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横山大観の厳しい審美眼と妥協を許さない絵の世界

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横山大観

現代の日本画史に大きな影響を与えた人物のひとりが横山大観と言われています。当時「現代の日本画家で手強い人は?」という問いかけをすると横山大観と答える画家が多かったそうです。横山大観に認められた画家は必ず有名になっているとまで言われています。そんな横山大観の厳しく妥協を許さない絵とその人物像について詳しくご紹介していきます。

横山大観の厳しい審美眼で見る絵の世界

「正気放光」江田島海上自衛隊第一術科学校参考館蔵

  1942年第29回院展出品作品が「正気放光」です。大観は富士の画家としても知られています。太平洋のうねる大波に呼応している気高い富士の姿があり、背景は空ではなく日本海の波を表しているようです。
「落葉」菱田春草 重要文化財 永青文庫美術館蔵

大観は、文展の審査委員を務めていました。明治42年第三回文展に出品された菱田春草の「落葉」を巡って同じく文展審査員の山岡米華(裁判書記を務めながら画家としても活躍 日本画会幹事)は、絵を描く時の精神、哲学や筆、墨、紙の扱い方、色の付け方、山水、樹木、岩石、雲、滝、人物、畜獣、建築物、橋梁の描き方が書かれた絵画の教科書である『芥子園画伝』の画論を持ち出して「菱田春草の『落葉』は絵ではない!」と徹底的に議論したようです。しかし、大観はこの意見に一歩も譲ることなく激論を繰り広げ「落葉」を二等賞に推しました。今でこそ菱田春草の「落葉」は、近代日本画の代表作として有名ですが、これも大観の推しがあったことは間違えなさそうです。
「近江八景」今村紫紅 重要文化財 東京国立博物館蔵

第五回文展にいたっては今村紫紅の「近江八景」を巡って、文展審査員のひとり川合玉堂(画家、岡倉天心、雅邦、横山大観とともに創立した日本美術院に参加、東京美術学校日本画科教授、1917年帝室技芸院をした日本画壇の中心人物のひとり)が、紫紅の新しい絵の趣向についていけずこの絵を否定しました。

しかし、大観はこの意見にも反対し今村紫紅の「近江八景」を二等賞に推します。大観は、友人や先輩の絵であっても私情をはさむことは絶対にしなかったようです。つねに公平な目で審査をし、容赦なく落選にすることもあったそうです。

大観のこのような振る舞いは文展の文部当局からうとましがられ、第八回文展の前に大観を審査委員から解任します。大観が審査員を務めた時の文展の入選点数は、想像以上に厳選されていたようです。例えば、出品点数434に対し入選点数は6点だけのときもありました。

大観が日本美術院に推薦した画家には、今村紫紅、小林古径、速水御舟、冨田溪仙、安田靫彦(ゆきひこ)、小川芋銭、小茂田青樹、川端竜子などがいます。現代美術史において高い評価を得ている人物ばかりです。

一方で、大観に反対した個人的な利益重視とも言える情実横行の文展の画家達は、その後名前があがることなく消えていくことが多かったようです。文展審査員を解任されてからは、大観は師である岡倉天心の偉業を継ぎ日本美術院を再興させました。
「河北倫明」

1969年東京都国立博物館館長、美術館連絡協議会会長、京都造形芸術大学学長、1991年文化功労者である河北倫明が横山大観に「先生、絵にはいろんなものがあるがどういう絵が一番いい絵ですか?」とたずねます。

この問いかけに対し大観は「それは、作品を見たらあっというだけでものが言えなくなるような絵だ。どうだこうだと言えるような絵、言いたくなるような絵は大した絵ではない」と答えたそうです。

大観の妥協を許さない絵

四季の雨」東京芸術大学芸術資料館蔵

大観に認められた画家は今でも有名な人物が多く存在します。しかし、大観には頑固なまでに西洋画を認めない一面もあったようです。西洋描写は写真の代用品であって日本画の特質である『雪月花』(季節、年間を通した日本の美)の世界を犯すものだという岡倉天心の教えに背くものと考えていたからです。

大観の存在は、他の画家にはとても大きいものでした。西洋画を激しく嫌っていた大観に背けないと本格的な写実を追求することが出来ないままの画家も多く存在し、この当時西洋画のような写実を基礎とした画家が育たなかったとも言われています。

しかし、大観は、西洋画を嫌いながら「朦朧体」という没線主彩の手法を試みている時期があります。それは、天心の「空気を描く工夫はないか」という設問に答え、実践を試みた技法でした。「四季の雨」では雨脚に線を用いないで湿潤な空間を表現することに成功しています。

この新しい試みを用いた技法に対し反対意見も多く存在したそうです。洋風画的な要素が見られるこの技法に対し洋画の方からは、日本画には遠近法がなく、人体描写に解剖学的基礎が見られないなどの非難が出ました。
「菜の葉」

しかし、この試みは「四季の雨」から1900年の「菜の葉」へと続いて行きます。「菜の葉」は、第八回日本絵画協会共進会出品作で、この作品には賛否両論あったようです。今ではこの大観の朦朧体は、新しい試みとして歴史的な業績と称えられています。ぜひ、大観の妥協を許さない絵を堪能してみて下さい。

横山大観の現代に語り継がれる天才絵の魅力

老子」永青文庫蔵

近代日本画の代表される人物が横山大観と言われています。横山大観は、独自の画風を切り開いた人とも言われていて、現代美術に大きな影響を与えた人物であることは間違えありません。横山大観の現代に語り継がれる天才絵と呼ばれた作品について詳しくご紹介していきます。

夏目漱石が評した横山大観の人物描写

夏目漱石

横山大観の「老子」は、師である岡倉天心の意中に応えた作品と言われています。「老子」とは、春秋戦国時代の中国の哲学者で、「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称とされています。

大観の描く「老子」には、今まで誰も想像しなかった新しい老子像が描かれているようです。老子の手には巻物を開き、そばで赤衣の子供が眠っています。その老子の眼光は見る者の心を見透かしているようだとも言われています。

夏目漱石は、大観の画を見て「気のきいたような間のぬけたような趣」と言って評したという話が残されているのも有名です。
「焚火」永青文庫蔵

第一回日本美術院習作展出品作です。この絵は、禅宗の高僧や道教、仏教に関係する人物画、主に神仙や仏教の羅漢・観音など、鎌倉、室町時代によく描かれた画題の『道釈人物画』です。

大観の描く伝統的な画題には、他では見られない趣があると言われていて、両者の容貌にも大観らしさがにじみ出ていると言われています。

横山大観の色鮮やかな世界

「遊刃有余地」東京国立博物館蔵

大観の画には鮮やかな色彩の絵とモノクロの水墨画がありどちらも大観ならではの幅広い技法が見られます。中でも色鮮やかな作品に「遊刃有余地」、「山路」、「柿紅葉」などがあります。これらの絵は澄明な色彩が印象に残る作品です。

「遊刃有余地」は、荘子(中国、戦国時代の思想書で10巻33編の壮士とその学統に連なった後任の著作本)の第三「養生主篇」第二話の話で梁の恵王と庖(料理人)の丁とのやりとりを描いた絵になります。

丁は、牛を料理する名人でその技を恵王が褒めると、それに対し丁は「技より道だ」と答えます。「心で牛肉に向かい自然のままの筋目に刃を働かせば言うまでもなく刃は薄く隙間のある所へ入っていくのだから充分すぎるほどの余裕がある」という意味でした。

それを聞いた恵王は「庖丁の話を聞いて養生の秘訣を知った」と感心するという一場面を描いたものです。

この主題は、文部当局が目的や理想をすぐにでも変えたいがために大観を文展の審査員から解任したことに対して「再び旗揚げしてやる!」といった文展への皮肉が込められている作品と言われています。

まさに文展への「宣戦布告」という絵です。三原色を主体とし、線もすべて色線で鮮明な画面構成になっていることが特徴的な絵としても知られています。
「山路」永青文庫蔵

また、「山路」も鮮明な色彩に洋画タッチのようなあらっぽいまでの点葉描写や空間描写が美しく、木々の間から客を乗せて通う馬の姿が印象に残る作品です。

大観は赤松を描くのにかなり悩み、格好の良い赤松が塩原にあると聞いてわざわざ見に出かけたそうです。この3本の赤松が画面構成に良いアクセントをつけている点でも「さすが大観ならではの技がそこにある」と言われています。
「柿紅葉」永青文庫蔵

「柿紅葉」もまた色彩豊かな作品で緑青、朱が目を引きます。現実の風景描写というより様々な工夫がなされた大観の思い描く赤松や竹などの配置構成が際立つ絵です。大観ならではの独特な世界観が繰り広げられているのが分かる作品といえます。

天才的傑作と呼ばれた大観の水墨画

「生々流転」(一部) 重要文化財 東京国立近代美術館蔵

大観の集大成と呼ばれている作品が40メートルの長巻に書かれた「生々流転」です。大観の水墨画は、卓越した濃淡微妙な墨の層が美しい技術で構成されており、天才的と言われていた大観技法のすべてが集中されている作品として知られています。

雲の湧く山中から始まり桜が咲いた山に鹿が遊ぶ、川には滝が集まり、水音の響く中に馬ときこりの行く桟道をすぎる風景が広がります。ここには『片ぼかし』という技法が取り入れられています。『片ぼかし』とは、簡単に言うと色彩の濃淡で凹凸や陰影を表す技法です。

昔から仏画などで用いられていますが、円山応挙が水を含んだ筆に絵具や墨をつけ、穂先で形を描きながら根本でぼかしを入れ陰影を描き、幾筆も重ねていくことで写生を素早く行う技法として考案していきました。

この『片ぼかし』を大観は、独自の技法を加え湿潤で変化に富んだ空間表現と立体的な岸壁の高くそびえている様子を表現することに成功しています。そこから、川は大きな岩をぬぐうように松林の山を廻り交流と合わさって大河になっていきます。

岸辺には石灯籠がある所にのんびり煙管を加えた馬子と空馬、釣り人が歩き、山頂には、祠のある小丘の影に漁夫の家と柳の大樹が揺れています。漁夫は舟を出し、対岸の村落には朦朧とした雨が降り注ぎ、やがて川の流れは緩やかに町ヘと出て大きな橋をくぐり海へと繋がっていきます。
浜辺では漁夫たちが漁をしているところに焚き火の煙が上り、沖では潮の流れが逆巻きになり、大きな岩に鵜が空を見上げている様子が見えてきます。そして、風と波が天をつくように飛龍とともに昇天していくという水の流れがひとつの大きなドラマとなって見えてくるのが「生々流転」です。
現代にわたりこの水墨画は、重要な一指標として大きな意味をなしています。大観の人生をかけた大作は今も強烈なインパクトを残したままです。ぜひ、天才と言われた大観の美しい世界を知るきっかけにして下さい。

横山大観といえば『富士山』と言われる理由 彼の富士への信念に迫る

「霊峰飛鶴(れいほうひかく)」

横山大観は日本美術史の中でも最高峰に位置すると言われている画家です。その大観の絵には富士山が多く描かれています。大観が描く富士山はただの描写ではなく見る人の心に残ると言われています。
富士山を多く描いた横山大観の信念とその魅力について詳しくご紹介していきます。

富士山とともに生きた横山大観の信念

「雲中富士」東京国立博物館蔵

「雲中富士」は、Googleの画面でも印象に残っている人が多いのではないでしょうか。大観の作品の中でもとてもシンプルな描き方をした富士作品です。横に広がりを見せていく雲海の上に少し雪が残る群青の富士山が現れています。
大観は東京美術学校の図案化の助教授を務めていました。「雲中富士」のデザイン的要素が強いのも図案と画を両方の技法を持ち合わせていた大観ならではといえます。
「雲中富士」のイメージとガラリと違うのが「霊峰飛鶴」です。

雪化粧をした美しい富士の山容に背後から瑞光が輝き金色の稜線を放っています。そこを鶴が連なるように列をなし飛んで行きます。この作品は先に富士山を描いた「心神」の構図によく似ているのですが、白銀の富士に瑞光が射しこんだ瞬間をとらえている点で『霊峰人格論』を強調した作品といえます。

大観は「伊豆の猿磨山から見た富士山が一番美しい。猿磨山から眺めると宝永山が隠れて完全に隠れた所のない富士山容となるから、人間も誰でも欠点がありそれを全てカバーする偉大さを見なくてはならない」と語っています。

霊峰富士は人格そのものであるから「富士山を描くということは富士にうつる自分の心を描くこと」と常々言っていたそうです。

専門家の中には「大観の富士がうまいというわけではないが、大観にしか描けない富士であって、なんど見ても飽きない。富士の絵が何かを語りかけてくるような感覚にさえなる」と言う人も多くいます。

それは、ただ見た風景をそのまま描いたのではなく、富士山の核心をつかんで自分のものにしてしまう大観だから出来る感性ともいわれています。大観の富士の絵は需要も多かったといいます。

大観自身「みなさんが富士、富士と言うものですから」と話しながら「富士を写すことはそこに自分の姿を描くことだ」と口癖のようにいつも言っていたそうです。さらに大観のおもしろいエピソードが残されています。

横山大観は富士の絵同様に人を惹きつける人物だった

「祝儀袋」

大観は、雪を描く時に観世縒(かんぜより)を束ねて胡粉をつけてパッパッとやってその後に「これ、絶対誰にも言うなよ」と言っていたそうです。(観世縒りはご祝儀袋などでも見られる和紙を束ねた紙縒りのこと)

そのほかにも雑巾を使って胡粉を塗ったり、指で描いたりしていたそうです。大観は大胆で思いついたらなんでもやってしまうので「大観先生に自分の店の筆を使ってほしくない。何をやるかわからない」と言った店主もいたのだとか。ところがそのうち「ぜひ、うちの筆を使って欲しい」という風に変わってくるという話も残されています。

横山大観

大観はなんの絵でも写生をしないで描く画家で写生を嫌っていたといわれています。しかし、「或る日の太平洋」(東京国立博物館蔵)の富士山が遠くに見え、下方向から大波があらゆるものを巻き込みながら空へ突き登りその中から龍が空高く舞い上がる有名な絵では、

構想と構成を何度も追求していたといいます。大観は、下書きのスケッチそのものを使っていないだけで、いきなり本番の絵を描いていくようなことをしなかっただけだったのです。

大観に「先生は、写生をされますか」と聞くと、「僕だって写生するさ。だけどそれをすぐに使わないよ。大抵1年は寝かしておく。写生そのまますぐ使うとどうも絵がゲスっぽくなる」(「大観」より)と答えています。

大観は、自然を見て画題を考えるのではなく、まず自分で考えたものを画題にし、何か認識不足になっているところだけ自然からとるようにしていたのです。認識不足で疑いが残ったままだと必ずやりそこねてしまうと考えていたといいます。

大観の作品は、見る人に何かを伝えてくるような感覚になるのは、彼の信念が一緒に描かれているからなのではないでしょうか。大観の人柄がよく見えるエピソードはこれだけではありません。

横山大観の東京駅の富士山

東京駅」

戦後、破壊されつくした線路に食糧難で体力、気力も弱っていた東京駅の職員達が必死で汽車を動かしていたといいます。職員たちは、無理難題を言う進駐軍の至上命令と第三国の無茶な要求に涙を拭っていたそうです。

そんな時、大観は東京駅の職員に「誇りを持って希望を抱きそして、正しい志操を失わないように」という思いの込もった富士山の絵を寄贈します。

「富士山」

この時の「富士に桜」の絵を実業家の五島慶太(東京急行電鉄の事実上の創業者)が「1億2千万円で譲って欲しい」と申し出ました。当時の国鉄の職員の初任給が1万円くらいだったので、1億2千万円は破格の金額です。

しかし、国鉄はこの申し出を断ります。それだけ、大観の絵は当時の職員の心の支えになっていたということです。

ところで、なぜ大観が自宅近くの上野駅ではなく東京駅に絵を寄贈したのかというと、昭和22年(1947年)日本は空襲の痛手がまだ多く残っていた頃、大観は熱海伊豆山に住み東京駅から熱海へ向かうところ、その日たまたま東海道線で事故があり東京駅は混雑していたそうです。大観もその人混みの中にいたのですが、駅員の誰かが大観に気づき日本画壇の最高峰の大観先生をあの人混みの中に立たせていては気の毒だと思い駅長室に案内したといいます。

駅長室といっても空襲の爪痕が残ったままの寂しい場所だったようです。大観はこの時の職員の好意が嬉しかったのか何もない駅長室を気の毒に感じたのかはっきりわかっていないのですが「自分の絵を駅長室に贈りましょう」という趣旨の話をします。

何ヶ月か経って本当に大観の絵が東京駅に届くと職員達は驚き、当時の駅長の天野駅長は、すぐに東京鉄道局に「横山大観先生から富士の絵が届きました」と報告します。この報告に東京鉄道局も驚き、すぐに運輸省に連絡を入れます。

すぐさま東京駅の駅長室で大観を招待しお礼の食事会を催すことになります。この席には、大観が中央に座りその前に佐藤栄作運輸次官(後の内閣総理大臣)、伊能鉄道総局長官(後の参議院議員)、下山東京鉄道局長(後の国鉄総裁)などそうそうたるメンバーがいました。

この時のメンバーの誰かが、大観が東京駅に贈った「富士に雲」の絵を将来は天皇皇后がご休息になる「松の間」に移しますという話をすると、大観は手を振って「あれは駅長室に飾ってもらうために描いた絵だから、そういうことならもう一枚描きましょう」と言い出します。

大観の言葉にその場にいた皆が顔を見合わせて驚いたそうです。「謝礼をさせて欲しい」と申し出ても一切謝礼を受け取ろうとしない大観に国鉄は、金粉入りのウイスキーを代わりに贈ります。

お酒好きの大観は、このウイスキーを喜んで受け取ってくれたそうです。昭和28年(1953)東京駅の貴賓室「松の間」が完成すると、約束通り大観はもう一枚の富士の絵「富士と桜」を届けます。この時も謝礼を受け取らない大観に後で清酒2本を届けたという話があります。

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