日本史

『解体新書』の西洋医学が日本に与えた衝撃とは

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1774年(安永3年)オランダ語で書かれた医学書【解体新書】が蘭方医杉田玄白らの手で翻訳され、刊行されました。
これまで日本で「医学」とされてきたのは中国から伝えられてきた漢方医学。【解体新書】によってもたらされた西洋の医学は、日本人にとって大きな衝撃となりました。
東洋医学の概念から、実証が中心の西洋医学への概念の革新が起きたのです。

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東洋医学の概念

東洋医学では、人と自然は一体のものである、とします。地球上、宇宙のあらゆるものは影響し合い調和を取りながら存在していると考えます。
また宇宙に存在するすべてのものが陰と陽に分けられ、明暗、温寒、動静といった相反する性質のバランスを重要視するとともに、火・水・木・金・土の「五行」というカテゴリーに分けて、あらゆるものの解釈に繋げます。

また、東洋医学には「未病」という概念もあります。未病とは、ここが痛い、熱が出た、といった症状が出る前のまだ病気でない状態も「未病という病である」と見なすことです。これは、今でいう予防医学に通じるもので、人それぞれの体質や生活習慣、気や体液の流れや過不足などを総合的に診断し、心身のバランスをとることで体本来が持つ自然治癒力を高めよう、とアプローチしていきます。

ほかにも、体中には「経絡」と呼ばれる脈のようなものが存在し、体中を連絡しあって調和を保っているという概念もあります。経絡同士が交わる交差点を「ツボ」と呼び、これは現代でも日常的に使われている言葉ですね。皮膚や目の状態などを診てその経絡がつながっている内臓の異常を推測しました。

「五臓六腑説」への疑問

東洋医学の概念の1つとして、「五臓六腑説」というものがあります。「五臓六腑にしみわたる・・・」といった表現は現在も使われており、「体中」といった意味合いの言葉です。

ここでいう、五臓とは中身が詰まった器官「心・肺・脾・肝・腎」で、六腑とは中が空洞な「小腸・大腸・胃・胆・膀胱・三焦」を表しています。
江戸時代の漢方医たちは体の中の構造が「五臓六腑」であると信じ、体の中の様子を表した図解も用い、治療にあたっていました。しかし、杉田玄白は実際患者に多く触れているうちに、五臓六腑説に疑問を覚えるようになります。本当にこれであっているのだろうか・・・と。
目の前の患者が「今」訴えている痛みに対して、心身の調和を説いたところで、時間がかかりすぎてしまうこともあったでしょう。
そんな時に出会ったのが、西洋の医学書『ターヘル・アナトミア』です。オランダ語が読めなかった杉田玄白でも、挿絵を見ればこれまで信じてきた「五臓六腑」との違いがはっきりと分かります。いったいどちらが正しいのか、という疑問を持ち続けていた杉田に、腑分け・観蔵というチャンスが巡ってきます。今でいう解剖への立ち合いができたのです。
そこで杉田玄白が見たものは、『ターヘル・アナトミア』の挿絵は真実であった、ということでした。
そして、この真実を世に伝えるべく、『ターヘル・アナトミア』の日本語訳という偉業に乗り出すのです。

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西洋医学の概念

上記で東洋医学の概念を簡単ながらご紹介したので、比較しやすいように西洋医学の概念についても駆け足でお話ししたいと思います。

西洋医学でいうところの「健康」とは「体の中に病気がないこと」を表します。痛いところがあったら、痛みを取る、炎症があればそれを抑える、といった症状に対しての対処療法に特化しています。体の構造や機能に注目し、外科的な分野でも強い効果をはっきします。東洋医学に比べると、効果が早く結果が見えやすいのも特徴です。東洋医学での治療では間に合わなかった病気でも、西洋医学の発展で治るものが増えました。

たとえば、当時では不治の病とされた結核(労咳)も、西洋医学に基づいた治療で完治することができます。

【解体新書】がもたらしたもの

西洋医学、とりわけ解剖学がもたらしたものは、「概念」というものに「実態」を与える、ということでもありました。

たとえば、東洋の概念「心」というものがあります。あなたの心はどこにありますか?と聞かれると多くの人は心臓の位置を指すと思います。ドクドクと拍動する「心」とは命のエネルギーの源であり、人の体の中枢である、と考えられてきました。ところが、西洋医学、解剖学で明らかにされた「心臓」という臓器は、「血液を体中に送り出すポンプである」と解明されました。このようにして体の各部位の構造や働きが、概念的なものから「実態」のあるものになったのです。

【解体新書】が、日本の近代化のきっかけになった、とはよく言われることです。近代化とはいわゆる西洋化にほかなりません。
東洋的ともいえるあいまいなものに、形を与え意味を与え、それに対応する術を与えてくれる。当時の人々が西洋の文化に始めて触れた、驚きや感動ははかりしれません。
【解体新書】の影響は「医学」だけにはとどまりませんでした。

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翻訳が完璧じゃないけれど・・・【解体新書】に欠かせない「挿絵」と解体新書の内容

江戸時代の医者であった、杉田玄白・前野良沢・中川順庵が、悪戦苦闘の四年間を経て【解体新書】を刊行しました。
鎖国下の日本において、西洋からもたらされた医学書は、新しく、また衝撃的なものだったでしょう。
そんな【解体新書】が多くの人々に受け入れられたのは、精巧な「挿絵」も一つの理由でした。

挿絵を描いたのはどんな人?

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「東叡山不忍池」と題名の付いた一枚の絵、これが【解体新書】の挿絵を担当した「小野田尚武」という画家の代表作の一つです。これまでの東洋画には見られない、遠近法や陰影法をつかった繊細で奥行きのある絵です。

秋田藩士の小野田尚武は、蘭画家でもあった平賀源内の弟子。平賀源内は、解体新書を作った杉田玄白や前野良沢らと交友関係があり、玄白らが「解体新書の挿絵を描いてくれる画家を探している」というので、弟子の小野田尚武を引き合わせたと言われています。

解体新書を印刷するにあたって、ターヘル・アナトミアをはじめとした、参考にしたさまざまな西洋の医学書などから、大量の図を書き写す必要がありました。小野田は「頼まれて断れなかったから書いた」と謙遜を言いながらも、精密かつ陰影の効いた多くの挿絵を描いています。西洋人らしい顔つきと体つきの男女が立っている扉絵は、「解体新書」とネット検索をすると必ず出てきますね。

じつは、このとき小野田尚武は23歳という若さでした。後に蘭画の師である平賀源内が人を殺め投獄されたのをきっかけとして秋田へ帰り、その翌年急死。現代でも残る偉業に関わった青年小野田尚武は、享年31歳という若さでこの世を去っています。

挿絵の重要さを知っていた杉田玄白

鎖国時代の当時、唯一交流が許されていたのはオランダでした。自然とオランダ語の通訳にあたる人は(当時は通詞(幕府公認通訳)とよんでいました)、蘭学に詳しく蘭方医としても活躍している人もいました。杉田玄白が弟子入りをした吉雄耕牛もその中の一人。吉雄は当時多くの蘭学者との交流を持っていました。

そんな中、吉雄は向学心の強い杉田玄白に「ベーステル」という学者が書いた一冊の外科書を貸し与えます。
その精巧な挿絵に驚いた玄白は、外科書の絵を侵食も忘れて模写したと言われています。オランダ語で書かれたターヘル・アナトミアを始めてみたときも、杉田玄白は言葉は読めませんでしたが、実際に腑分け(解剖)を見学した時にそのターヘルアナトミアを持参、実際目で見たものと挿絵があまりに正確で衝撃を受けました。言葉が分からなくても図解があれば何となく書いていることは分かる。そんな経験があったので、杉田玄白は自分の「解体新書」にも、図解が必要不可欠であると確信していました。

友人・平賀源内が紹介してくれた青年・小野田尚武の書く絵は、きわめて緻密。参考にしていた多くの西洋医学書とも引けを取らない出来栄えです。

翻訳をメインに引き受けていた前野良沢が、不完全な翻訳しかできなかったことを理由に出版を渋っても、それを押し切って刊行したのは、挿絵の出来栄えに気を大きくしていたからかもしれません。

解体新書の内容とは

解体新書は全部で4巻、それぞれ、からだの各部位や働きごとにまとめられています。

1巻では、総論・形態や名称・骨格・関節などについて。

2巻では、頭・脳・神経・耳・目・鼻・口などの、首から上の部位について。

3巻では、心臓や肺の胸部・動脈・静脈・胃腸、膵臓などの消化器官について。

4巻では、肝臓・腎臓・生殖器・筋肉などについて。

そして、小野田尚武の手掛けた図解が別に一冊としてまとめられています。
解体新書をきっかけとして、オランダ語の研究が進んだことは、西洋文化を積極的に取り入れようとする日本にとっても、大きな意味を持ちます。

それにしても、異国の本を一つの単語から日本語に訳していくという、長い歳月を費やした地道な作業は、電子辞書やネット検索で、パパッとなんでも調べられる現代人には、想像することすら難しいですよね。本当に当時の人々の根気強さには驚かされます。

おまけ【解体新書】は翻訳を手直しして再出版されていた!

1774年に出版となった解体新書ですが、その不完全な翻訳に納得のいかなかった前野良沢は、解体新書の翻訳者として名前を出すことを拒んだと言います。

しかし、解体新書は杉田玄白と前野良沢の弟子「大槻玄沢」によって、翻訳を手直しされ「重版解体新書」として、再出版されています。解体新書出版の16年後の1790年。杉田玄白の依頼で大槻玄沢は解体新書の改正に着手し、1798年に「重版解体新書」ができあがりました。

大槻玄沢は二人の師、杉田玄白と前野良沢から一字ずつをもらって名前をつけたほどその才を愛された人物。師らの思いを受け継ぎ立派に改正を成し遂げた大槻玄沢の優秀さがうかがえます。大槻玄沢以降、漢学者や国語学者など、大槻家はの才能ある学者を多く輩出しました。

『解体新書』には努力と友情の胸アツストーリーが詰まってる

「誠に艪舵なき船の大海に乗り出せしか如く、茫洋として寄るべきかたなく・・・」
私たち現代日本人は、日本語に翻訳された海外の書物を、娯楽本から専門書にいたるまでいつでも簡単に手に入れ、自由に読むことができます。それがいかに恵まれたことで、日本に生きていた過去の名もなき偉人たちの努力の上に成り立っているのか、普段はあまり気にすることはありません。

『解体新書』は、そのタイトルのキャッチーさから、例えばゲーム本や解説書のタイトルとして流用されることが多いために四字熟語的に有名なのですが、あれほど学校で繰り返しラインマーカーで引いた書名なはずなのに、「どんな内容だったっけ?」とうっかり忘れてしまいがちです。

『解体新書』とは、ドイツ人医師クルムスの解剖学書をオランダ語で翻訳した『ターヘル・アナトミア』を、日本語に翻訳し、1774年に出版された医学書です。

翻訳者は前野良沢と杉田玄白でしたが、前野良沢の名は「名を残すために翻訳したのではない」という良沢の意向もあり、杉田玄白が著者となっています。

文頭に紹介した一節は、この『ターヘル・アナトミア』を翻訳するために戦い続けた日々を回顧録として残した『蘭学事始』にある一文です。

「小さな船が一艘、大海に乗り出したものの、行き先もわからず、進むための道具もなく、ただ漂うばかり」、というこの文章を読んだ福沢諭吉たちは、彼らの途方もない苦労を想像し、涙したということです。

『解体新書』をなんとしても世に出そうとした江戸中期、日本の医学はどのような状態だったのでしょう?

「我より古をなす」蘭学事始で切り開く医学の未来

『解体新書』の訳者である前野良沢は、豊前中津(大分)の藩医でした。オランダ語を目にして、この言葉を読みたいと志し、青木昆陽の弟子となって40代後半までに約2000語近いオランダ語の単語を覚えたといいます。

鎖国状態にあった日本において、オランダ船から異国本を入手するには長崎まで足を運ぶ必要があり、外国との窓口であった長崎は、そのまま国内最先端医療が学べる場でもありました。

日本のスタンダードな医術の元締めは、いまだに漢方を家流とする漢方医が握っていた時代、蘭方医は大手を振って蘭学を広めることは難しく、蘭学に通じる人材はオランダ通詞を育成する長崎近辺にどうしても偏り、オランダ語を自在に操る人材を拾い集める難しさは途方もないものでした。

そして、杉田玄白は、そんな停滞した医療の実態を動かそうと思っていた人物でした。彼にオランダ語を操る能力はなかったのですが、長崎で手に入るヨーロッパの医学書に目を通し、特にその挿絵として描かれた人体解剖図などを食い入るように見入っていました。

オランダ語読解への情熱と、世界最先端医術を日本に広く導入するきっかけとなろうとする情熱。この二種類の情熱がぶつかり、「我より古をなす」という奇跡がおこったのです。

『ターヘル・アナトミア』ってどんな書物?

杉田玄白が手に入れた『ターヘル・アナトミア』とは、どのような医学書だったのでしょう?

ヨーロッパでは広く流通していた初歩の解剖テキストに、28枚の精緻な図表が有名なクルムス『解剖学図表』というのがあります。『ターヘル・アナトミア』というのは、実はこの本の俗称だったのではないかと推測されています。

平賀源内とも親交の深い蘭方医・中川淳庵が、江戸の長崎屋に滞在していたオランダ商館長一行から医学書数点を預かり、それを杉田玄白に持ち込んだものの、あまりに高価で手が出せずにいました。
しかし、主君の酒井侯が買い上げて、それを杉田玄白に与えたそうです。彼ならきっと無駄にはしないという思いが、そこにはありました。

上野・国立科学博物館では、『ターヘル・アナトミア』と『解体新書』のレプリカを観ることができます。当時のヨーロッパの医学書は、いずれ王侯貴族に献上するために、挿絵という軽いものではなく、専門の絵師により解剖図を忠実に描くだけではなく、美しさと生々しさをバランスよく兼ね備えた美術的一面もありました。ふたつの本に描かれた解剖図のアプローチの違いも含め、比較してチェックしてみてください。そして、杉田玄白たちの必死さと驚きを視覚で追体験できます。

日常会話程度のオランダ語と、数冊の辞書。それだけでは、専門的な医学用語が散りばめられた初心者向け解剖教科書を読み解くことは難しい上に、ここに書かれた図が本当に人体を見て描いたものなのかどうかも藪の中です。

そして、『解体新書』ストーリーのクライマックスとも言うべき、「死刑囚の死体の解剖・観臓」が決行されました。

日本で常識とされていた漢学由来の「医経」にある人体図と、蘭方由来の人体図がまるでかけ離れていたため、「人体の腑分けを見届け、『ターヘル・アナトミア』と照らしあわせ、事実を目に焼き付けよう」という思いからです。

イタリアで花開いた「ルネサンス」の瞬間を思わせる出来事でした。

「日本の近代科学のスタート」というこの出来事があるからこそ、私たちは教科書の『解体新書』に何度もラインマーカーを引く必要があったのかもしれません。

『解体新書』出版前に出されたチラシ『解体約図』

『解体新書』を発行する前に、『解体約図』という小冊子が発行されました。
販促のためのパンフレットという位置づけでしたが、発行する自分自身ですら、実際に解剖現場に立ち会うまではくっきりとした自信が持てなかったオランダ医術の翻訳本を、少しでも多くの人に手にとってもらいたいという悲願を感じずに入られません。

メンバー総出で「訳語会」を行い、単語をひとつひとつ拾い上げ、どこを指しているんだか全く分からず、朝から晩まで皆で考え、それが「まゆげ」という単語だったというエピソードや、訳語会でワイワイとカジュアルな日本語に翻訳した部分を、よなべして学会に通用するような漢文調に編集していく作業、それらを繰り返した1年半だったそうです。

人々の常識を覆し、真実を突きつける前に、クッションとして販促パンフレットを発行することで、「そんなに怖がる必要はないんだよ。ただ、本当のことが書いてあるだけなのだ。」という安心感を読者に与える必要性を感じるほど、『解体新書』のタイトルに選ばれた「新」が指し示すように、日本古来の医学、そして常識が揺さぶられることとなった『解体新書』という事件でした。

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