落語

三代目桂春団治。緻密にして華麗、細部まで計算し尽くされた究極の話芸

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桂春団治といえば、上方落語の大看板。
初代の豪放磊落な生き方は小説や映画、歌にもなり、今でも多くのファンがいるほどです。
三代目春団治さんは、緻密で華麗、上品で見事な立ち居振る舞い。高座で羽織を脱ぐしぐさが流麗で、それだけを見に来る客もいたといわれます。残念ながら、016年1月9日に亡くなってしましましたが、その完成度の高い高座は今も語り継がれています。

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おいたち

三代目桂春団治さんは、1930年3月25日、大阪市東区に生まれました。
本名を河合一(かわいはじめ)といいます。父は二代目桂春団治師匠で、三番目の男の子でしたが、上の二人は生まれて間もなく亡くなっていたため、長男として、一(はじめ)と命名されました。母の春江さんは二代目の最初の奥さんで、1934年4月21日に亡くなっています。

子供~学生時代

その後、二代目は3度結婚し、春団治さんは継母に育てられています。兄弟は全部で15人にもなったそうです。
二代目は引越し好きで、春団治さんは小学校を何度も変わる羽目になりました。1、2年生を大阪市北区南森町の堀川小学校、3、4年生を兵庫県宝塚市の長尾小学校、5、6年生を同じく宝塚市の宝塚小学校で過ごしています。

その後、浪華商業高等学校(現在の大阪体育大学浪商高等学校)に進学。野球部に入ります。入部するときに試験があったのですが、先輩が「春団治の息子か、ほんなら入れとけ」という感じで合格。浪商は1946年の夏の甲子園に出場し、優勝しています。春団治さんはそのとき、レギュラーではなかったのですが、控え選手としてベンチ入りしていました。

子供の頃から、噺家になるつもりはなく、また父、二代目春団治も「噺家に絶対なれ」とは言わなかったそうです。

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落語家への道

高校卒業後、知り合いのつてで、兵庫県宝塚市にある自動車部品販売会社に就職します。
1年間サラリーマン生活を送るものの、上司とけんかをして退職してしまいした。
ぶらぶらしていてもしょうがないということで、1946年の秋、二代目の九州巡業に荷物持ちとして同行。博多の寄席で前座の漫才師が急に倒れてしまい、出演者に穴があいてしまいます。そして、なぜか春団治さんが代わりに出演する羽目になりました。客席で二代目の噺を聴いている間に覚えたという、落語『寄合酒』を口演したところ、大ウケし「落語家になるのもいいなぁ」と思ったそうです。ちなみにこの最初の高座では、足がしびれて立ち上がれず、いったん幕を降ろしてもらってから、はって楽屋に戻ったそうです。

修行時代

1947年 4月1日、正式に二代目に入門を願い出て、桂小春を名のりました。その後、戎橋松竹に出るようになり、笑福亭松鶴さん(当時松之助)とも懇意になりました。松鶴さんは春団治さんより一回り年上でしたが、互いに落語家の父を持つこともあって、よく飲みに行ったそうです。当時はお互い修行時代でお金もありませんから、「丸十」という寿司屋に行っては寿司2カンを頼み、寿司飯に乗ったネタを少しずつかじりながら酒を飲んだそうです。

またあるとき、春団治(当時小春)さんと桂小文枝(当時あやめ)さんと松鶴(当時松之助)さんの3人がたまたま一緒になったとき、せっかくなので飲みに行きたい。けれど、3人とも懐は寂しい。すると春団治さんが「親父(二代目)から預かった金があんねんけど、これ遣うたら親父におこられるしなぁ」
すると松鶴さんがすかさず「その金、増やしてわれわれの小遣いつくろやないか。わしの行きつけのマージャン屋があるさかいに、マージャンして賭けてみよう」。心配する春団治さんを説き伏せて、マージャン屋に入っていきした。
春団治さんと桂小文枝さんはマージャンを知らないので、隅の方で待っていました。ふと松鶴さんの方を見ると、どうやら負けている様子。春団治さんが肝を冷やしながら待っていると、明け方になって松鶴さんの「まんがん~」の声。松鶴さんはまんがんを2回とって形勢を逆転し、元手の他に小遣いまで稼いでいました。3人はそれを山分けして家に帰ったそうです。

落語の稽古はというと、二代目からつけてもらったものは、実は『寄合酒』と『祝いのし』ぐらいだそうです。二代目は口移しでしっかりと稽古をつけてくれる人でしたが、春団治さんは稽古中にどうしても笑いをこらえられずに稽古にならない。それで、立花屋花橘師匠や桂文団治師匠から習ったとのこと。この影響かどうか、春団治さんの芸風は二代目とは全く異なるものになりました。

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福団治そして春団治へ

1950年に春団治さんは、二代目桂福団治を襲名します。その直後の1951年、二代目立花家花橘師匠、四代目桂米団治師匠、1953年には春団治さんの父であり師匠である二代目が相次いで亡くなり、上方落語の危機といわれました。

しかし、この頃、初代桂春団治はちょっとしたブームになります。
1956年には、森繁久彌さんが主演の映画『世にも面白い男の一生 桂春団治』が封切られ、花月亭九里丸さんという漫談家が、初代桂春団治のエピソードをまとめた本、『すかたん名物男』を出版したのです。

こうした春団治ブームに乗って1959年、花月亭九里丸さんらからの勧めもあり、春団治さんは29歳の若さで三代目を襲名します。この襲名は、滅亡寸前といわれた上方落語界にとっては久々の明るい話題となりましたが、映画や本のおかげで春団治の知名度が上がっていたことで、三代目春団治さんのプレッシャーは相当なものだったようです。襲名披露公演はお客さんで一杯になりましたが、若くして上方落語の大看板を背負った春団治さんをねたんで、いじめる先輩もいたそうです。

そして、この大名跡を継いだことが、後の春団治さんの落語に大きく影響します。

ゲン担ぎとまくら、口調

高座に出る前には、必ず手のひらに「大入」と書いて飲みこむそうです。これは二代目から、舞台で舞い上がらないためのおまじないとして教えてもらったとのこと。 出囃子 (でばやし)「野崎」で登場すると、まくらを話さず「ようこそのお運びで厚く御礼申し上げます。相も変わりませんバカバカしいお噂をば一席聴いていただきまして、失礼をばさせていただきます」と、すぐに本題に入るスタイルを貫いています。

口調ははっきりと丁寧。威勢良く啖呵を切ったかと思うと、しとやかな女性、舌足らずの子供など、縦横無尽に声や話法を使い分けています。「どあほっ」「くそっ」をはじめ、乱暴で下品な言葉遣いもありますが、不思議と嫌な後味を残さない。荒々しく、汚い部分を、華麗でしなやかなしぐさが帳消しにする、類のない話しっぷりです。

同志、上方落語四天王

ここで、上方落語四天王について説明しておきましょう。
戦後、上方落語の噺家は18人しか残っておらず、継承されていない話も多く、存亡の危機を迎えていました。そこに時を同じくして入門したのが、笑福亭松鶴さん、桂米朝さん、桂小文枝(五代目文枝)さん、そして三代目春団治さんでした。先に書いたように入門から6?7年経った1950年代前半には、当時の実力者が相次いで亡くなり、上方落語はさらに厳しい状況に追い込まれます。

その荒野のようなところから、古い話を再興し、上方落語復興に尽力したのが、後に四天王と呼ばれる松鶴さん、米朝さん、小文枝(五代目文枝)さん、そして三代目春団治さんです。四天王が中心となって「さえずり会」という勉強会を結成。切磋琢磨すると同時にそれぞれ異なった持ち味を発揮し、その後長く上方落語を引っ張っていきます。いわば同志のような存在なのです。

さて、ここまで春団治さんの生い立ちから入門、春団治襲名までを見てきました。次からはその持ちネタや芸風、エピソードなどをひもといていきましょう。

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