日本史

「幕を引く」ということ。徳川幕府最後の将軍【徳川慶喜】の苦悩

2017-03-10

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「義に殉じる」ということが、美徳とされた江戸時代。さらに文明開化の明治、大正・昭和と時代が過ぎても、日本人がやはり心惹かれるのは、滅びゆく者の悲しい潔さであるとか、露と消える儚さとか、散る間際こそ強い光を放つ命の煌めきだとか・・・そういったもの。
そして反対に、巧妙に、周到に、ものごとを上手く切り向けことのできる人物は、何だか魅力が半減するように感じてしまったりします。

江戸時代、最後の将軍となった15代将軍徳川慶喜は、幕末歴史ファンにとっては(誠に勝手な言い分ながら)、まさしく後者の方。
新選組や会津戦争、函館戦争などまるで時代のあだ花のように激しく散っていった旧幕府に肩入れする歴史ファンからは、徳川慶喜は「兵を捨てて逃げて生き延びた」と評されることもあります。
一方、坂本龍馬や吉田松陰、高杉晋作ら維新志士ファンや薩摩長州からなる新政府軍に肩入れする歴史ファンからは、「土俵にも上がらない意気地なし」との意見をきくこともあります。
このように、とても微妙なポジションにいる徳川慶喜ですが、彼が最後の将軍でなければ、そして「恭順」という英断がなければ、江戸市中の被害は甚大となり各地に飛び火した戊辰戦争はもっと長引いたはずです。
徳川家の存続よりも、無辜の市民を守るために幕府を終わらせた。そんな着眼点で徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜を再認識してみましょう。

徳川慶喜の経歴

9代水戸藩主、徳川斉昭の七男として江戸藩邸で生を受けた徳川慶喜は、一歳に満たないうちに江戸から国元の水戸へと移され、以降9年間、水戸で学問や武術に励みました。水戸と言えば、水戸黄門でおなじみの水戸光圀の時代を発端とした「水戸学」が盛んで、水戸学は尊王攘夷の思想が強く、幕末の維新志士の原動力ともなった学問です。そんな水戸で多感な幼少期を水戸学の薫陶を受けて過ごしています。

9歳の頃、御三卿の一橋家に養子に入ります。やがて時は流れ浦賀湾沖にペリー提督率いる黒船が来航、幕末の動乱期に突入します。そんな中、12代将軍家慶がなくなり、13代将軍家定は病弱で世継ぎの期待が持てないということで、将軍継嗣問題が勃発。慶喜を推す一橋派と紀州藩藩主であった家茂を推す紀伊派の対立が生まれました。結果としては一橋家は敗北したものの、慶喜自体は将軍になることにあまり乗り気でなかったようです。

それから後、将軍後見職に抜擢され、三代将軍家光の時代から続く参勤交代の緩和や、京都守護職の設置などの政治改革を行っています。
1866年7月、京でクーデターを起こした(1864年・禁門の変)長州を相手にした第二次長州征伐の最中、14代将軍の家茂が大阪城で急死してしまいます。ついに、慶喜が将軍か、と思いきや、本人は4ヶ月もの間固辞し続け、同年の12月にようやく将軍職に就任しました。

大政奉還と江戸無血開城

いよいよ倒幕の機運が高まる中、薩長同盟が結ばれ幕府軍は「朝敵」となりました。公家出身の政治家、岩倉具視、薩摩藩・長州藩らが画策した「討幕の密勅」(慶喜を討つ)という請書が出されたのは慶応3年(1867年)の10月14日です。

ところが、その同日10月14日に政治の主導を朝廷に返上しますという「大政奉還」が上奏され翌15日には朝廷で受理されています。これでは、薩長側はせっかくの「討幕の密勅」の大義名分を失くしたことになります。倒すべき幕府がなくなってしまったのですから。

大政奉還によって討幕の矛先を失った薩長軍でしたが、振り上げたこぶしはそうあっさりとは降ろすことはできず、大政奉還後の徳川の処遇に不満を持つ旧幕府軍と各地で戦いを続けます。そしてついに本拠地である江戸に迫った薩長軍は江戸城に攻め登ります。
そこで、有名な勝海舟の登場です。
このまま攻撃を開始すれば、江戸市民が戦渦に巻き込まれることと、戦争の費用を外国から借金する羽目になり、欧州列強からの植民地支配を受ける懸念がある、ということを説明しました。
将軍だった慶喜は、恭順を示してもう何の脅威でもなくなっているし、江戸城に住む人々にも明け渡す準備ができている、そういって、西郷隆盛ら薩長軍を説得したのです。
薩摩軍の司令官である西郷隆盛を説得し、江戸城への攻撃を中止に持ち込むことに成功しました。

やはりこのことも、「大政奉還」の絶妙なタイミングが、効を奏したと言えるでしょう。
そうはいっても、200年以上もの間政権を握り続けてきた徳川幕府が、その政権を手放すのですから、幕府内でも多くの軋轢を生みました。それでも、結果的に流れなかった血が多かったことを考えると、やはりこれは幕引きを担った慶喜の手腕の1つと言えるでしょう。

徹底した「恭順」の姿勢を貫いたことで、慶喜は死ななくて済みました。それもまた「自分の命ばかり惜しんだ」と言われるゆえんですが、旧幕臣たちが戊辰戦争を戦い続ける大義名分が「徳川家の処遇に不満」としている以上、慶喜が死罪になりでもしたらもっと戦争が長引く危険性も考えられます。

一武士としては、死を選ぶことで楽になることもあったかもしれません。「生き恥をさらす」という言葉もある通り、生きて人々の不満を背負っていくこの方が潔くも苦しいことです。

明治政府になってからも、旧幕臣らでも優秀な人材はどんどん新政府に登用されていきましたが、徳川慶喜は再三の誘いを断り続け、二度と政治の表舞台に現れることはありませんでした。

活躍の裏に腹心あり!最後の将軍・徳川慶喜の側近たち

平岡円四郎、中根長次郎、原市之進。この三人の名前を見て心当たりのある人は、幕末通決定です!
この三名の人物は、徳川幕府の最後の将軍・徳川慶喜の側近だった面々です。彼らはその名の通り将軍の側に仕え、手足となって働きました。
徳川幕府を終わらせた将軍・徳川慶喜の側近たちに焦点を当ててみましょう。

平岡円四郎

若い頃よりその聡明さを高く評価されていた平岡円四郎は、水戸藩主徳川斉昭の七男・徳川慶喜が一橋家に養子に入った1847年(弘化4年)に、斉昭の側近である藤田東湖や川路聖謨の推薦を受けて、慶喜に仕えるようになりました。このとき、慶喜10歳、平岡円四郎は25歳です。

1858(安政5年)に、14代目の将軍をめぐった将軍継嗣問題が勃発、平岡円四郎は後述する一橋家家老の中根長十郎らと、慶喜を将軍にするべく奔走しますが及ばず、紀伊派の推す家茂が14代目の将軍となります。

その際に一橋家の動きを危険視した、大老・井伊直弼は、安政の大獄の際に平岡円四郎を処分、甲府に左遷され甲府勝手小普請にされてしまいます。
その後情勢が動き、1864年(文久2年)慶喜が将軍後見職に就くと江戸にもどり、翌年には側近として慶喜の側に復帰します。
慶喜からの信頼は厚く出世を重ねますが、公武合体派の中心的人物となった慶喜を裏で操っている黒幕であると、水戸の攘夷派に恨まれ1864年、暗殺されてしまいました。
じつはこの前の年、同じく慶喜の側近である中根長十郎が暗殺されたのは、黒幕を疑われた平岡円四郎の責任転嫁によるものとも言われています。
推測の域を出ませんが、平岡円四郎は中根の死に負い目を感じていたかもしれません。

中根長次郎

中根長十郎は、慶喜が一橋家の養子になる前から一橋家に仕えており、慶喜が一橋家に来てからは側用人として、上記の平岡円四郎と共に重用されました。このとき中根長十郎53歳。10歳の慶喜にとっては祖父と言っても良い年齢です。将軍継嗣問題の折には、平岡と共に奔走しました。

やがて将軍後見職に就いた慶喜でしたが、朝廷からは攘夷を決行するように期限を迫られているものの、なかなか踏み切ることができません。尊王攘夷思想のメッカ水戸学の薫陶を受けているはずの慶喜が上位に踏み切らない理由は、側近に開国・公武合体派がいてそそのかしているからだ!と攘夷派の恨みを買い、中根を暗殺されてしまいます。

暗殺を決行した攘夷派は、はじめ平岡円四郎こそが、開国・公武合体派の黒幕と思ったようですが、詰問された平岡がつい「それは中根だ!」と責任を押し付けた形になってしまった結果だと言います。中根長十郎は江戸雉橋門外で襲撃を受けました。享年70歳でした。

原市之進

水戸藩士の家に生まれた原市之助は、水戸学の急先鋒弘道館で学び、江戸は神田湯島にある幕府直轄の学問所で学業を修めた後、水戸に戻り弘道館の先生となるほどの秀才でした。水戸藩主で慶喜の父である徳川斉昭の側用人を務める、水戸学者・藤田東吾はいとこにあたります。

安政の大獄による蟄居が解除され、桜田門外の変で大老・井伊直弼が凶刀に倒れたその3年後1863年(文久3年)、将軍後見職となっていた慶喜の側近となります。その後相次いで信頼の厚かった側近の中根長十郎、平岡円四郎の二人を亡くした慶喜に添うように、腹心となっていきます。慶喜が徳川宗家を継ぐと同時に幕臣として取り立てられて出世を重ねますが、同僚らの妬みを買い、彼もまた1867年(慶応3年)暗殺されてしまいます。

水戸学の秀才だった原市之進には、井伊直弼や安藤信正らを暗殺した水戸藩士たちの、黒幕だったという噂が付きまとっていました。そのため、幕臣たちからも嫌われ者でした。それは結局のところ、主である慶喜の悪評にも繋がっていってしまいます。

腹心を失ってからの将軍は・・・

徳川慶喜の最大の功績は、ベストタイミングで大政奉還を行ったことでしょう。
戦火から江戸の市民を守り、戦争が長引けば外国から受けるであろう植民地支配の隙をなくしました。しかし、それ以降の慶喜はただただ恭順を示すのみで、なんだかフラフラ芯が抜けてしまったかのような印象を受けます。

このことは、自分の手足や耳、目となり正しい情報やとるべき道を示してくれていた腹心たちを失った結果ではないか、と見る歴史学者もいます。とくに原市之進は朝廷側や薩摩や会津とのバランス外交に尽力しています。勝海舟とは折り合いが悪かったようで、のちに勝海舟は「ヤなやつだったけど、才能はあった」と褒めているのか、けなしているのかよく分からない回想を残しています。(めったに人を良く言わない勝海舟だったから、これは褒めているととってもいい、という説もあり)

もしも、大政奉還のシナリオを作ったのが原市之進で、それ以降のプランを伝えないまま暗殺されてしまったとしたら、その後慶喜の頼りない感じにも納得できるような気がしてきます。
徳川慶喜は、幕府瓦解後、政治の表舞台に出ることなく後半生を送ります。幕末の日々を振り返って多くを語ることもなかったと言われています。

徳川慶喜を嫌った二人の女性

江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は女性にモテモテでした。正室のほかに側室が3人、妾が1人、10男11女の子宝にも恵まれています。

多趣味で教養深くてイケメンで、おまけに征夷大将軍という日本の最高位に身を置いていた慶喜に、女性はみんなメロメロ……と言いたいところですが、現実はそんなに甘くはないようで、慶喜を嫌った女性も少なからずいたようです。しかも二度と会いたくないと言われるほどの嫌われ方でした。

慶喜を嫌った女性その1 天璋院とはどんな人物だったのか

慶喜を嫌った女性の一人目は天璋院です。「篤姫」と言ったほうがピンとくる方が多いでしょう。2008年、NHK大河ドラマの主人公にもなったあの篤姫です。十三代将軍徳川家定の正室であり、夫の死後は出家して「天璋院」と名乗りました。ちなみにドラマのほうは女性から絶大な支持を得て高視聴率をはじき出し、本放送の期間中に繰り返し再放送されるほどの人気を博しました。

天璋院が生まれたのは天保6年(1835年)。ペリーが来航して幕末期が始まった嘉永6年(1853年)に薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、のちに家定へ嫁いでいます。実父は島津斉彬の叔父、島津忠剛でした。家定の正室を大名家から選びたいとの話があったとき、斉彬には結婚適齢期の娘がいなかったため、従妹の天璋院に白羽の矢が立ったのです。

十三代将軍の家定は身体が弱く、子宝に恵まれる可能性が低かったので、この頃の幕府は十四代将軍の選択にやっきになっていました。天璋院の養父島津斉彬は一橋派だったため、一橋家の慶喜を次期将軍にと画策していました。そこで天璋院を大奥に送り込み、裏から慶喜を推すように指示していたというのが通説です。

慶喜を嫌った女性その2 静寛院宮とはどんな人物だったのか

慶喜を嫌ったとされる女性の二人目は静寛院宮です。これまた聞き慣れない名前ですが、「皇女和宮」といえばもうおわかりですね。幕末期、皇室から降嫁して十四代将軍徳川家茂の正室となった女性です。

当時の孝明天皇は和宮の異母兄で、最初は和宮と将軍家の結婚に反対していました。和宮にはすでに同じ皇族に婚約者がおり、何より妹の和宮自身が、住み慣れた京都を離れて異人のいる江戸へ下るのを嫌がっていました。しかし公武合体を画策する人々からの説得に応じ、孝明天皇はついに降嫁を許可してしまいます。このとき和宮はまだ13歳でした。

和宮は大奥に入ってからも御所の習慣をかたくなに守り続けました。たとえば大奥では将軍の正室のことを「御台所」と呼ぶ習わしがありましたが、御台所という響きを嫌ったのか、周りには「和宮様」と呼ばせていました。ちなみに最後の将軍慶喜の正室は大奥へ入らなかったので(天璋院が大奥入りを拒んだという話もあります)、将軍の正室として「御台所」と呼ばれたのは、天璋院が最後だったということになります。

大奥の慣習に馴染もうとしない和宮に対して、姑である天璋院は当然よい顔をしませんでしたが、激動の時代をともに過ごすうちに、二人の距離は徐々に縮まっていきました。

家茂が死去すると、和宮は出家して静寛院宮と呼ばれるようになります。

大奥全体に嫌われていた慶喜

そもそも天璋院は、慶喜を家定の跡継ぎにさせるために大奥へ送り込まれたはず。なのになぜ慶喜を嫌うようになったのでしょうか。

慶喜が嫌われるようになった発端は、実は慶喜の父である水戸藩士・徳川斉昭にありました。徳川御三家の当主でもあった斉昭は、幕政に何かと口を出せる立場にあり、大奥が裏で糸を引いて政治にかかわるのを非常に嫌がっていました。また、大奥を維持費が巨額であることも快く思っておらず、大奥の規模の縮小を望んでいたのです。そんなわけで、斉昭は大奥の女中たちにかなり嫌われていました。

大奥にとって敵である斉昭の息子、慶喜。当然慶喜も敵だと思われていました。さらに困ったことに、父親の影響を受けたのか、慶喜自身もたびたび「女には何もわからない」と、女性蔑視のような発言を口にしていました。それを知った天璋院は、性格に裏表のある慶喜を嫌うようになります。

一方の静寛院宮にとっても、慶喜は憎らしい存在でした。静寛院宮が慶喜を嫌ったのは、彼が攘夷を決行する気配がなかったからです。実は静寛院宮の兄の孝明天皇は大変な異国嫌いで、何としても攘夷を実現したいと願っていました。そこで和宮を将軍家へ降嫁させる交換条件として、鎖国攘夷を決行するように幕府に要求していたのです。静寛院宮は再三にわたり慶喜に攘夷の督促状を送りましたが、返事は一切ありませんでした。

天璋院と静寛院宮が慶喜を擁護した裏には……

慶喜を嫌っていたはずの天璋院と静寛院宮の二人が、結託して慶喜を擁護したことがありました。

大政奉還の後、徳川幕府の息の根を止めようとした薩摩藩に扇動され、慶喜は鳥羽伏見の戦いに挑みます。兵の数では幕府軍のほうが圧倒的に有利でしたが、新政府軍は「錦の御旗」という強力な武器を掲げ、幕府軍の戦意を奪います。

慶喜をはじめ幕府側の人間は、「朝敵」という烙印を押されます。慶喜が生まれ育った水戸藩は、徳川御三家にありながら尊皇派の家系でした。幼いころから尊王攘夷思想を叩き込まれてきた慶喜にとって、「朝敵」という言葉は相当のショックだったに違いありません。慶喜は恐れをなし、軍を放り出して逃げ出してしまいます。

江戸城へ逃げ帰った慶喜は天璋院に、「薩摩のせいで私は朝廷の敵になってしまった」と訴えます。驚いた天璋院は、朝廷と慶喜を取りなすよう静寛院宮に頼みます。同時に自分の故郷である薩摩藩にも嘆願書を書いています。二人の嘆願書の内容はこんな感じでした。

「今回の件は慶喜が悪いのですから、慶喜の身はどうなっても構いません。でも徳川家が朝敵の汚名を着せられたままになるのは残念でなりません。どうか徳川家の存続をお願いします。そのために私たちは命を投げ出す覚悟です」

慶喜の身はどうなっても構わないとは、ずいぶんな言い様です。二人ともとことんまで慶喜を嫌っていのたでしょう。

鳥羽伏見から尻尾を巻いて逃げてきた慶喜に対し、大奥は布団さえ出してくれず、彼はその夜、しかたなく毛布にくるまって眠ったそうです。

ともあれ、薩摩藩主の姫だった天璋院と、孝明天皇の妹だった静寛院宮の意向が無視されるはずがありません。嘆願は聞き入れられ、やがて江戸城は無血開城されます。

慶喜は静岡へ隠匿し、政治とは関わりのない生活を送り始めます。その後天璋院と静寛院宮に会うことは二度となかったそうです。

徳川慶喜は天保8年(1837年)9月29日、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の七男として、江戸の水戸藩邸で誕生しました。

幼名を「七郎麻呂」といい、母が正室でもあるため、英邁な慶喜は斉昭からいたく気に入られ、七男という立場でありながら次期当主である長男・慶篤に何かあった場合に跡を継がせようと考えていたようです。

そんな慶喜の英邁さを伝え聞いた第12代将軍・徳川家慶は、老中の阿部正弘を斉昭の下に遣わし、ある相談を持ちかけました。

それは慶喜を、8代将軍・徳川吉宗が新たに創設した御三卿の一つである、一橋家の養子として出さないかと言うものでした。

将軍の意向であればと斉昭は慶喜を一橋家の養子に出すことを決断し、弘化4年(1847年)9月1日に一橋家を継ぎ、名前も今まで名乗っていた「松平昭致」から「一橋慶喜」と名前を改めるのでした。

一橋家を継いだ慶喜でしたが、12代将軍・家慶が亡くなり、13代将軍・徳川家定も病弱のため、次の将軍を誰にするかが問題になっていました。

そこに担ぎ出されたのが初代・徳川家康が創設した御三家の一つであり、8代将軍・吉宗を輩出した紀州藩の藩主である徳川慶福と慶喜でした。

結局第14代将軍には慶福が選ばれたのですが、慶喜は将軍後見職として幕政に参画することになりました。

その中で慶喜は京都守護職を新たに創設したり、参勤交代の緩和などを盛り込んだ「文久の改革」を行い、英邁ぶりを世間に披露しました。

慶喜は勇猛さも持ち合わせており、長州藩のクーデターである「禁門の変」においては、朝廷の御所守備軍を自ら指揮し鎮圧に成功しています。

しかし長州藩が幕府に叛旗を翻したように、欧米列強に隙を見せ続けている幕府の意向は日に日に凋落していくばかりでした。

本来は攘夷派だった慶喜も開国路線を走る幕府のために奔走しますが、この混乱の中14代将軍・家茂(慶福)が急死してしまいます。

家茂には子がいなかったため、次の将軍は慶喜しかいないと固辞する慶喜を老中の板倉勝静や小笠原長行らが支持し、慶喜が徳川幕府最後の第15代将軍に就任することになるのです。

父からの躾

慶喜の父である水戸藩主・徳川斉昭は躾に大変厳しいひとでした。

水戸藩第2代藩主・水戸光圀の方針に則り、幼少時を江戸の文化には触れさせず、国許の藩校・弘道館で9年間みっちり教育させました。

様々な武芸や学問を学ぶ中でメキメキと頭角を現した慶喜ですが、その中でも最も熱心に学んだのが手裏剣術でした。

手裏剣術に関しては将軍職から身を引いた後も修練を欠かさず、手裏剣術の達人達の中でも最も有名な人物に数えられる一人となったのでした。

また、慶喜の寝相の悪さは有名で、それを危惧した斉昭がそれを強制させるために行ったことがまた凄かったのです。

それは慶喜が床に入った際に、慶喜の枕の両側に剃刀の刃を立てさせて、もし寝返りをうって枕から頭が動こうものなら剃刀の刃が…。

さすがに危険を感じた慶喜は、寝る際にその剃刀を意識せざるを得ず、その結果寝返りは直ったそうですが斉昭の躾の厳しさが窺えます。

徳川慶喜 敵前逃亡の謎

将軍に就任した慶喜の英邁さは知れ渡っており、長州藩の桂小五郎も「慶喜の胆略は侮れない。家康の再来を見るようだ。」と評すなど、敵からも恐れられた慶喜。

そんな慶喜がなぜ後世まで「鳥羽伏見の戦い」で敵前逃亡した惰弱な人物として語られることになるのか…。

それにはある理由がありました。

日々凋落する幕府を見限った長州藩と薩摩藩が倒幕を目的として、慶応2年(1866年)に薩長同盟を結ぶことになったのですが、二藩だけではとても幕府と戦うことなど出来ませんでした。

そこで薩長は世の中の支配を幕府から朝廷に戻すことを考え、盟主に天皇を据えようと画策します。

そうなると分が悪い慶喜は、薩長が天皇の名を借りて武力で幕府を潰そうと考えていることを見抜き、先手を打って大政奉還してしまいました。

大政奉還させ幕府から朝廷を中心とした新政府に政が移行したものの、まだまだ幕府の威光は大きく、そう簡単にはうまくいきませんでした。

最も簡単に権力の移行を認めさせる方法は相手を倒すことです。慶喜はそれを分かっていたからこそ自ら権力を手放したのです。

ですが早期の権力の移行を認めさせたい薩長改め新政府軍は慶喜を挑発し、それに慶喜も乗ってしまいました。

いくら威光が衰えたとはいえ、慶喜の一声で幕府軍は一気に膨れ上がり「鳥羽・伏見」で両軍は激突します。

しかしそこで新政府軍が用意したものは、天皇の旗である「錦の御旗」でした。

これはつまり天皇は幕府ではなく新政府軍に味方すると表明したことに他なりませんでした。

元々徳川幕府は朝廷に認められて初代・徳川家康が創設したものに過ぎません。これを天皇に否定されることになったのです。

慶喜にとっては最悪の状況でした。天皇を尊ぶ慶喜でしたが、すでにその天皇に弓を引く状況に陥れられていたのです。

苦悶した慶喜は自軍を見捨てて敵前逃亡することで、天皇への忠義の証としたのです。

これをみた幕府軍は壊滅。謹慎した慶喜でしたが願いは叶わず朝敵となり、新政府軍には朝敵として。味方からは戦わずに逃げて幕府を滅ぼしたものとして恨まれることになりました。

この一連の倒幕戦争は後世、「戊辰戦争」と呼ばれ、幕府軍が負けることにより、誰の目にも徳川幕府が無くなったことが明らかとなり、明治維新へと繋がっていったのでした。

徳川慶喜の多彩な趣味

戊辰戦争が終わった明治2年(1869年)、慶喜は謹慎を解かれ静岡に隠居することになりました。

政治からは一切身を引き、かつて部下だった旧幕臣とも顔を合わせることをせず慶喜は趣味に没頭する生活を送りました。

その趣味は手裏剣術のみならず弓術・狩猟・投綱・写真・囲碁・謡曲に絵画など多岐に渡るものでした。

手裏剣術はいうに及ばず、弓術は毎日150本弓を射るのを日課にしていた慶喜。

写真はあまりうまく撮れなかったようですが、絵画では山水画をベースに西洋の画法を取り入れた当時では斬新な絵を残しています。

そんな激動に生きた慶喜も晩年は公爵として華族に列せられ、大正2年(1913年)11月22日に移り住んだ東京の小石川で、77年の生涯を閉じることとなったのです。

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