本土寺が守り伝える本土寺過去帳

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本土寺千葉県にある日蓮宗の寺院。
紫陽花の綺麗な寺としても有名ですが、歴史解明の手がかりとなる過去帳を持つことでも知られています。東国の歴史がつぶさに記録された過去帳は、同時に本土寺歴史を綴った資料でもあり、そこには開山から勢力を増していく過程が綴られています。

三長三本の一つに数えられる長谷山本土寺

千葉県松戸市にある本土寺は、日蓮宗の寺院です。現在は本末を解消していますが、もともとは日蓮宗の本山で、山号を長谷山と称しました。日蓮の弟子の日朗の門流で、大田区池上の長栄山本門寺と鎌倉の長興山妙本寺とともに、どの寺院も山号に「長」と寺号に「本」が入っていることから、朗門の「三長三本」と呼ばれています。

本土寺は松戸市北の平賀にあり、最寄り駅は常磐線の「北小金」駅。駅から15分ほど歩いた、住宅地の中にあります。境内には季節ごとに花や紅葉が目を楽しませてくれ、特に紫陽花の季節は多くの観光客が訪れる、あじさい寺としても有名です。本土寺を有名にしているもう一つのものが、本土寺に伝わる「本土寺過去帳」と呼ばれる書物。現在目にすることができる中世期の過去帳として、貴重な歴史資料になっています。

色とりどりの花が埋め尽くすあじさい寺

本土寺の境内で見られる紫陽花の種類は、約10種類とそれほど多くはありませんが、株の数は1万株を超えています。本土寺の公式ホームページには5万本以上と書かれているので、シーズンには紫陽花が文字通り埋め尽くすように咲き誇る様子を見ることができます。

ほぼ同じ季節には、5千本の花菖蒲も見頃を迎えます。仁王門をくぐり右手の奥にある菖蒲池は、花菖蒲と紫陽花の花の美しいコラボレーションが奏でられる、絶好の観賞スポットです。シーズンには多くの人出があり境内も混雑するようですが、タイミングが良ければベンチに座ってゆっくり眺められる場所もあります。

桜や紅葉の季節も人気がありますが、梅やモクレン、コブシや曼珠沙華など季節の花を楽しめる寺院です。弁天堂のある池には、睡蓮も花を咲かせるので、シーズンには早起きしていくのも良いでしょう。

日蓮の六老僧の日朗が開山した本土寺

本土寺は地域の有力者であった平賀氏の持仏堂が起源と言われており、1277年に現在の地へ移転しました。その移転の際に街道供養を行ったのが、日蓮の六老僧の一人の日朗だったと言われています。別の記録では日朗の弟子の日伝が開山したとする記述もありますが、概ね13世紀後半から14世紀初頭にかけて、日朗の主導下において成立したとみて間違い無いようです。

日朗は下総国の出身で、日蓮が臨終に際して指名した六老僧の一人です。日蓮が入滅の際に開堂した池上本門寺を受け継ぎ、本門寺の基礎を築き上げました。それ以前に日蓮から継承していた鎌倉の妙本寺の両山は、以後「両山一首制」を取り1941年まで1人の住職によって管理されていました。その後、千葉氏より寄進された土地に、本土寺を開くことになります。

領主である千葉氏やその家臣の曽谷氏の保護を受け、関東一帯で信仰を集めました。特に曽谷氏からの保護は大きく、曽谷教信はのちに日蓮の元で出家し、日礼と名乗るようになり、法華堂を建立したと言われています。

本土寺過去帳は貴重な中世の歴史の手がかり

本土寺のもう一つの特徴が、「本土寺過去帳」と呼ばれる資料を持っていること。過去帳とは戒名や俗名、死亡年月日や享年などを記す帳簿のことです。本土寺の過去帳は13世紀後半から18世紀前半にかけての記事が書かれており、特に関東の歴史を知る上で貴重な資料とされています。

本土寺に保存されている過去帳で、最も古いものは1583年に書かれた「天正本」と呼ばれる過去帳。他にも「明暦本」「天和本」があります。現在はそれらをまとめて編纂しなおした「千葉県資料」が刊行され、資料を当たる時にはこれを用いているようです。

過去帳は主に当時の人々の没年の考証に使われることが多いですが、各家の類型を辿ったり死因や身分、生前の事績などを調べたりすることにも使われています。本土寺過去帳は東国の人口動態や、日蓮宗の不受不施派の実態の把握などに用いられている研究資料です。

七世・日意の時代に勢力を拡大

七世日意の代になって、本土寺は火災で堂宇を焼失してしまいます。ここでも曽谷氏の援助によって仮堂を据え、日意は勧進に出ますが享徳の乱によって中断されてしまいます。同じ頃に千葉氏の内紛により、経典などが散失してしまい、過去帳を新調したのが現在伝わっている過去帳の元になるようです。

その後、日意は精力的に各地に末寺を次々と開き、日意が開山した寺院は記録によれば17寺にもなりました。急速に精力を拡大していった要因は諸説あるようですが、概ね当時の上杉氏と古河公の精力争いや、楼門内部での混乱が原因と考えられているようです。こうして末寺を増やしていくことで、着実に勢力を浸透させて行き、幕末には末寺4院6坊75寺という、本土寺は関東圏において強い基盤を築き上げていきました。

不受不施派弾圧と廃仏毀釈と苦難の近世

江戸幕府による不受不施派弾圧によって、本土寺も日弘が島流しになるなど、辛い時代を迎えます。不受不施派とは、日蓮宗を進行しない人からは、施しを受けたり法を説いたりしないという宗派です。もともと不受不施派の傾向の強かった本土寺も弾圧の対象になり、結局は受布施派の久遠寺の下に組み入れられ、受布施派としての改革がおこなれました。

明治期には廃仏毀釈運動により、衰退を余儀なくされますが、もとより地域に根付いていた本土寺は、現在でも人々から変わらぬ信仰を集めています。最盛期ほどではないにせよ、境内には国の重要文化財に指定された梵鐘をはじめ、本土寺過去帳や日蓮筆の書簡が大切に守られ、四季を彩る花々が手厚く育まれているところに、仏の御心が伝わってくるようです。

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