その中でも長男の海老名泰良さんは、現在「林家たま平」として落語家の途を歩んでいます。
彼は学生時代ラグビーに全力で取り組んでおり、海外からオファーが来るほど素晴らしい選手だったそうですが、高校3年生の時「花園」への切符をあと一歩のところで逃してしまったと言われています。
大学へスポーツ推薦の話も合ったらしいのですが、本人も思うところがあったのでしょう。ラグビーの途へ進まずに、父と同じ落語家を目指すようになったそうです。

今後は兄弟・親子公演も多くなるかも?

九代目を継承し、現在は高座へ積極的に取り組んでいるという林家正蔵さん。
現在も弟である二代目林家三平さんとの独奏会などを開催していますが、今後は兄弟、そして親子での公演も多くなるかもしれませんね。期待しましょう!

スポンサー

    ▲ページトップ