西洋画

クロード・モネが生み出した代表作たち

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印象派の大家として、多くの人々に愛され続けている画家がクロード・モネです。パリで生まれ、その後さまざまな人生の困難を乗り越えながら、印象派の大家として大きな成功を成し遂げた人物です。

フランスのセーヌ川沿いのジヴェルニーで晩年を過ごし、自宅の庭の池にこだわり続け、その場所を描き続けたことで有名です。そのため、モネの代表作といえば、『睡蓮』が最も有名なのではないでしょうか。

まさにく、モネの代表作である睡蓮ですが、他にもすばらしい代表作がいくつもあります。ここでは、モネが遺したすばらしい作品のいくつかを紹介してきます。

睡蓮

まず、さまざまな作品を確認する前に、代表的な作品である睡蓮についてを確認していきましょう。モネが生み出した睡蓮という作品は、彼の特徴的である色と光、奥行きの技術力の高さがもっともわかりやすい作品としてしられています。

モネが睡蓮に魅せられていたことは有名な話しですが、なんと生涯で200点以上の睡蓮を描いていることがわかっています。庭の睡蓮の家には、日本風の橋が掛けられていたことも有名であり、モネの睡蓮という作品のいくつかには、この橋を見ることもできます。

そして、初期の頃の作品から後期へと進んで行くと、その睡蓮の絵の対象は水面だけへとうつって行きます。最後に描かれてたオランジェリー美術館では、自然光でこの作品を見てほしいというモネの願いから、まさにモネの自宅の庭に正体されたような雰囲気で絵を楽しむことができます。

独特な筆遣いと印象派ならではの油彩のタッチ、荒々しさではなく、比較的柔らかさと優しさを感じることができる表情。まさに、睡蓮という作品は、モネそのものを写しているといっても過言ではない大作でしょう。

パラソルをさす女

モネは、風景画を多く描いているのですが、人物画も多く描いています。草原や花畑にたたずむ、美しく清楚な女性の絵はモネの優しい心を通じて、そのまま絵画として生まれているような印象を与えます。

パラソルをさす女は、白いワンピースが下に敷き詰められた花を反射したかのような、絶妙な色使いと描写で描かれています。写実的でありながらも、油絵特有の印象は残っており、まさに名作といえる作品です。

ただし、当時は、白は白であり別の色を投影させる技法は否定されていました。モネは、常に自然と対峙しているような作品を造り続けてたことが、このパラソルをさす女を見ることで理解できるのではないでしょうか。

陽を浴びるポプラ並木

モネの作品は、美しい色使いやあたたかみ、優しさだけでなく、香りを感じられることが特徴です。当然ながら、本当に絵の具以外の香りがする訳ではないのですが、その風景画からその場所や季節の香りを感じられるような、のどかな印象を受けることができます。

睡蓮に力を入れていたモネですが、太陽の光にも心を惹かれており、生み出される絵は太陽光の当たり方にとても力が入れられています。

陽を浴びるポプラ並木という作品は、ジヴェルニーの近くの川岸にあったものであり、太陽光と反射する川面、それに照らされるポプラの木の存在に、強くモネは心を惹かれたといわれています。

初夏を思わせる、爽やかで清々しい、ポプラの並木道からは心地良い風と夏の香りを感じることができるのではないでしょうか。やわらかなタッチで描かれている、素朴でありながらこだわりと純粋さを感じさせる、美しい作品です。

黄昏、ヴェネツィア

モネは、数多くの苦難を乗り越えながら、自らの芸術と向き合ってきた人物です。しかし、生活が苦しいからといって、決して絵画制作に手を抜くことはなく、一方でヨーロッパ旅行などをして、創作活動を幅広い場所で行っていたことでも知られています。

そんなモネの最後の大旅行となったとして知られている、ヴェネチア旅行中に描かれた作品が、美術評論家のなかでは最高傑作ではないかと、大変高い評価をうけています。

ベルネームジューヌ画廊にて、旅行時に描かれた作品が29点展示されましたが、そのなかでもモネらしい作品といえば、黄昏、ヴェネツィアという作品です。

夕日が沈むヴィネチアの生みと、島を描いたシンプルな作品でありながらも、モネが持ち合わせている技術と、自然への思い、見たそのままを騙しなしで表現できる純粋さが痛いほど伝わってくる美しい作品です。一度見たら忘れられない、まさに至高の一枚といっても過言ではないのではないでしょうか。

ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池

前述しましたが、モネのジヴェルニーの自宅には、日本風の橋が掛かっていました。そのため、睡蓮シリーズの初期の作品には、ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池という作品があります。

やや、暗めでしっかりと輪郭がはっきりとした、骨格のある印象の仕上がりとなっています。美しさはもちろん、光n使い方や、絵画でありながらも時間が流れているような、そういった儚さとリアリズムを感じさせる作品です。

ジヴェルニーの日本の橋と睡蓮の池も、モネの作品のなかでは外すことができない1枚でしょう。

クロード・モネの人生について

世界的に有名な西洋画家のひとりといえば、クロード・モネです。
フランス生まれの印象派の画家であり、名作を多くの残した偉人のひとりでもあります。モネの絵は、時間を表現する絵として知られており、「睡蓮」はモネの遺した作品のなかでは最も知られている名作です。モネは、風景画も多く描いていることから、そのモネの絵の舞台となったといわれるような場所へと訪れる絵画ファンも多く、芸術界だけでなく観光業界にも影響を与えます。
ここでは、世界的印象画家であるモネの人生についてを紹介します。

モネの幼少期、パリへの挑戦

モネが生まれたのは1840年。パリで生まれ、その後はノルマンディー地方で過ごしたことがわかっています。
幼少の頃よろ絵画を得意としており、その絵を販売することができるほどの腕前であったといわれています。
その後、風景画家であるブータンとの出会いがモネを変化させます。
モネは、風景画の美しさに心を惹かれ油絵制作をブータンにお知られることになります。
少しづつ実力をつけ続けたモネは、1859年についにパリへと向かい、パリで画家として生活をすることを決心するのです。

サロンへの入選と苦悩

絵画の世界は、どれほどすばらしい技術を備えていても、一度でもサロンなどで入賞しないと認められることはありません。モネは、その実力を遺憾なく発揮することで、若くしてサロンへの入賞が認められます。この入選をきっかけにして、モネはプロの画家として生活をスタートさせることとなりました。

戸外制作と筆触分割の手法を取り入れた絵画を多く描いて行きますが、なかなか入選に至ることがありませんでした。この頃のモネは、自らの絵画が認められず、苦しい日々を過ごします。非常に貧しい生活を強いられていたこの時代、モネはカミーユという美しい女性と恋に落ちます。

カミーユとの愛が深まった結果、子どもができてしまいます。当時、戸外制作と筆触分割の手法が認められることがなく、貧困生活を送ってきたモネに、子どもを養う能力は一切ありませんでした。悩みに悩んだモネは、セーヌ川に身を投じ、命を絶とうとしました。

しかし、さまざまな未練を遺したままで死にきることができないモネ。貧困でありながらも、自分たちに見合った生活を続けようと、細々と絵を描きながら家族を支えて行ったのです。

印象派の誕生

父親からの支援も途絶え、ますます苦しい状況となっていたモネ。普仏戦争が始まったことで、モネはロンドンへ逃亡します。ロンドン時代、パトロンとしてモネを支えてくれる画商デュランリュエルと出会い、モネは生活を立て直すこととなります。

戦争が終わった後、パリに戻ったモネはセーヌ川などを描き勢力的に活動を続けました。その後、モネと絵描き仲間たちが、1874年に独立した展覧会を開催します。展覧会のタイトルを「印象 日の出」としており、これが結果的に印象派の第1回の展覧会として語り継がれています。

今となれば、モネの第1回の展覧会といえば、大きな話題となるような事柄ですが、当時はまだ印象派は世間に受け入れられることなく、大きな批判を浴びてしまうことになります。

しかし、モネの才能に気付きはじめるものも多く現れており、エルネスト・オシュデという人物がパトロンとしてモネをかくまいます。2、3回と展覧会を続けることで、印象派に注目も集まり、活躍の場が広まって行きました。

モネの転機

当時、パトロンであったエルネスト・オシュデの自宅で同居生活を送っていたモネとカミーユですが、1879年に最悪の妻であるカミーユを亡くしてしまいます。さらに、エルネスト・オシュデの経営していたデパートが負債を抱えて倒産。

エルネスト・オシュデの妻と子ども、モネを置き去りにして夜逃げしてしまったのです。モネ自身の子どもだけでなく、エルネスト・オシュデの子どもの面倒もモネが見ることとなり、結果的にまた貧困に苦しむ生活が強いられます。

さらに、印象派の展覧会を続けて行くなかで、モネとルノワール、ドガは方向性の違いなどにより対立。結果的に、印象派展は8回を最後に開催されることはなくなり、モネは自力で絵描きとして活動をしていくこととなってしまったのです。人生の最大の転機を迎えたモネは、新たな方法で自分の才能を開かせて行きます。

大家としての名声

仲間たちとの別れ、妻との別れ、パトロンとの別れ…。さまざまな苦難を乗り越えるために、モネは住まいをセーヌ川沿いのジヴェルニーへと移します。経済的に苦しくなっても、勢力的な活動を続けていたモネは、ヨーロッパ中を放浪して作品を生み出し続けます。

モエの個性的で、心を和ませる絵画は一部の人間たちの琴線に触れ、徐々にではありますが名声が高まりはじめます。そして、デュランリュエルが印象派の展覧会をニューヨークで開催すると、モネの名声は瞬く間に上がります。

経済的にも、安定した生活を送れるようになったモネは、積みわらやポプラ並木といった、代表作となる連作をこの頃から描き始めます。印象派の大家として名を挙げて行ったモネは、アリスという女性を第二の妻として迎え、より自らが納得する作品づくりへと没頭し続けたのです。

睡蓮を生み出したモネ

モネの作品のなかで、もっとも有名な作品といえば睡蓮であることに異論はないでしょう。1890年代に、モネは自宅の睡蓮の池のある水の庭を整えていました。庭の風景を描き続けて行くなかで、最終的にモネは睡蓮の池をメインに描くようになっていきます。

連作としてさまざまな睡蓮を描いてきたモネですが、ヴェネツィア旅行へと最後に出かけており、ここでもすばらしい作品をいくつも遺すこととなりました。晩年のモネは、友人たちの死去であったり、自らの体の衰えと戦いながら睡蓮を仕上げて行きます。

なんと、最終的には白内障まで患ってしまうモネですが、「睡蓮」大装飾画の製作に没頭し続けていきます。

そして86歳の時に、モネはこの「睡蓮」大装飾画を最後に息を引き取ります。作品は、オランジェリー美術館に収められており、今でも多くの美術ファンや観光客から愛される存在として生き続けています。

睡蓮にかけた思い

貧しい生活を送り続け、苦労を重ねて来たモネ。印象派の大家としてその名声を手に入れながらも、結果的に彼の心を動かしたのは、贅沢な暮らしや毎晩のように開催されている晩餐会ではありませんでした。

それこそが芸術作品と呼ばれている、モネのジヴェルニーの庭にある、睡蓮の池の風景でした。第一作目を描いた後に、大改修工事が行われており、全てが完璧といわれる状況にまで仕上げます。

モネは、晩年の頃にジェフロワに向けて、水面とそこにうつる影の美しさに魅せられてしまった。自分のような老いぼれの能力を遥かに越えた仕事であり、何枚も描きつぶしつづけているという、そういった内容の手紙を送っています。

水面に映し出される、自然のもたらす美しい風景がモネの心をしっかりと掴み、そして豊にしてくれていたことが、この手紙を見ることでわかります。

しかし、1950年代前にはフォーヴィスム、キュビスムなどが生まれ、印象派は注目されませんでした。1950年以降の抽象表現主義の画家や批評家などによって、モネの名が多く出されるようになり、モネが再評価されました。モネは、印象派にとって大切な人物であり、その世界観に誰よりも魅せられていた人生を送っていたのです。

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