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華やかさだけではない古式に忠実な葵祭

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葵祭は誰もが聞いたことのある、毎年新緑の頃に行われる京都の一大イベントです。
日本だけでなく世界からも参拝客が訪れるこの祭りは、王朝文化を伝える華やかな行列は思い浮かんでも、葵祭の全容はあまり知られていないようです。
本義の2週間も前から行われる、葵祭に伴う様々な儀式や神事にも、重要な意味があります。

京都三大祭りの魁として知られる葵祭

毎年5月15日に賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)で行われる葵祭。同じ京都で7月に行われる八坂神社の祇園祭と、10月に行われる平安神宮の時代祭に並ぶ、京都の三大祭に数えられる有名な祭です。

京都だけでなく、「祭」といえば葵祭のことをさしていたほど、全国規模で名の知られた葵祭は、正式な呼び名を「賀茂祭」と言います。奈良の春日大社の春日祭、京都の石清水八幡宮の石清水祭とともに、三勅祭と呼ばれる天皇の使者(勅使)が派遣されて行われる、古い儀式の伝統が保存された重要な祭祀です。

幾度となく復興してきた葵祭の伝統

元は賀茂一族のための豊作祈願だった祭が、天皇の勅使が派遣されるほどの国祭にまで発展した葵祭。規模が大きくなればなるほど、毎年祭りの開催には多額の費用が必要でした。その費用は宮中や貴族から、また氏子たちによって賄われていましたが、幕府が台頭し朝廷の力が弱まってくるに従い、次第にそれも困難になっていきます。

戦国時代に入ると、700年続いてきた伝統行事も、ついに中断の憂き目にあうことになります。その後は約200年の間、葵祭が開催されることはありませんでした。やっと再開されたのは5代将軍徳川綱吉の時代になってから。もちろん往時のような華やかさには及びませんでしたが、下鴨神社・上賀茂神社の両祠官の努力の賜物でした。賀茂祭が葵祭と呼ばれるようになったのは、この江戸時代の復興からでした。

やっと復活した葵祭りですが、幕末期の激動の末、都が東京へ遷都されるとともに、再び中止されてしまいます。天皇の勅使が派遣される勅祭扱いの廃止や、一般の地方神社と同列の扱いになったことによるもでした。岩倉具視らの働きかけの結果、三たび復活を遂げる葵祭ですが、太平洋戦争で三たび中断。現在の葵祭が復活したのは昭和28年(1953年)になってからでした。その3年後には久しく途絶えていた斎王の華やかな行列を、斎王代列として復活させ、現在の葵祭の形が整えられたのです。

古式を忠実に再現している葵祭

現在行われている葵祭は、度重なる中断にもかかわらず、往時の古式の姿をかなり忠実に再現していることでも重要な祭とされています。葵祭といえば華やかな行列の姿を思い浮かべますが、それに先駆けて行われる儀式や神事を合わせて、大きく3つの行事で構成されています。

まずは5月の初めに「競馬(くらべうま)」や「禊の儀」が行われます。競馬は文字どおり、馬で競い合う儀式です。5月3日には下社で流鏑馬が、5日には上社で競馬が行われます。「賀茂皇大神宮記」や「山城国風土記」に、賀茂神に馬を競い合わせて楽しませ、「五穀豊穣・天下豊平」を祈ったと書かれているように、当時から行われていた儀式のひとつです。「続日本記」には、賀茂祭に集まった人々が競い合って騎射したという記述も見られ、かなり熱狂していた様子もうかがえます。一時は禁止令が出されたほどでしたから、よほどの賑わいだったのでしょう。

ついで行われる「女人列禊の儀」は、1200年に廃止されるまで斎王が行列を伴い、紫野の斎院から賀茂川へ臨み、御禊を行ったことに由来します。その様子は源氏物語にも描かれるほど華やかで、人々の関心を引きつけていたようです。現在は斎王の代わりに斎王代が、約40人の女人列の人々とともに、下社の瀬見の小川と上社の楢の小川で、毎年交互に禊を行います。

祭神を迎え入れる御影祭と御阿礼祭

本儀より4日前の5月12日に行われるのが、下社の御影祭と上社の御阿礼祭の2つの神事です。どちらも神様を祭に迎え入れる神事で、それぞれの神社の由来に深く関わっています。

御影祭は下鴨神社の境外摂社である御影神社で行われる神事です。下社の北東8キロにある御影山に鎮座する神社で、賀茂建角身命と玉依媛命を祀っています。この地に降りたとされる両祭神の荒御魂を、御生木(みあれぎ)に遷して氏子地域を巡幸し、下社で本殿のご神体に新しい神霊を遷す儀式です。

上賀茂神社の御阿礼祭は、もともと上社の北3キロにある神山(こうやま)で行われていたという説があります。現在の神山は神職以外禁足の地となっており、神事はより上社に近い丸山で、真夜中に行われるようになりました。御阿礼木を組んだ囲いに蘇った別雷神の神霊を、榊に遷し上社本殿の御神体にこめる儀式です。御阿礼祭は神職だけで行われるため、詳細は知られていませんが、どちらの儀式も古い神道の様式を今に伝えている姿と言われています。

華やかな王朝時代を伝える宮中の儀と路頭の儀

いよいよ5月15日行われるのが葵祭の本儀です。本儀も大きく分けると「宮中の儀」「路頭の儀」「社頭の儀」の3つに分けられ、これに「走り馬の儀」を足して4つとすることもあるようです。かつて斎王がいた時期には、さらに斎院へ戻ってから「還立(かえりだち)の儀」が行われていました。

宮中の儀は、御所で天皇が勅使に祭文(さいもん)を賜る儀式です。まずは天皇の御前で飾馬や出立の舞が披露された後、祭文を携えた勅使が発遣されました。都が東京へ遷都した以降は、近衛使や内蔵使らが朝(8時半頃)に小御所へ集まり、奉行から祭文と幣物を受ける儀式に代わりました。古代から現代まで、御所から直接勅使が出立するのは、葵祭ただ一つだけです。

御所を出立した勅使は約500人の行列を従え、まずは下社へ、それから上社へと、京都市内を練り歩きます。葵祭では他の祭の多くに見られるような、神輿や山車がありません。市内を練り歩く行列には神様は存在せず、あくまでも天皇の勅使が各神社へ向かうのが特徴です。現代の500人を超える王朝絵巻のような行列にも圧倒されますが、平安時代には八百数十名もの行列だったという記述が残っています。

下社と上社の両方で行われる社頭の儀

宮中の儀を終え10時半頃に御所を出立した大行列は、正午近くに下社へ、午後3時半過ぎに神社へ到着します。到着した各神社で行われるのが、社頭の儀です。下社と上社では、朝早くから神殿を装飾したり献饌したり、祝詞奏上の儀を済ませたりして勅使一行を迎える準備を済ませます。

下社と上社ではほぼ同じ手順で儀式が行われます。お祓いを受けた勅使が、天皇から賜った祭文を読み上げ、それに答えて宮司が神宣を伝えるというのが大まかな流れです。ひと通りの儀式が済むと、神馬を3回西から東に牽き回す「牽馬の儀」が行われ、ついで楽の演奏が行われます。

その後「走馬の儀」が行われます。14頭の走り馬は勇壮で圧倒されますが、これらは訪れた人々を楽しませるためのものではありません。本殿の御扉が開かれていることからも、神々に楽しんでもらうための神事であることは明白です。この儀式も古来より変わらず伝えられている儀式で、葵祭の中でも重要な位置を占めています。

その他の祭事にも平安文化を感じられる

葵祭には他にも平安の王朝文化を感じさせる儀式が行われています。下鴨神社で行われる5月4日の「献香祭」は、祓い清めの意味があるお香を神前に供する儀式。あたりを包む高雅な香りに、身も引き締まる思いがします。「献花祭」は5月6日に生花を神前に捧げる儀式。賀茂の神様を慰める儀式として行われています。葵祭の後に下上両社で行われるのが「献茶祭」です。茶の湯の世界で有名な武者小路・表・裏の3千家が毎年交代で奉仕し、参拝客を前にして点前を披露します。

献香祭に引き続き、下社で行われる「古武道奉納」では、薙刀や剣術、柔術や居合に加え、棒術や鎖鎌など、普段は見る機会の少ない古武道を直接拝見できます。「歩射神事」は沿道の邪気を払うための弓神事で、楼門の上に放たれた鏑矢が、静寂の中にヒョウと独特の音を立てながら飛んでいく様は、神気のみなぎる瞬間を共有でき必見です。

長い歴史の中での度重なる中断にもかかわらず、平安時代の王朝風俗を現代の世に伝える葵祭。単にきらびやかなだけではなく、古式にのっとった伝統的な儀式も保存されているのが、この祭に重要な意義を与えています。華やかな行列だけでなく、その他の儀式や神事にも触れて、平安の王朝時代に思いを馳せてみてはいかがですか。

葵祭と賀茂社の神々

毎年盛大に行われる葵祭。日本だけでなく海外からも観光客の訪れる京都の三大祭りのひとつです。
葵祭の起源を語る上で、賀茂社と呼ばれる賀茂御祖神社と賀茂別雷神社の縁起は、切り離すことができません。そこには賀茂氏と朝廷の関わりが見えてきます。

葵祭とは賀茂社で行われる京都三大祭りのひとつ

誰もが聞いたことの葵祭は、京都の賀茂社で毎年5月に行われる祭事で、かつては賀茂祭と呼ばれていました。葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代に入ってからですが、二葉葵を身につけるようになったのは、もっと以前からのようです。

八坂神社で行われる「祇園祭」と、平安神宮で行われる「時代祭」とともに、京都三大祭りのひとつに数えられ、かつては「まつり」といえばカモ祭を指すほど、広く知られた盛大なお祭りでした。賀茂祭がこれほどまでに盛んになった理由には、石清水八幡宮の石清水祭や春日大社の春日祭と同じく、天皇の勅使が派遣される勅祭であったことも挙げられます。源氏物語の中でも車争いの下で描かれるほど、貴賎問わず人々を熱狂させたお祭りだったようです。

賀茂祭と名前にもなっている賀茂社とは、どんな結びつきがあるのでしょう。賀茂別雷神社と賀茂御祖神社の2つを指して賀茂社と呼んでいます。この2つの神社の成り立ちと、葵祭と呼ばれる賀茂祭には、深い結びつきがありそうです。

賀茂社の御祖神(みおやがみ)と別雷神

賀茂御祖神社の御祭神は賀茂建角身命、賀茂別雷神社の御祭神は賀茂別雷大神です。古伝によると日向峰に降り立った賀茂建角身命は、神武東征の先導役(八咫烏)をつとめた後、大和葛城山にいました。その後、山代の岡田に移り、さらに賀茂川を遡った久我の国の北に居を構えました。丹波の国から妻を娶り生まれた玉依姫が、瀬見の小川で見つけた「丹塗りの矢」を持ち帰り、その結果身ごもったのが賀茂別雷命とあります。

神話には史実が織り込まれていると考えると、賀茂建角身命は賀茂氏の祖先と考えられます。賀茂氏がどこから移ってきたのかはともかく、大和の葛城山付近から川沿いを北上し、現在の賀茂一帯に勢力を広げたようです。丹波から姫を娶ったことを考慮すると、そのあたりまで勢力を広げていたのかもしれません。

玉依姫は「玉=魂(神霊)」の依り代になる女性なので、巫女(賀茂では「阿礼乙女」)と考えられ、川で遊んでいたことなどから水神の性格を持っていたようです。賀茂別雷命はその名の通り、賀茂一帯に鳴り響く雷をイメージさせます。雷は「神鳴り」や「厳づ霊(ち)」とも読まれ、どちらも神々しさを表した呼び名です。雷光を稲妻と呼ぶように、雷に伴う雨は農業に欠かせないもので、賀茂氏はこの水神や雷神を守り神として、農業を中心に栄えた勢力と考えられます。

余談ですが、賀茂氏の「カモ」はカミ(神・上)から転じたという説もあります。自らに神の呼び名を転じるほど、彼らは自然神や祖先神を大切に祀っているという自負があり、賀茂の住人や周囲の人々からもそう認められていたのかもしれません。

五穀豊穣を祈る祭から国を挙げての祭へ

賀茂氏が玉依姫や賀茂別雷大神を、下社や上社で祀るようになったのはいつ頃からでしょう。両者の社伝によると、神武天皇の時代に賀茂建角身命が下社の北東にある御影山に、賀茂別雷大神が神社の真北にある神山に降り立ったとあります。

社伝自体は後世になってから成り立ったと考えられますが、史実に登場するのは5世紀ごろ、大和朝廷が設定した直轄地の中に「葛野県」や「賀茂県」が登場します。また、6世紀ごろには賀茂の神を祀る「賀茂県主」が、朝廷に貢ぎ物をしていたことも記されているので、その頃にはすでに両社ともに成立し、社伝もその頃には成り立っていたと考えて差し支えないでしょう。

賀茂祭の起源は「山城国風土記」の中で6世紀ごろと伝えられています。欽明天皇の御代に、賀茂の神の祟りによって起きた暴風・豪雨により、農作物が思うように育たず困窮していましたので、賀茂県主らが「4月の吉日」を選び祭祀を行った結果、無事に五穀成就し、天下も豊かになったとあり、賀茂一族を中心とした賀茂一帯の人々の豊作祈願の祭が、賀茂祭の起源だったようです。

賀茂氏が次第に勢力を増していくに従って、祭も徐々に盛大なものになっていったようです。7世紀後半には賀茂社の社殿も立派に造営され、山背国だけでなく周辺地域からも参拝者が増えていきます。祭に訪れる人も増え続け、ついには天皇の勅命により国司が派遣されるほどの賑わいを見せるようになったのです。賀茂祭は賀茂一族の地域の祭りから、山背国を挙げての国祭と成長していきます。

平安遷都により「勅祭」へと発展した賀茂祭

都が平安京へ遷都したことをきっかけに、賀茂社にも大きな転機が訪れました。朝廷から「皇城鎮護の神」として今まで以上に崇敬され、格別の待遇を受けるようになっていきます。賀茂社の社格も従二位から正二位、最終的には正一位まで昇格しました。賀茂社は事実上の山城国一宮となったのです。

810年には嵯峨天皇が内親王を斎王として遣わし、賀茂祭などに奉仕させたと「賀茂斎院記」に記されています。これが賀茂社の斎院の始まりで、1212年に廃止されるまで約300年にわたって皇室から斎王が遣わされました。

そして819年、嵯峨天皇は「賀茂御祖并びに別雷二神の祭、宜しく中祀に準ず」との勅を発します。当時の大祀は大嘗祭のみでしたから、それに次ぐ中祀に定められたということは、賀茂社の賀茂祭が宮中行事と同様に重要な行事であると見なされたということです。これにより、賀茂祭は警固も厳重になり、勅祭としての儀式も整えられ、その盛大華麗な様子が当時の書物に詳しく記されるようになりました。ところで、いったいなぜこれほどまでに賀茂祭が重要視されるようになったのでしょう。

都の遷都による賀茂氏への恐れが葵祭に

山背国の一地方の豊作祈願に過ぎなかった賀茂氏の賀茂祭。宮中でも重要な位置を占める、勅祭にまで重要視されるようになった背景には、賀茂氏の勢力圏と都の遷都が関わっているようです。

賀茂氏が居を構えた山背国には、平城京以降3つの都(恭仁京・長岡京・平安京)が造られました。その位置を年代順に追って見てみると、徐々に賀茂氏の勢力圏へ近づいているように見えてきます。賀茂氏が朝廷を呼び寄せたのでしょうか。

賀茂氏は秦氏と関係が深いと言われ、秦氏とともにこの地へ移ってきたのではないかという説があります。秦氏は太秦の地名が残っているように下流地域に、賀茂氏は上流域に稲作を中心として勢力を広げてきました。桂川の灌漑工事を行い現在の流れに治めたのは、渡来人で土木技術に長けた秦氏でした。

勢力を広げる秦氏に恐れをなした朝廷は、遷都の形をとって秦氏を追い出してしまいます。秦氏と関係の深かった賀茂一族も、少なからず影響を受けたことでしょう。当時は「祟る」ということに敏感な世の中でした。豪雨などの悪天候で不作に悩まされたことを「祟り」と捉えた朝廷は、祟りをおさめるために秦氏にゆかりの深い賀茂氏の賀茂社をもって、その怒りを鎮めることにしたのかもしれません。

もう一つ、雷のことを「ハタタ神」と呼ぶと言う、面白い事実があります。秦系には火雷神と言う雷神がいることも興味深い事実です。賀茂氏の奉る賀茂別雷大神は、秦氏の雷神を、もしかしたら秦氏そのものを祀っているのかもしれません。そう考えると朝廷が賀茂社を格別の待遇で珍重した理由も見えてくるようです。

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