黄金の寺宝の数々は金閣寺以上? 東北屈指の名刹「中尊寺」の楽しみ方

2017-03-14

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岩手県西磐井郡平泉町の関山に中尊寺があります。
山の中に佇む姿は威厳をもち、中に入ると金色堂や黄金の仏像が私たちを出迎えてくれます。
数奇な運命をたどり、一時は衰えてしまった中尊寺ですが、明治以降にさまざまな援助をうけてよみがえりました。
そこまで敬われたのはいったいなぜか?
今回は中尊寺の魅力についてご紹介したいと思います!

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中尊寺はいつ創建されたのか?

中尊寺は天台宗東北大本山です。
嘉祥3年(850年)に、慈覚大師円仁が開基となり弘台寿院を造ったのがはじまりで、のちに清和天皇により「中尊寺」の寺号を賜りました。

中尊寺は奥州藤原氏初代の清衡が、堀河天皇の勅命により堂塔伽藍を整えました。
堂塔が40余宇、僧坊が300余宇と、当時の寺院では大規模なものでした。 そして、光り輝く金色堂や仏像、仏具などがあり、東北の地を見守っていました。
ところが、建武4年(1337年)に野火により伽藍のほとんどが焼失してしまいました。 金色堂や宝物は残されたものの、鎌倉時代以降に大きな庇護者であった藤原氏を失ってしまった中尊寺は衰退していったのです。江戸時代には金色堂の輝きは残されていなかったといいます。
明治に入ると、明治天皇が保存費を賜り、金色堂の修復にあたりました。 さらに、昭和33年(1958年)には別格大寺に昇格し、天台宗東北大本山となりました。 その4年後、金色堂が解体され東京へ移動。修理を施し、輝きを取り戻しました。
平成23年(2011年)には中尊寺をふくむ「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登録され、外国人観光客を集めています。

開基・円仁の人生

中尊寺の開基・円仁は、延暦13年(794年)に下野国(現在の栃木県)に生まれました。
15歳のとき、比叡山に行き最澄に師事。しかし、最澄亡き後、空海の真言宗にくらべて密教の教えがなかなか広まらず、円仁は唐(現在の中国)へ留学することを決意しました。このとき、45歳でした。
円仁をふくめた総勢600人を乗せた遣唐使船は、承和5年(838年)6月に3度目の挑戦で出帆しました。 7月に揚州に着き、天台山に登ろうとしましたが、請益僧(短期間の留学僧)だったため許可がおりませんでした。しかし、諦めきれなかった円仁は帰国途中で下船し、新羅の僧を装いました。 結局は役所に突き出されてしまい、またも帰国を命じられました。
ところが、船が嵐に遭って難破し、山東半島の赤山浦に漂着し下船することができたのです。 円仁は赤山の麓にある赤山法華院で過ごし、天台山の代わりに五台山を紹介され、入山を決意しました。 ちなみに、五台山とは文殊菩薩化現の霊地といわれています。

五台山をめぐった円仁は、さまざまな高僧から教えを受け、空海も受けなかった蘇悉地法の秘法を授かることができました。
ところが、武宗帝による仏教弾圧により円仁たち留学の僧侶たちは追放され、帰国させられました。 唐にいたのは10年だけでしたが、円仁にとって人生の中で大切な10年だったことでしょう。
帰国した円仁は、この10年間の記録を「入唐求法巡礼行記」を書きました。この旅行記は歴史資料としても非常に評価が高く、「東方見聞録」や「大唐西域記」に匹敵する旅行記だといわれました。
さらに、朝廷や民衆に歓迎され、比叡山教学の礎を築きました。 71歳で入滅し、2年後には清和天皇から「慈覚大師」の諡号を賜りました。 これは日本ではじめての勅諡号です。

円仁の「決して諦めない」精神は、中尊寺の輝きを強くしているようです。

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中尊寺と藤原三代

中尊寺の伽藍を整えた藤原清衡は、永保3年~寛治元年(1083年~87年)に起きた「後三年の役」で勝者となった武将です。
後三年の役は奥州の豪族だった清原氏の大乱です。 清衡は父・藤原経衡を亡くし、母は清原武貞に嫁ぎました。
武貞との間に家衡が生まれましたが、清衡との間に内紛が起こったのです。
清衡は陸奥守源義家と手を組み、家衡は死去。朝廷は清衡が清原家を継ぐことを認めました。 さらに清衡は名字を藤原に戻し、清原氏の根拠地である出羽仙北郡を手に入れ、俘囚(朝廷に帰順した蝦夷)の長になりました。 清衡は法華経に深く帰依し、戦で犠牲となった魂を極楽浄土に導きたいという思いがありました。 そして、平泉をはじめとするみちのくを仏国土にしようとしたのです。
「中尊寺建立供養願文」には、中尊寺は「諸仏摩頂の場」であると述べています。 「中尊寺の境内に入れば、誰もがもれなく仏様に頭を撫でてもらえ、諸仏の功徳を受けることができるまほろば」という意味です。 さらに、息子で二代の基衡も清衡の意志を継いで、薬師如来を本尊とする毛越寺を建て、そのまた息子で三代の秀衡も阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建てました。

しかし、兄の源頼朝と対立していた源義経を保護したことがきっかけ頼朝に攻められ、文治5年(1189年)に奥州藤原氏は滅亡してしまいました。
その後、中尊寺は衰退。奥州藤原氏あっての中尊寺、そして中尊寺あっての奥州藤原氏だったのです。 しかし、みちのくにある仏国土を目指していた藤原三代の想いは、後世の人々に届き、再び輝きを取り戻したのでした。

黄金に輝く寺宝を見てみよう!

やはり、中尊寺といえば黄金の寺宝ではないでしょうか。
その寺宝の数々をご紹介します!

「金色堂」
きらびやかな金色堂は、純度の高い金箔がおされています。
東を向いているのは、拝む人々が西方浄土を向くためだといわれています。
この中の須弥壇には清衡、基衡、秀衡、泰衡の亡骸が安置されています。 昭和25年(1950年)、4人の遺体調査が行われ、基衡と秀衡の棺からオニグルミやモモ、ウメなどの種が発見されたのです。 さらに泰衡の首が収められている桶からはハスの種子が採取され、平成10年(1998年)に開花しました。
時をこえた命は、たくさんの人々を驚かせました。 そんなエピソードをかみしめながら、ぜひ金色堂を眺めてみてください。

「中央須弥壇の諸尊」
金色堂の中央須弥壇には、阿弥陀如来を中心に持国天像、増長天像、地蔵菩薩像などが安置されています。 諸仏は私たちを優しい光で包んでくれるような輝きに満ちています。

「紺紙金銀字交書一切経」
藍で染められた紺紙に経文が書かれており、金字と銀字が一行ごとに書いているのが特徴です。
これは清衡が発願したもので、8ヶ月かけて完成されました。 見返し絵には釈迦説法図が描かれ、きらきらとした経文はほかにはありません。

「金光明最勝王経金字宝塔曼荼羅図」
紺紙に金泥で、金光明最勝王経を塔の形になるように写経されたものです。
一巻につき一塔書かれ、全部で十塔あります。
この宝塔曼荼羅は写経・造塔造仏・経典解説の三功徳を一度に成就できる善行であることから、平安時代から鎌倉時代にかけて描かれました。

金色の寺院らしい寺宝ですよね。
今回ご紹介したもの以外にも、中尊寺にはたくさんの名宝があります。

いかがでしたか。
中尊寺は東北屈指の名刹です。
みちのくの仏国土を目指していた清衡の想いは、東北の人々に癒しや安らぎを与えてきました。 そして、中尊寺も衰退していた時代でも変わらず人々を見守り続けていました。
そんな互いの想いが輝きを蘇らせ、現在ではたくさんの参拝客でにぎわっています。 ぜひ、中尊寺に参拝してくださいね!

■拝観料(金色堂・讃衡蔵・経蔵・旧覆堂)
大人800円 団体(30名以上)720円 団体(100名以上)640円
高校生500円 団体(30名以上)450円 団体(100名以上)400円
中学生300円 団体(30名以上)270円 団体(100名以上)240円
小学生200円 団体(30名以上)180円 団体(100名以上)160円
※障害者手帳をお持ちの方は、拝観券発行所に手帳を提示で半額

■拝観時間
3月1日~11月3日 8:30~17:00
11月4日~2月末日 8:30~16:30
(10分前に拝観券発行を終了)
年中無休

■所在地
〒029ー4195
岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関202

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