一・二を争う歴史を持つ天守、丸岡城と山本勘助の縄張?小諸城

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 丸岡城は国内に十二ヶ所存在する現存天守の一つで、天守は重要文化財に指定されています。その概観は北陸の寒さをしのぐために石瓦が葺かれているところに目がいきますが、この石瓦の石は福井市内でとれる笏谷石と呼ばれる石で作られています。銃眼や物見櫓の荒々しさで、桃山時代の金箔瓦の絢爛さなど吹き飛んでしまい、その佇まいには古武士のような無骨さを覚えます。

 もともとは柴田勝家の甥の勝豊が築城した平山城です。初期天守の典型で、野面積みの天守台の上に建てられた二重三階、東西12.7m、南北10.8m、高さ12.6mの望楼型構造で、1613年以降の築城という説と1576年の築城という説があります。1576年の築城であれば、古風なつくりは時代に合致します。

 有識者の間では犬山城天守が最古か、丸岡城天守が最古かで意見が分かれています。丸岡城が最古の天守と主張するのを退ける史料として、1613年に描かれた絵に天守が描かれておらず、櫓や門のみが描かれていることがあげられます。他には最上階の望楼が三間×四間と初期望楼としてはサイズが大きすぎるという指摘があります。

 しかし前述の通り、非常に古いつくりであることに加え、天守が描かれていなかった絵にも天守台石垣に二重枠が引かれていて、これが二重の建築物構造を示唆するという人もいます。軒下が漆喰ではなく白木づくりであり防火面から優れていないこと、さらに望楼と母屋が別の柱でつくらされているなど、所期望楼型の典型例が多数見られます。これは先ほど最古を競っていると述べた犬山城や高知城に見られるものでもあります。他にも、この天守の柱は堀建柱であり、これは戦国期によく見られた礎石と土台を用いない建築術です。慶長説を採択するには、時代にあまりにそぐわないつくりと言えます。

 それらから、この天守をつくった人物・時代は特定できませんが、この城郭の基礎をつくった人物は間違いなく柴田勝豊であると考えられます。

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 丸岡城の絵図を見ると、連郭式縄張と環郭式縄張の両方の特徴を持っていることがわかります。本丸の北方に二の丸を敷き二つを囲むように幅が五十間にも及ぶ大きな内堀で約6haの中核部を囲い込んでいます。その東に東の丸、北に二の丸、三の丸があり、武家屋敷が配置され、これら全体で城郭を形成していたようです。五角形の堀を持ち、最大幅が九十一mもあります。

 この城には人柱となった片目の女性のお静の伝説も残っています。彼女は自らの子の仕官を託し、勝豊が城を移した際に人柱となりました。しかし子は勝豊が移封してしまったせいで仕官できず、恨んだ彼女は片目の大蛇となり、涙で堀に毎年水を満たしていたといわれています。また、仕官のないパターンもあり、彼女は大蛇となり、城が外敵による危機に見舞われると深い霧を吐き、城を隠し守護したとも伝えられています。これにより丸岡城は霞ヶ城の別名を持っています。この辺り一体に霧が立ちこめやすいということを表す伝承ですが、この霧という要素はまた天然の要害としての機能を持っていたのでしょう。

 現在は天守以外の建造物はなく、その天守も1948年の福井大地震によって倒壊しましたが、1955年に修復されました。

2 小諸城

「小諸なる古城のほとり雲白く 遊子悲しむ 緑なす繁縷は萌えず 若草も敷くによしなし」
と島崎藤村が詠んだ小諸城。とても静かな城です。

 「穴城」という愛称のある小諸城。理由はその独特の縄張にあります。

通常、天守を置く本丸は一番高い位置が選ばれます。天守は周囲を高所から見張る櫓としての機能を持つものである以上、これはどの城でも共通です。しかし、小諸の場合はまったくの逆で、城下町が高い位置にあり、本丸はそれよりも低い立地となっています。この独特の縄張は他に類を見ません。

 小諸城の歴史を追いかけていくと、1554年に武田信玄がこの地に東信濃の拠点として城を築いたというのがその始まりです。この初期の縄張は武田家に仕えた軍師、山本勘助のものであったと伝えられています。

 千曲川側から順に本丸、二の丸、三の丸と配置され、その左右に多数の曲輪が築かれています。小諸城の両側面は、南北に走る深い谷によってさえぎられ、西側は千曲川の急流で、攻勢ルートは東から大手への一つしか存在しません。千曲川を西に置き、次第に高くなっていくこのすり鉢状の縄張は非常に要害として優れています。自然谷と人工谷によって防御されている他、深さ15mから20m、幅が15mから25mの空堀の谷が南に4つ、北に5つありました。本丸も石垣により区分けされ、これは安土桃山期に見られる本丸の内部に帯曲輪を設ける形でもあります。フランス・パリが城塞都市として優れていたのも、このようにすり鉢状の構造をしていたからです。規模は違いますが、その機能は同じと考えてよいでしょう。奇抜な形に見えるその縄張は、実は理にかなったものなのです。

 もとは信濃の豪族大井氏の乙女城でしたが、南北に走る深い谷間を利用し、規模を拡大させたのが小諸城です。

 主な防御線が東側一方向のみとなる天然地形であるため、人工の堀切は大手側のみにつくればよく、財政的にも優れています。

 武田氏が滅亡したあとは上野国と信濃佐久郡・小県郡は織田家家臣の滝川一益の支配下となります。城代は道家正栄が務めますが、天正10年6月2日に起こった本能寺の変により、相模国の北条氏が上野国へ侵攻し、一益は北条氏と神流川で交戦するも敗退。敗走した一益は小諸城に入城します。その後、佐久郡の国衆、依田信番と小諸城で会談、また木曽郡の木曽義昌とも交渉し、小諸城を退去して本国の伊勢国長島へ帰還しました。これにより小諸城主は依田信番となります。その後は徳川が本能寺の変のあとの混乱期に領地化。小田原の役の後はその戦功を認められた仙石秀久が五万石の大名として入りました。このとき、仙石氏により、現在伝えられている縄張や石垣などが築かれたといいます。

 残念ながら1626年に落雷によって天守は焼失しました。現在、小諸城は懐古園という名の公園になっています。ここを新幹線が通るという計画がありましたが、地元住民の反対によって駅の開設は見送られました。そのおかげで文化遺産としての城が残ったのです。

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