日本史

徳川綱吉を再評価! 世界初の動物愛護法を作った将軍の真実

2017-03-06

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徳川綱吉といえば、生類憐みの令で有名です。歴史の授業でもだいたいセットにして出てきます。そして生類憐みの令ですが、天下の悪法としてのイメージがあります。犬や猫などを叩いて人が処罰されたとか、魚釣りをしている人が処罰されたなどで庶民が非常に困ったとか。多くの人が違反で処罰されたなどのイメージを持っていませんか?

そこで、ここでは生類憐みの令と綱吉に関わる部分を検証してみたいと思います。

生類憐みの令

1687(貞享4)年、徳川幕府第5代将軍・徳川綱吉は1つの法令を出しました。そこには、以下のように書かれていました。(現代語に訳しています)

一、捨て子があればすぐさま届け出ようとせず、その場所の者がいたわり、みずから養うか、またはのぞむ者がいればその養子とせよ。

一、鳥類・畜類で、人が傷つけたと思われるものは今までのように届け出よ。共食いやみずから傷つけたと思われるものは届け出なくてよい。それらを養育し、持ち主があればかえすように。

一、飼い主がいない犬に日ごろ食べ物をあたえないようにしているという。それは要するに食べ物をあたえれば、その人の飼い犬のようになって面倒なことがおこると考え、いたわらないでいるらしいが、けしからん。これからはそのようなことがないよう。

一、飼い犬が死ぬと、飼い主は上司へ届けでているという。その死に異常がなければ、これからはそのような届け出は無用である。

一、犬ばかりにかぎらず、人々はすべて生類へ慈悲の心からでるあわれみをほどこすように。

これが生類憐みの令と呼ばれる法令の最初の布告でした。
以後、134回に渡って関連する、お触れが出されていきます。しかし、ここで注目なのは、まず捨て子の保護を第一に謳っていることです。そして、捨て子だけでなく他の生き物も大切しなさいと書いてあるだけです。
この至極真っ当な法令がなぜ天下の悪法と言われるようになったのでしょうか。そこには、綱吉の戦いがありました。

戦国の遺風がまだ残る

1651(慶安4)年、幕府の屋台骨を揺るがす事件が起こりました。
駿府において軍学者・由比正雪が幕府転覆計画を企てて発覚し、加担した人々が自害あるいは捕縛されて刑死するという事件でした。世に慶安事件あるいは由比正雪の乱と言われています。大坂の陣を経て戦国時代が終わったにも関わらず、人々の心の中にはいまだ武を貴ぶ風潮が残っていました。4代将軍・家綱の時代に武断政治から文治政治への転換を進めていましたが、簡単に人の心は変わりません。江戸市中においても、いまだに辻斬りが発生したりする状況でした。こうした中で綱吉は1680(延宝8)年、将軍に就任したのです。

人の心を優しくする

画像:中野区役所前にある御囲い場の跡を示すモニュメント 江戸は野良犬が多かったのも犬を囲った一因だったのかも。

綱吉は家綱の路線を受け継ぎ、文治政治への転換をさらに進めていきました。最も心を痛めたのは捨て子問題でした。そこで捨て子の保護を進めると同時に、人の心を優しくするために動物の保護政策も進めようと考え、生類憐みの令が始まったのです。

また、綱吉は特に犬が好きというわけではありませんでした。ただ、江戸市中に当時多いものとして「伊勢屋、稲荷に犬のくそ」と言われていたように、犬とくに野良犬が多かったことから犬に関してのお触れが多くなったと思われます。

こうして世界初といわれる動物愛護法ができていくのですが、当時の人々はまだ動物を愛護するというよりは道具として考えていた節が強く、馬喰や農家は老いた馬を捨てたりしていました。そうした意識の人々に動物愛護を訴えても反発するでしょう。中には綱吉への挑戦から法令を破って動物を殺すような者が出たため、法令を厳しくせざるを得なかったため過剰な禁令になっていきました。

過剰な禁令 でも実際の処罰は?

こうして数々のお触れが出された生類憐みの令ですが、実際何人が処罰されたのでしょうか。公式には69人と記録されています。しかもその多くが、法令を守らせる武士階級の人間で、庶民への処罰は少数であったようです。主なところでは、 1687(貞享4)年 病気の馬遺棄者が流罪処される。 多々越甚大夫(旗本・秋田采女季品の家臣)が、徳川家綱の命日に吹矢で燕を撃ったため死罪。これに参加した同僚は八丈島へ流罪。 1689(元禄2)年 病馬を捨てたとして陪臣14名・農民25名が神津島へ流罪 1695(元禄8)年 鉄砲で鳥を殺し、その鳥で商売をしたとして大坂与力はじめ10人が切腹、1人が死罪。 などの例がありました。 行き過ぎの感は多少ありますが、武士として品位に反したり、長年の貢献をしてきた馬を捨てたりといったケースが処罰の対象となったようで、魚釣りなどは黙認だったようです。巷間伝わっているほどひどい悪法というイメージは払しょくされたのではないでしょうか。

綱吉は名君か 暗君か

生類憐みの令のせいで綱吉は暗君としてイメージされてしまいますが、生類憐みの令のおかげで日本人は命を慈しみ、憐れむ感情を持つに至ったと言えるのではないでしょうか。 綱吉の政治を境に江戸から辻斬りは急激に減り、「みだりに命を奪うことは大罪である」という意識が武士から庶民にまで浸透するきっかけになっていきました。 ある歴史学者は、江戸300年間の間に発生した犯罪よりも今の東京で1年間に発生する犯罪のほうが多いと言ったとか。それだけの治安の良さを生み出したのが、綱吉の文治政治への転換政策だったのです。悪評を受けていながら、綱吉は名君であったと言えるのではないでしょうか。

武士道を確立させた将軍 徳川綱吉

武士道=忠義というイメージが強いと思いますが、このイメージが確立したのは江戸時代に入ってからです。
戦国時代、裏切りは日常茶飯事でした。しかし、江戸時代になってからは戦がなくなり、戦国時代の武士の論理から江戸時代に武士の論理を確立する必要がありました。それが、武士道であり、忠義の道だったのです。

この武士道=忠義のイメージを確立した事件が、綱吉の治世で発生しました。それが、元禄赤穂事件いわゆる忠臣蔵の話だったのです。

浅野内匠頭の刃傷事件

1701(元禄14)年3月14日、天皇からの勅使を迎える式典を行う当日、接待役を担う播州赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城松の廊下において、指南役であった吉良上野介に斬りかかるという事件を起こしました。理由は今もって定かではありませんが、遺恨があったとされています。
斬りかかった浅野内匠頭は即日切腹、斬られた吉良上野介は御咎めなしと裁定されました。この裁定を下したのは、綱吉であったとされています。

浅野内匠頭 切腹

問題となったのは、この日は勅使が江戸城にやってくる日で非常に重大な日だったことです。その重大な式典の日に、よりによって接待役の大名が指南役を殺そうとしたということは、幕府の体面上、非常にまずいものでした。本来であれば詳細を調べたうえで沙汰するべき事件ですが、顔に泥を塗られた綱吉は激怒し、浅野内匠頭の切腹と赤穂藩改易を即日決定してしまいます。綱吉の怒りの程がわかる処置です。

赤穂浪士の討ち入り

この時代、喧嘩両成敗が原則でした。しかし、事件の顛末は浅野内匠頭が切腹する一方、吉良上野介には何の沙汰もなかったものでした。世間では密かに裁定の不公平が囁かれます。そして、赤穂の武士に対する同情論も燻ぶり続けます。その最中の1702(元禄15)年12月14日、赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入り、吉良上野介を殺害するという事件が発生しました。赤穂浪士たちは主君の仇討ちを主張し、世論は赤穂浪士たちを称賛しました。

つけを払わされる綱吉

この事件は綱吉に非常に難しい決断を迫りました。もともとは怒りに任せて浅野内匠頭を切腹させ、赤穂藩断絶を決めた綱吉の裁定に端を発しています。しかし、この裁定は詳しい調べを経たものではないため、世論は喧嘩両成敗の原則に反して不公平だと感じていました。

しかし、一度下した裁定を覆すと、今度は将軍の権威に傷がつきます。それを認めることはなかなかできませんでした。赤穂浪士たちは吉良上野介を仇に見立てて仇討ちすることで、綱吉に抗議をした形になったのです。

幕閣でも割れる意見

赤穂浪士たちへの処分は幕閣の間でも意見が割れ、結論が出ませんでした。綱吉は、次に学者たちに意見を求めました。儒学の権威である林信篤や室鳩巣などは赤穂浪士の行動を義挙とする一方、荻生徂徠は赤穂浪士の行動を褒めながらも、幕府の許可なく勝手に仇を討った行動は法の裁きを免れることはできない」と主張しました。

綱吉はなおも迷いがあったようで、さらに寛永寺の門跡・公弁法親王が江戸城を訪れた際に、赤穂浪士を助命すべきか、それとも切腹するべきか迷っていると相談しました。親王は「武士としての道を立てて、死を与えるべき」だと伝えたと言います。

綱吉はついに赤穂浪士たちを「武士として認め」て切腹をさせるという裁定を下しました。

この決断によって、赤穂浪士は切腹し、彼らの忠義の物語は「忠臣蔵」という物語として語り伝えられることとなったのです。

武士の鑑としての赤穂浪士

主君の納得いかない死に抗議し、命がけで仇を討ったとされる赤穂浪士は武士の理想像として長く語り伝えられることになりました。一方で、一連の忠臣蔵の話は、武士は忠義を尽くすものだというパターンを作ってしまったのです。これが今に伝わる道徳としての武士道の始まりだと言えるでしょう。

忠義に名誉を

さて、ここで幕府の政策について論じてみます。綱吉の時代は、武断政治から文治政治への転換を図っていました。
戦国の遺風を排除し、平和な世の中に合った武士として生きることを求めるものでした。それは重要なことですが、武士にとっては大きなマイナスが発生します。それは、戦がなければなかなか加増されないという事実です。武士は戦って武功を挙げることで加増あるいは出世するのがこれまでの姿でした。
しかし、戦がなければ加増などなかなかありません。そこで、実利的な部分はないものの、主君への忠義を全うすることで「忠臣」という精神的な部分にステータスを与えるように方針転換したと言えないでしょうか。新しい武士の理想像を描くことで、武士の価値観を変えようとしたのかも知れません。

綱吉の強さ

自らの裁定ミスから端を発した元禄赤穂事件ですが、逆に武士の価値観の転換に結び付けた綱吉の強さを感じます。そして、今に続く武士道を確立させた綱吉の政治家としての凄みを忠臣蔵から感じるというと言いすぎでしょうか。

徳川綱吉は正保3年(1646年)1月8日、徳川幕府第3代将軍・徳川家光の四男として、江戸城にて誕生しました。

綱吉は家光より早くから領地と家臣団を与えられていましたが、慶安4年(1651年)、綱吉5歳の年に家光が亡くなり、嫡男である長兄・家綱が第4代将軍へと就任することになりました。

寛文元年(1661年)には上野国(現在の群馬県全域)館林25万石を与えられ、館林藩主となるも、延宝8年(1580年)、4代将軍・家綱が嫡子に恵まれなかったことから家綱の養子として江戸城に入りました。

そして同年、家綱が40歳の若さで亡くなったことから、綱吉が第5代将軍へと就任するのでした。

吉宗も手本とした綱吉の「元和の治」

綱吉の前半の政は善政であったことから「元和の治」として後世称えられ、後の8代将軍・吉宗も手本にしたとのことですが、実際にはたくさんの政策を行った結果が、元号から取って「元和の治」と呼ばれたのです。

それでは実際にどのような政策を行ったのかを見ていきましょう。

勝手掛老中制度の創設

綱吉が将軍に就任する前には「老中」と呼ばれる譜代家臣の中から選ばれたエリート達が集団で集まって政治を行っていました。

集団合議制であったため、その中には責任者がおらず、日本人特有のナアナアで物事が進んでいたのです。

そこに綱吉は「勝手掛老中」という老中の責任者を置いたのです。

勝手掛老中に任命された者は老中筆頭として一段高い位に置かれる代わりに、政策が失敗した際には全責任を負わなければならなくなります。

これにより、今までナアナアで進んでいた物事に対して、勝手掛老中が責任を持って吟味することにより政策に鋭さが増したのです。

側用人制度の創設

これまでの政で国政に参画できるかどうかは、家の家格で全てが決まってしまっていました。無能であっても家柄さえよければ老中や奉行にもなれたのです。

そんな老中たちがナアナアで政策を決めていたら決まるものも決まりませんし、それを変えるのも容易ではありません。

そこで綱吉は「側用人」という取次ぎを、自分と老中の間にクッションとして配置しました。

そしてその側用人になるには家柄は関係なく、綱吉が認めたものが配属されました。

側用人をクッションにするということは、一つ間違えば側用人自体の好き嫌いで取り次ぐか否かを決定できるため、政治の透明性を保つことに関しては諸刃の剣ですが、力を失いつつある将軍の力を強めることには役に立つのです。

勘定吟味役制度の創設

財政を司る「勘定奉行」も家柄の良さで決められており、実務経験に乏しいものが勘定方のトップに立っていました。

そこに綱吉は「勘定吟味役」という、実務に精通したものをナンバー2として送り込めるようにしました。

現代で言う勘定奉行が「国務大臣」であるなら、勘定吟味役は「事務次官」といえます。

それにより、あくまでトップは奉行でありながら、実際は実務に精通した勘定吟味役が財政を支配できるようになったのです。

役料の廃止

江戸幕府が出来たころは老中や奉行などどの役に就こうが就くまいが何も手当はありませんでした。

それが4代将軍・家綱の時代に「役料」という、老中や奉行職に就いた者への管理職手当が付く様になりました。

しかし綱吉は思いました。本来家柄で職務が決まるのなら、それ相応の家の者が役職に就いているのに、さらに手当を支給するのはおかしいと…。それによって役料は廃止となったのです。

しかしその後、綱吉の努力が実り、家柄は低くても有能な者が徐々に幕政に参画するようになるにつれて、役職ごとに基準石高を設定し、それに足りないものが役職に就く場合には一定額を補填できるように制度を改めたのです。

徳川綱吉は本当にバカ殿様だったのか?

世間での徳川綱吉像は前半は名君・後半はバカと評されているように感じ取れます。

それは明らかに「生類憐みの令」に始まり、貨幣の悪鋳による経済の混乱、赤穂藩を初め諸大名の取り潰しの増加などの、悪政と呼ばれるものが続いたことが大きいでしょう。

さらには奥州の大飢饉や宝永地震による富士山の噴火などの転変地異が非常に多く、天までもが綱吉に天罰を与えていると捉えられているところがあります。

確かに行き過ぎた感はありましたが結果だけ見ればどうでしょうか?

「生類憐れみの令」以前は犬も普通に食卓に上がっていたこともあり、まだ戦国時代の殺伐とした雰囲気が抜けきれておらず道徳や倫理などあって無いようなものでした。

儒教に精通し、文治政治を目指す綱吉が発した「生類憐れみの法」とは犬だけではなく無益な殺生を禁じ捨て子や老人に優しい法律だったのですが、その範囲があまりに広すぎたことが悪法になってしまった要因でした。

また、諸大名の改易も数だけでいえば綱吉が歴代将軍の中で第1位でしたが、幕府の直轄領も綱吉の代に大幅に伸びています。

それはつまり幕府の歳入も大幅に伸びることに繋がります。

結果、諸大名や旗本などの士分の財政は大幅に悪化し、塗炭の苦しみに喘ぐことになりましたが逆に幕府の力は大幅に強まりました。

幕府の力が強まるということは将軍の権威向上に繋がります。

憎まれ役を綱吉が買ったことにより、綱吉の名声は地に堕ちましたが、徳川幕府の歴史の中だけで言えば、実は綱吉こそが徳川幕府中興の祖であったと再評価される声も上がっているのです。

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