西洋画シャガールという画家の人生

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ロシア出身のフランスの画家、マルク・シャガール。多くの名作を生み出し、近代美術の発展に多大なる貢献をした人物として知られています。

シュルレアリストの画家といわれていますが、シャガールはそういった呼び名をきらっており、シュルラチュラリストという超自然主義というネーミングで人からは呼ばれていたことが分かっています。

シャガールという人物がどのような人生を過ごし、その人生が彼の芸術にどう影響していったのか、ここではシャガールの人生を追って行きます。

ロシア生まれのシャガール

シャガールの本名は、モイシェ・セガルです。帝政ロシア領ヴィテブスクで9人兄弟の長男としてこの世に生をうけました。1900年に公立学校に入学しており、この時に芸術に触れているといわれています。

オシップザッキンという人物と友人関係にあり、彼はその後は彫刻家として大成します。1907年には、サンクトペテルブルクにある美術学校へと入学します。この学校の勉強方針は比較的アカデミックであったこともあり、シャガールは満足することがありませんでした。

そのため、後にはズヴァンツェヴァ美術学校へ入り直します。ここの学長は、ロシアバレエ団の衣装をデザインしていた人物であり、シャガールもとても尊敬していたといわれています。非常に真面目な性格のシャガールだけに、さまざまな角度から芸術を愛し、それを自らの糧として吸収し続けていたのです。

パリへ向かう

シャガールが生涯を過ごし、彼の芸術の多くの部分を担っているのがフランスのパリです。ロシアの美術学校でさまざまな芸術を学んでいたシャガールは、それだけでは飽き足らず、本格的な現場主義をつらぬくためにパリへと向かいます。

1910年にパリに渡ったシャガールは、刺激的な日々を過ごし、さまざまな文化人たちと交流を深めて行きます。この頃のパリはキュビズムが台頭を示していたことからも、シャガールの作品もこの頃は非常にキュビズムの影響を受けていたことが分かっています。

しかし、1915年になると最愛の母が急死してしまいます。結果的に、ロシアに戻ることとなってしまうのです。

パリへと舞い戻る

母の急死によりロシアへと戻ったシャガールですが、この頃に生涯を共にするベラという女性と結婚しています。彼女の存在こそが、シャガールシャガールたらしめることとなります。

シャガールはロシアで生涯を終えるために、制作活動などにも力を入れて努力をし続けて行きます。しかし、どこか心の奥底でロシアという場所で生み出す芸術に満足がいきませんでした。

そのため、1922年についにロシアを離れる決心をすることとなります。ベルリンを経由し、再び芸術の炎を燃やすために、シャガールはパリへと舞い戻って行きます。

妻の死

ロシアにいた頃のシャガールは、ロシア・アヴァンギャルドという作風で作品を多く描いていました。この作品は、構成主義の作風であり、抽象的な側面が強い作風です。

この頃の攻めるような作風に疲れてしまったのか、それとも自らの信じる芸術の本来のカタチでは無かったのか、パリへと戻って行ったシャガールはそこでは愛というテーマを掘り下げる作品を多く残すようになっています。

第二次世界大戦が起こると、ナチスの迫害を受けます。パリに入れなくなってしまったシャガールアメリカへと逃亡せざるえなかったのです。

不幸は続き、その3年後の最愛の妻であるベラを亡くします。ロシアという同郷の人間であったことからも、シャガールの全てを理解しており、全てを包み込んだ素晴らしい女性でした。最初の妻であるベラの死後、シャガールは再び芸術作品を生み出すためにパリへと戻ります。

フランスへの永住、そして結婚

シャガールは再びパリを戻り、自らの信じる芸術を追い続けることとなります。しかし、パリの刺激的な日々と凍えるような寒さ、孤独と戦うことは辛いと判断したのか、南フランスへたびたび訪れることとなります。

そして、この場所が気に入ったシャガールは南フランスへと永住することを決意します。結果的には、シャガールフランスの国籍を取得しており、ロシアが故郷でありながらも、結果的にはフランス人として新しい人生を歩み始めることとなったのです。

フランスの画家として活動していたシャガールですが、60歳の頃についにユダヤ人女性であるヴァランティーヌ・ブロツキーと2度目の結婚を果たします。非常に妻に優しく、愛妻家であることで知られるシャガールは、愛をテーマにした作品を多く生み出します。

彼女への深い愛が生み出す作品の多くは、美しく、そして慈愛に満ちた心に響く素晴らしい作品であると評判となります。

大家として成功を続ける

シャガールが生み出す作品は多くの人びとの心に響き、高い評価を得るようになっていきます。1960年には、芸術家としても非常に名誉なエラスムス賞を受賞しており、名実ともにまごうなき大芸術家としての人物となっていきます。

さらに、親交がもともとあったフランス共和国文化大臣からオペラ座の天井画を制作してほしいという、前代未聞のオファーが届きます。シャガールは、オペラ座の天井画を4年という歳月をかけて完成させ、多くの人びとから賞讃されることとなります。

さらに、シャガールは「聖書のメッセージ」という有名な連作をフランス国家に寄贈するなど、フランスへの愛と忠誠を誓っていました。南フランスのニースにて、「マルク・シャガール聖書のメッセージ国立美術館」が建てられるなど、素晴らしい功績を立て続けに達成したことで、まさに大家として名を馳せるようになっていったのです。

愛に生き続けた作家

シャガールは、多くの愛についての作品を描いている作家です。最初の妻であるベラは、シャガールにとって最愛の人物であり、彼女をモチーフに描いた作品は多々あります。

そして、その作品はどれも慈愛に満ちており、芸術家としてだけではなく、愛妻家としても多くの人たちの心に残りました。

しかし、最愛の妻を病死で失ってしまった後、シャガールはその喪失感に立ち直れなかったといわれています。芸術作品を描くことで、自らの寂しさを表現する画家が多いなかで、最愛であり最高のモチーフでもあった妻を無くすことは、シャガールにとってみれば全てを失ってしまうほどの衝撃だったに違いありません。

その頃、制作にも手が殆どつかなかったといわれているシャガールですが、そんなシャガールをすくったといわれるのが、二番目の妻であるヴァージニアだったのです。彼女との間には、ダヴィットという子どもを授かっており、生涯をかけて家族を守り続けていたことも分かっています。しかし、シャガールとヴァージニアには不思議な共通点も多かったのです。

運命の相手

若い頃、シャガールとヴァージニアは何度か顔を合わせているといわれています。もともと、ヴァージニアは画家の妻として苦しい日々を送っていたとのことで、心がかなり荒んでいたといわれています。

そして、画家であることからシャガールの話しを理解してくれ、シャガール自身も自らの悩みや本心をヴァージニアであれば打ち明けられていたのではないか、といわれています。そして、シャガールという人物の制作への熱い思いであったり、その生活態度などにヴァージニアが心惹かれて行きます。

生きる気力を殆ど失っていたヴァージニアですが、シャガールを眺めていると、そして側にいることでモノクロだった人生に色が少しづつですが塗られて行ったのです。

そして、ヴァメトロポリタン・オペラハウスでのストラヴィンスキーの舞台の舞台装置や衣装デザインなども手掛けており、数多くの貢献をし続けていたのです。

精力的な画家

愛の画家であり、さらには慈愛に満ちた作品から、おとなしい性格と思われているシャガールですが、非常に精力的に活動を続けたことでも知られており、批評家としての顔も持っていることで知られています。

非常に厳しく、辛辣な意見を多くいうことでも知られており、特にピカソについては厳しく何度も批判していたことで知られています。数多くの作品を手掛け、世界的に大家となったシャガールですが、根本には妻を愛し続ける美しい男性像を持った人物です。ぜひ、一度彼の作品を眺めにいってみてはいかがでしょうか。

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