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一生に一度は見ておきたい金剛力士像の傑作! 東大寺南大門の仁王像とは

2017-02-08

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金剛力士像は、仏教の金剛力士の像です。二体一組となっていることが多く、それぞれ阿形像(あぎょうぞう)、吽形像(うんぎょうぞう)と呼ばれています。金剛力士には仁王という別名があるため、仁王像と呼ばれることもあります。
金剛力士像の特徴は、何と言っても、その迫力あるお姿です。中には異なるものもありますが、金剛力士像には、上半身をあらわにした筋肉むき出しのものが多いです。しかも、その筋肉も、そこらの細マッチョなど裸足で逃げ出すような、筋骨隆々としたお姿です。
金剛力士像は、表情にも特徴があります。菩薩などによく見られる優しい表情とは全く違った、カッと両の目を見開いて、相手をにらみつけるかのような迫力たっぷりの表情をしています。全ての仏像の中でも、インパクトの強さでは代表格と言っていいでしょう。

国内最高レベルの迫力!東大寺南大門の金剛力士立像

数ある金剛力士像の中でも国内最高レベルの迫力を誇っているのが、奈良県奈良市は東大寺の南大門にある金剛力士立像です。
東大寺南大門の金剛力士立像が造られたのは、鎌倉時代。戦火によって大きな被害を受けた東大寺復興の一環として、こちらの金剛力士立像も造られました。
中心となって造ったのは、当時の名仏師である運慶と快慶の二人とされてきましたが、今では少し、違ってきています。
東大寺南大門の金剛力士立像は、昭和の終わりから平成にかけて解体修理が行なわれたのですが、その際に、四人の名前が記された銘文が出てきました。
その四人とは、運慶、快慶に加えて、運慶の息子である湛慶と、運慶らが属する慶派の腕利きの仏師である定覚です。そのため、運慶、快慶の二人のみではなく、湛慶と定覚の力もあって、この傑作が生まれたものと考えられています。
東大寺南大門の金剛力士立像の魅力は何と言っても、数多の金剛力士像の中でも群を抜く迫力と、力感あふれる造形美です。
そのため、こちらの金剛力士立像は、国宝に指定されています。

東大寺南大門の金剛力士立像、実は左右で作風の違いがあった!

東大寺南大門の金剛力士像は、運慶と快慶、さらには湛慶と定覚も加えた四人に代表される慶派の仏師たちによって造られていますが、そんな中でも、作風の違いは自然と表れてきています。
中でも作風への影響が特に顕著なのが、運慶と快慶です。
まず、二人の作風についてですが、仏師としての基本的な傾向としましては、運慶は、リアルで力感あふれる作風が特徴となっています。
その一方、快慶は、運慶の力感あふれる作風に合わせるのも得意なのですが、そんな中にも、やわらかさ、優美さといったものが自然とにじみ出てくる作風となっています。
このような二人の作風の違いは、東大寺南大門の阿形像と吽形像に、それぞれ別個の個性を与えています。
具体的には、向かって右側の吽形像は、運慶の作風である、力強さが前面に表れる作品となっています。
一方、向かって左側の阿形像は、力強い造形の中にも快慶の作風がにじみ出ており、吽形像と比べますと、やや端正な造りとなっています。
ただし、全体を統括したのは運慶ですから、トータルで見ますと、二体とも力感あふれる作品となっています。その中にも、作り手による作風の違いが感じられ、しかもそれが二体一組の金剛力士像としての統一感を崩していないところが魅力なのです。

東大寺南大門の金剛力士立像が、わざわざ門に配置してある理由とは?

さて、そんな東大寺の金剛力士立像ですが、拝観できる場所は建物の中ではなく、南大門という門の両脇となっています。
有名で貴重な仏像であれば、建物の中に安置して大切に保管するという方法もあるのですが、なぜか、そうはなっていないのです。
これには、金剛力士像のお役目が大きく影響しています。
実は金剛力士像は、単なる拝観の対象や、願望成就をお願いする相手として配置されているわけではありません。
金剛力士像には、お寺全体にかかわる大切な役割があります。
それは、「お寺を仏敵から守る」ということです。
御仏の教えを妨げる者たちからお寺を守り、そういった者たちを中に入れないことが、金剛力士像の大切な役割なのです。
そのためにわざわざ、仏敵が入ってきそうな門の左右に配置され、文字通り、にらみを利かせているというわけです。
これは、東大寺南大門の金剛力士立像だけでなく、他の多くの金剛力士像にも共通していることです。
わざわざ建物の中ではなく、外に配置されているのには、それなりの理由があるということなのですね。

知っておきたい豆知識!東大寺南大門の金剛力士立像は、立ち位置に特徴があった!!

ここでひとつ、豆知識をご紹介しておきましょう。
東大寺南大門の金剛力士立像には、鎌倉時代に造られた他の金剛力士像とは異なる点があります。
それは、阿形像と吽形像の立ち位置です。
東大寺南大門の金剛力士立像は、向かって左側が阿形像、向かって右側が吽形像となっています。
一方、同じ鎌倉時代に造られた他の金剛力士像は、向かって右側が阿形像、向かって左側が吽形像と、逆になっているのが一般的です。
造られたのは同じ鎌倉時代なのに、なぜ、このような違いがあるのでしょうか。
実は、鎌倉時代よりもずっと前の奈良時代には、東大寺南大門の金剛力士立像と同じように、向かって左側が阿形像、向かって右側が吽形像という配置が普通でした。 その後、平安時代から鎌倉時代にかけては左右逆の配置が一般的になったのですが、東大寺南大門の金剛力士立像は、あえて奈良時代の配置に従ったのではないかと考えられています。

東大寺南大門の金剛力士立像って、どうやって造られた!?

ところで、東大寺南大門の金剛力士立像はどのようにして造られたのか、ご存じでしょうか?
造ったのは前述しましたように、運慶、快慶に、湛慶と定覚を加えた四人を中心とする慶派の仏師たちです。では、具体的にはどのような方法で、どのくらいの時間をかけて造られたのでしょうか。
すでにご紹介しましたが、東大寺南大門の金剛力士立像は、昭和の終わりから平成にかけて、全面的な解体修理が行なわれています。
その際に確認されたのですが、二体はほぼ同時進行で造られ、およそ70日で完成に至ったとのことです。携わった仏師らの数は、20名以上。また、使われた木材は、今の山口県にあたる場所から1年がかりで運ばれてきたとのことです。
ちなみに造り方についてですが、東大寺南大門の金剛力士立像は、1個の木材から造られているわけではありません。寄木造(よせきづくり)という、複数の木材を束ねて造る方法で造られています。この方法は平安時代後期に普及したもので、それまでは木造の仏像と言えば、一本の木材を中心とする一木造(いちぼくづくり)が主流でした。

東大寺には、他にも金剛力士像がある!?

東大寺には、この南大門の金剛力士立像の他に、法華堂にも金剛力士立像があります(法華堂以外に、三月堂という呼び名もあります)。
こちらも国宝となっていますので、せっかく東大寺に行かれるのであれば、法華堂にも足を運んでおかれるのがおすすめです。
ちなみに、東大寺法華堂には執金剛神立像もあります(執金剛神の読みは、しつこんごうしん、しゅこんごうしん、など複数あります)。
「金剛力士像でもないのに、なぜ紹介するの?」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、実は執金剛神と金剛力士は、ルーツが同じだと言われています。
ただし、執金剛神像は一体のみで配置される場合が多く、金剛力士像は二体一組で配置される場合が多い、などの違いがあります。
こちらの執金剛神立像は、残念ながら秘仏となっておりますので、普段はお目にかかることができません。しかし、毎年12月に1日だけ開扉となりますので、興味を持たれた方は日にちをよくご確認の上、あわせて拝観されるとよいでしょう。

頼もしい体躯をもつ仏法守護神、金剛力士の姿に迫る!

意外な所に仏教用語というものは転がっているものです。得意げになる「有頂天」とは、仏教世界の中心にある山「須弥山」の一部が元ですし、他人の力を当てにする言葉「他力本願」も元は仏教用語。

もっとも、他力本願は意味が真逆のものとなっていますが。取り立てて仏教徒でないと自負する方でも、何となく、何気なく、というより知らず知らずのうちに仏教用語を使っていたりするんですね。中には仏像から生まれた言葉もあります。息がぴったり、という意味の「阿吽」。これはご周知のとおり二体で一組の狛犬、もしくは金剛力士像から来ています。片方は口を開き、もう片方は閉じている。「あ」「うん」と見える為、それぞれを阿形像、吽形像と呼ばれるようになり、「阿吽の呼吸」という言葉が生まれたわけです。

仁王様こと金剛力士像基礎知識

「五十音順の始まりを表す『阿』が全て(宇宙)の始まりを意味し、最期の文字となる『吽』が終わりを意味する」との説により、門の外、或いは道内でも対の存在として左右に配置されることが多いです。日本に於いては裙(くん)と呼ばれる巻きスカートのような布を申し訳程度に巻き、半裸で筋骨隆々、いかにも頼もしい姿で知られます。この姿になったのは七世紀ごろとかなり古く、歴史の重みを感じさせる伝統的な姿です。

半面基本的に「野ざらし」状態なため保存状態がいいとは言えないものも多いのもまた事実。しかし「屋根付き」の像も存在しますし、堂内でも左右に配置されて「守護神」の性格を如実に表してもいます。ちなみに阿形は大口を開け怒っている姿、吽形は静かに怒っている姿を現す、との説もあります。左に吽形像、右に阿形像を置くのが一般的とされます。

「武器」金剛杵

では金剛杵(サンスクリット名ヴァジュラ)とは何か。煩悩を打ち砕き、仏敵を追い払うための武器のようなものです。ダイヤモンドを金剛石と言う通り、非常に硬いものとされます。金剛杵を持つ仏像は他にもいますが、名前に「金剛」の字が入っているのは金剛力士像のみ。元の名前がそうだからと言えばそれまでですが、何だか「信頼されている」神様という感じを受け、頼もしいますね。

いろいろ種類があり、中には独鈷と呼ばれるものもあるそうで実際の僧侶も使っていたようです。

鎧姿の仁王様も

日本では基本裸形の金剛力士ですが、中には甲冑姿のものも存在します。先の執金剛神と同じく東大寺三月堂に祀られている物です。こちらは甲冑を着ているだけでなく、吽形像のみ「密迹力士(みっしゃくりきし)」という名で呼ばれています。金剛力士像の異名に「密迹金剛」もあるためこうよばれているのかもしれません。

二十八部衆でも違った呼ばれ方?「阿吽」コンビの別名

千手観音やその信者、ひいては阿弥陀如来をも守護する二十八部衆の一員にもなっています。
執金剛神ではなく金剛力士としてですが、阿形吽形ではなくちゃんと名前が存在します。阿形は那羅延堅固王(ならえんけんごおう)、吽形は密迹金剛力士という名に変更。那羅延堅固王という名前の由来は、ヴィシュヌ神の別名ナーラーヤナから。「何の関係があるんだ」と言われれば、『無量寿経』という経典の中に答えがあります。

二十八部衆、千手観音がお守りする阿弥陀如来様がまだ修行中の頃、「悟るために」立てた四十八の誓いがありました。これができなきゃ如来にはなりませんという願掛けです。その二十六番目が、「他の修行者が、ナーラーヤナ神による金剛杵で打たれても大丈夫なほど丈夫な体を得られるように」というものでした。

何て言うか豪快な願掛けに見えますが、その位強固な意志を持っておられたと言うわけですね。吽形と那羅延天、つまりヴィシュヌ神がイコールというわけではないにせよ、金剛杵繋がりでこの名を与えられた、というわけでしょうか。

東大寺南大門の金剛力士像建立の影に歴史の壮大さ

金剛力士像を語る上で、外せない仏師がいます。
それ即ち、運慶と快慶。運慶と言えば仏師の中でも抜群に有名ですし、代表作の東大寺南大門の金剛力士像も、仁王像の中では飛び抜けて知られた像と言えます。切っても切れない両者、そして南大門の金剛力士像建立の背景を見ると、何だか非常に大きな歴史のロマンが浮かんでくるようです。仏師康慶の子として生まれた運慶は、奈良仏師と呼ばれる当時としてはかなりマイナーな流派に属していました。

それが源平合戦に端を発する南都復興(南都とは奈良のことです。僧兵との軋轢が元で、平清盛が「東大寺と興福寺の焼き討ち」を命じたんですね。怖い怖い)、並びに武士の台頭によりようやく日の目を見るようになったわけです。奈良仏師、というか康慶や運慶は「力強い作風」で有名。武士の好みに合った、というわけですね。つまり、源平合戦及び、貴族から武士へという需要の歴史を体現するとも言えるのが運慶及び南大門仁王像というわけです。

運慶が今で言う「プロデュース」を任されたのが東大寺南大門の金剛力士像建設です。着手したのは運慶を含む4人。他のメンバーは快慶、定覚、運慶の息子湛慶です。

南大門の金剛力士像

1203年に作られたこちらの像は色々とイレギュラーな点があります。
まず、「左右が逆」。通常と違い、向かって左に阿形像を置き、右に吽形像を置いているのです。そして「向かい合っている」点もまた変わっています。正面を向いて「失せろや仏敵!」とばかりに立ち向かっているのが通常の金剛力士像。南大門の者が向き合う理由は、風雨の被害から避ける意味合いもありますが、「どう見えるか」を配慮した作りだそうです。大きさは8.36メートル。長いこと「阿形は快慶、吽形は運慶が担当した」と言われてきましたが、数百年を経てその説が覆りました。

1988年から93年に渡る改修工事の中、金剛力士像の中にあった納入書により阿形を担当したのは運慶と快慶、吽形を担当したのが定覚と湛慶であることが判明。しかも彼らだけでなく、十数名あまりの小仏師が協力し合い、「寄木造り」という技法を作って作り上げたことまで分かったそうです。「2か月強で出来た」というのも、その納入書により明らかになった事実。「どう見えるか」を綿密に計算、検討し、納得のいく像を納得いくまで作り上げる。そのためなら、一度にかける時間がいくらかかっても構わない。強い職人魂が伝わってきますね。

まとめ

日本では奈良時代辺りから確認されている金剛力士像。どんな煩悩も敵もウチ壊してしまう武器と戦闘向きの体躯ながら、「怖い」というよりも「守られている」安心感を覚えさせる像です。異様な迫力だけでない者は、物資たちの魂の証なのかもしれないですね。

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