日本史

持統天皇が天皇の妻にして自ら天皇へと即位した本当の理由。ある女傑の生き様

2017-03-30

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なぜ夫は、その弟の息子と戦わねばならなかったのか

私たちが「持統天皇」と耳にして思い浮かぶのが、古代日本史において、それぞれ違う魅力を持ったビッグネームすぎる二人の天皇の名前ではないでしょうか?
一人目は、天智天皇です。
天智天皇といえば、若かりしころの中大兄皇子時代に、後の日本にとってキーポイントとなった「大化改新」の立役者です。
そして二人目は、天武天皇です。
天武天皇といえば、天智天皇の息子である大友皇子を相手に、天智天皇の後継者の座を争って国を二分した「壬申の乱」の主人公のひとりとして有名です。
「天智天皇の皇女であり、天武天皇の姪、そして妻である」というのが、持統天皇とこの二人の男性との関係なのです。
昨日の親族が明日の政敵。たとえ血が繋がっていようと、個人的な願望や損得が血縁関係よるも容易に重要視される、まさに個の時代であった当時、天皇という存在すらも盤石な重きものではなく、有力豪族のプランでどうにでもなる、自分たちの大義名分をバックアップするためのアイテムでした。
「天皇とは、日本という国を統べるために選ばれた存在である」
中臣鎌足の知恵と力を借り、天皇に首輪をつけ手綱を握っていた有力豪族・蘇我一族を、まさにその手で切って捨てた中大兄皇子(のちの天智天皇)は、日本を世界の諸外国に劣らない中央集権国家に短期間で仕立て上げるために、当時最先端の唐の統治システムで日本をバージョンアップしようと働きました。
海峡のすぐ向こうにある百済が、唐・新羅の連合軍に敗北して国を奪われたのを目の当たりにし、豪族同士の力の寄せ集めの上に、まとめ役として天皇が置かれるのではなく、天皇が国の力を隅々まで把握し、コントロールできる政治システムが、天智天皇の理想でした。
天武天皇の敷いた統治プランは、この天智天皇の方向性をほぼ遵守した上で、朝廷や力のある豪族にとってより飲み込みやすく噛み砕く方針を使ったものでした。
天智天皇に対して、天武天皇は政治的に対立する立場ではなかったのです。
にもかかわらず、天武天皇と天智天皇の子の大友皇子は「壬申の乱」を起こしました。
それはひとえに、大友皇子が天武天皇と比較して、天智天皇の政治システムを運用していくのにポテンシャル不足と、周囲の者たちが判断したからです。
天武天皇と大友皇子の後継者争いは、天武天皇の勝利となりました。
のちの持統天皇である「うの野讃良皇女」は、その一部始終を間近で見ていたのです。

グイグイ型の父親と、カリスマ型の夫に挟まれて

こうと決めたら一直線に物事を成就させようと燃え上がるのが天智天皇だとしたら、思いついたプランを人々どう捉えたらすんなり飲み込んでくれるか、まずアレンジする演出家が天武天皇だったのではないでしょうか。

「改新の詔」以降、近江大津宮遷都や甲午年籍、近江令など、特急でやらねければならない仕事に目の回るようだったに違いない人々は、「とはいっても天智天皇はすごいから」という信頼を元に踏ん張っていたのに、後継がまだ若い大友皇子では、きっと自分たちがもたない、と思ったことでしょう。

そんな人々のうっすらした不安を、のちの天武天皇たる大海人皇子は上手にすくい上げ、時にパフォーマンスで人を驚かせながら(半身だけ食べ残した魚を川に離したら泳いだ!など)自分の武器にし、「あの人なら大丈夫そう」というカリスマ性を演出しました。

「天皇中心の集権国家」という同一プランを、それぞれの得意分野を生かして日本に根付かせようとした天智天皇と天武天皇、その二人の至近距離にいた持統天皇が、大きな影響を受けなかったはずはありません。

夫の意思を受け継ぐ賢妻は、国家にとって有益だった?

国のリーダーを選ぶ時は、それが平時ではなく政治的混乱が度重なる時代だったら、とにかく判断力に長けて人々を存在だけで納得させることができるカリスマ性を帯びた人物がベストといえます。

叶うことなら、一から政治のハウツーを教える必要なく、リーダーになった数分後には人々を当然のごとく従えることができる器量を持つ人が望まれます。
その二つの理想を兼ね備えていたのが、天智天皇の直系の娘であり、天武天皇の壮大な事業をサポートしてきた実績に加え、宮殿の裏側をトップとして経営してきた天皇の妻である「うの野讃良皇女」、つまり持統天皇でした。

父と夫が捏ね上げた「天皇中心の集権国家」はまだ柔らかすぎて、それを支える天皇には人望と実績、王権の正統性を安定させる血脈が必要だったのです。

うの野讃良皇女という名の印象は

現代日本では、赤ちゃんに名付ける際に万葉時代の有名人の名を使うことがあります。柔らかで自然美を感じるやまと言葉が、優しさを第一とする親御さんに受け入れられているのでしょう。
「うの」や「さらら」といった名前もまた、どこかで耳にしたことがあるかもしれません。
鵜のように素直に良きことを讃えながら飲み込む少女だったのでしょうか、持統天皇の皇女時代の名前からは、日本人好みのほんわかした人柄がうかがえます。

春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山

そんな彼女が天皇となり、藤原京から見える香具山を詠んだ、百人一首にも選ばれた和歌です。
自然を慈しみ、なにげない生活を愛しむ柔らかな女心を感じずにはいられません。その心は、天智天皇にも天武天皇にもない彼女オリジナルのもの。「持統」という名からは、国を継ぐ覚悟とプライドが潜んでいるのかもしれません。

天智天皇の娘だった持統天皇が天武天皇の妻であった理由とは?

兄の娘と結婚した天武天皇、天皇が近親婚していいの?

中大兄皇子中臣鎌足とともに、時の権力を一手に握り朝廷を牛耳っていた蘇我入鹿を殺害したクーデターが、大化の改新の引き金となりました。
一部の有力豪族が己の利のために握っていた日本の政治をコントロールする司令塔の座を、自らの剣で断ち切って天皇のもとに取り戻した中大兄皇子は、天智天皇となって以降も、当時の唐の先進的統治システムを前のめり気味に朝廷にアップデートすることで、天皇中心の先進的政府を形作ろうと努力しました。
しかし、その急激すぎる機関システムのアップデートに着いていけない家臣や豪族もあまたいたのも事実で、弟の大海人皇子に司令塔たる天皇の座を渡すことを約束していたのに、迷った挙句に自分の息子である大友皇子にその座を譲らせたのです。
「自分は兄の跡目を継ぎません」と外堀を埋められた状態で言わされたような大海人皇子は、兄の死後に「壬申の乱」を起こし、武力と豪族からの支持共に大友皇子を凌駕することで、名実ともに民を率いるにふさわしい人物として、天皇の位についたのでした。
その一部始終を、時に天皇の皇女として、時に反逆者たる皇太弟の妻として、時に天皇の妃として、至近距離から学習していたのが、持統天皇です。
当時、近親婚は正当化されていました。
それは、「天皇」という高貴な血筋の純潔性を守るために必要なことだったのです。
伯父と姪が結婚することは、タブーではなく、むしろ血統として申し分ない、誰も正統性にケチの付けようのない純潔な後継を生むためのシステムでした。

持統天皇はどんな娘時代だった?

持統天皇こと「うの野讃良(うののさらら)皇女」は大化元年の645年産まれ。まさに大化改新女子と言えるでしょう。
父・天智天皇の推し進める強固な統一国家に向けた新時代の空気を直近で感じ取りながら、13歳で伯父の大海人皇子と結婚した後、父がやっと天皇となったのは彼女が23歳の時でした。その3年後に天智天皇は崩御し、大化の改新女子のうの野讃良皇女の運命は荒波に叩き込まれたのです。
父の崩御がきっかけで、夫と異母兄弟が国を割る戦争(壬申の乱)を見守るしかない28歳の彼女の心中は、どれほど辛いものだったでしょう。。

天皇の妻がなぜ天皇に即位した?

大海人皇子が即位し、天武天皇として選んだ政治システムは、父・天智天皇のアイデアを引き継いだ唐を模範とした最先端デザインでした。しかし、デザインや作戦が同じでも、それを日本の元からあるシステムの上からアップデートしていく人物の思想が違えば、スルスルと浸透していく事実も、カリスマ性ある苦労人だった夫のやり方から学んだに違いありません。

天智天皇のパワフルかつスピーティな展開の仕方、そして天武天皇の天皇としてのカリスマ性を高めながら視点を低くして急がずシステムを植え付けるやり方、その双方を伴走する形でゆっくりインストールした大化の改新女子・「うの野讃良皇女」は、彼らの植えた律令体制を長く整備するにふさわしい、双方のやり方が理解できるその先の時代が求めたハイブリッドな為政者だったのです。

持統天皇にとって、平和とは?

天智天皇が推進した「天皇が統べる強い国家」というビジョンと、天武天皇が腐心した「闘争なく納得して進める政治システム」を、持統天皇は丁寧に編み上げていきます。

天武天皇が着手した天皇統治の正統性を納得させるための国史「古事記」「日本書紀」事業継続、天皇の権力を可視化する「飛鳥浄御原令」実施、豪族の自宅間借り政治から脱却するための政治中枢システムを盛り込んだ都城機能「藤原京」遷都など、「持統」の諡そのまま、人々を争いなく統べるための天皇たらんと政治を行なっていたことがうかがえます。

病弱な跡取り・草壁皇子を喪い、孫が成長するまで

天武天皇と?野讃良皇女の間に、草壁皇子という後継者がいました。しかし、病弱だったこと、そのため政治的実績に欠けていたことがネックとなり、彼女の妹・大田皇女と天武天皇の息子・大津皇子の名が草壁皇子の政敵として上がってきたのです。
大津皇子はそのため、持統天皇の罠にはまり、無実の罪を着せられた結果、自害して果てました。

国を分けた天皇後継者戦争を防ぐためだったのか、我が子可愛さのためだったのか、さまざまな説があるこの事件でしたが、体の弱かった草壁皇子は即位を待たずして、父・天武天皇の後を追うように病没してしまいました。

そこで母・うの野讃良皇女は、他の後継者たちを指定することなく、自らが天皇となり、父と夫の政治プランをミックスした政治を推進することを選びました。
持統天皇の願いは、孫の代に安定した世の中を、孫が生きやすい政治システムを整えることだったのかもしれません。
今、持統天皇は、孫の文武天皇とともに、奈良県明日香村にて眠っています。

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