鑁阿寺に見る足利氏と鎌倉幕府

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鑁阿寺は栃木県足利市にある、真言宗の寺院です。
大日様と呼ばれ地域にも親しまれる鑁阿寺は、もともと足利義兼の居所だったところに建てられています。鑁阿寺様と呼ばれる信心深い一面と、足利氏の基盤を築き上げる豪傑な一面の、2つの側面を持っていた人物です。突然の出家の理由など謎の多い義兼ですが、その裏には源頼朝とのさらには鎌倉幕府との複雑な関係があったようです。

国宝に指定された本堂を持つ鑁阿寺

栃木県の足利市にある鑁阿寺は、地元の人々には「大日様」と呼ばれ親しまれています。周囲を土塁と堀が取り囲む境内は、当時の武家の屋敷の特徴を残しており、足利氏の邸宅跡として国の史跡に登録されている寺院です。足利氏第2代当主の足利義兼が、持仏堂を邸内に建てたのが鑁阿寺の始まりで、第3代当主の義氏が伽藍の体裁を整えました。

国宝に指定されている、本瓦葺き・入母屋造の本堂は、初期の禅宗様の仏堂建築を伝える貴重な建造物です。現在の建物の元になる本堂は、1299年第7代当主の貞氏が再建したものですが、1432年と江戸時代元禄年間に大規模な改修工事が行われました。唐様と和様の背中が見られるなど、鎌倉時代の代表的な寺院建築で、内部には元禄時代に作られた観音壇厨子の中に、鎌倉時代後期の作とされる木造大日如来像が安置されています。

歴史から姿を消した足利義兼

鑁阿寺の元になる持仏堂を作った足利義兼は、足利氏の第2代当主。父の義康が下野国足利荘を相続したのを機に、源姓から足利姓に改めたことで、足利氏がスタートしました。義康の妻は熱田大宮司季範の次女(実孫)で、源頼朝の従姉妹にあたる女性です。以降、代々北条氏の女性を妻に娶り、出生の順に関係なく北条氏の血を引く息子が家督を継いできました。

義兼も実際は三男でありながら、北条氏の血を引くため家督を継ぎ、足利家の第2代当主となります。頼朝が平氏打倒のために伊豆国で挙兵すると、早い時期からこれに従軍し、その後も一貫して東国の頼朝と行動を共にし、大きな信頼を得るようになります。

頼朝のとりなしで頼朝の妻・北条政子の妹である時子を妻に迎え、義兼はますます頼朝との関係を深めることになります。一ノ谷合戦や木曽義高の残党討伐、頼朝の弟・範頼とともに平氏討伐と目まぐるしく活躍し、平氏滅亡後は上総国の介(次官)に任じられ、平氏滅亡とともに衰退した藤原姓足利氏を排して足利荘の完全支配を実現します。その後も奥州藤原氏討伐に加わるなど、鎌倉幕府での地位も確立していきましたが、頼朝の上洛に随行したときに、訪れた東大寺で突然出家してしまうのです。

義兼の信仰心と鑁阿寺・樺崎寺

以来一切の史書から名前がなくなるため、この出家の真意やその後の彼の動向は明らかになっていませんが、豪傑として百戦錬磨の武将の一面を持つ一方、高い宗教心を持つナイーブな人物でもあったようです。妻の時子が身ごもったとき、多くの占い師が「娘」と予言したのに対し、義兼は伊豆国から当時有名だった高僧を招き、祈祷により男子を得たと言います。このことからますます仏教に傾倒するようになり、欧州藤原氏討伐に際し、戦勝祈願のため樺崎寺を建立しました。

高野山の配置を模倣し、鑁阿寺を修行のための檀所に、樺崎寺を廟堂とみなして、二つを結ぶ道に卒塔婆を立てたり、将軍家の繁栄祈願の供養儀式を鶴岡八幡宮で盛大に行ったりと、義兼が信仰心に篤かったのは間違いないようですが、出家の理由はどうも別のところにありそうです。

親しくなりすぎた義兼と頼朝

そのもう一つの理由とは、義家が頼朝に近づきすぎたこと。頼朝と義理の兄弟になり、幕府での地位も大きくなった義兼は、あまりに近づきすぎたことを危ぶみ、狂人のふりをして頼朝の注意を逸らしたというのです。表舞台から姿を消し、頼朝の目に触れないようにすることが、義家が出家した本当の理由ではないかと言われています。

確かに頼朝は義経をはじめ次々と肉親を葬り去り、それまでともに戦ってきた同じ源氏一門を、他の御家人たちと同等の身分に位置付けようとし始めます。従わないものはことごとく粛清され、排除されていったのです。挙兵当初に見られた一致団結の気概は失せ、疑心暗鬼の目で周囲の戦を共にした一族を見るようになります。そんな頼朝の変貌ぶりは、近くにいたからこそ義兼も早くから気づいていたのでしょう。同時に「次は自分ではないか」と、不安に思うのも無理はありません。

出家以来、足利荘に隠棲していた義兼は、死に際して血書の遺言を残したと言われています。内容は「この樺崎寺の鎮守となり、子孫の繁栄を見守っていこう。」と認められ、さらに「わが子孫たちは時に私が取り付いて、気が狂うことがあるだろう」ということが書かれていようです。わざわざこんな遺言を残したのは、義兼が自分の死後も子孫に災いが及ばないよう、あらかじめ「この家は呪われている。だから手を出すな。」と、周囲に知らしめようとしているかのように見えてきます。

第3代当主義氏によって整えられた伽藍

義兼の死後、第3代当主の義氏が真言宗の寺院として伽藍を整え、足利氏の氏寺としました。寺院名の「鑁阿」は、義兼の法名に由来し、サンスクリット語で「大日如来」を意味し、地元の人々に「大日様」と呼ばれる所以です。境内の中央にある本堂「大御堂」は、義氏が建てたものは消失してしまいます。現在の大御堂は第8代当主の貞氏が再建したもので、江戸時代に大規模な修復が行われています。

足利一族の行く末を案じた義兼の死後、義氏が当主を継いだのはわずか11歳の時。母の時子が北条政子の妹であったこともあるとは思いますが、父に似て精神的にも肉体的にも強靭だったと言われる義氏は、自ら道を切り開き、幕府内でも一目置かれる存在となっていきます。17歳の時にはすでに北条時政の討伐軍に加わり、25歳の時には和田合戦で北条方につき大活躍したことが、記録に残っているほどです。

父が懸念した頼朝はすでにいませんでしたが、幕府は急速に北条氏の執権政治へと向かう時勢の中、義氏は北条氏の覇権体制の確立に多大な尽力を注ぎます。北条泰時の娘を迎えるなど、北条氏との結びつきも強め、武蔵守や陸奥守に任じられ上総国と三河国を手に入れ、幕府でも北条氏に次ぐ地位を手に入れました。このような絶頂期の足利氏の権勢が、鑁阿寺の伽藍や仏像などにも見ることができます。

足利氏を見守ってきた鑁阿寺

義氏の息子の泰氏が起こした自由出家事件により、絶頂期の足利氏に突然の転機が訪れてしまいます。この出家事件も義兼の時と同様、政治的な危機から身を守るための策だったようですが、結果的に足利氏を表舞台から引き摺り下ろすことになってしまいました。

泰氏は足利荘に亡くなるまでの20年間、隠棲を余儀なくされますが、それによって地元を中心とした一族の結束を強めることになりました。これは後に足利尊氏が室町幕府を起こす際に、大いに助けとなる基盤となったので、長い目で見ればむしろ良かったのかもしれません。義兼が遺言に認めたように、鑁阿寺はこれらの足利一族の隆盛と衰退の全てを、文字通り見守ってきたのでしょう。

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