西大寺は栄華必衰の理を表す

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西大寺は奈良市にある平城京の時代に作られた寺院です。
大仏のいる東大寺の方が有名ですが、創建当時は東大寺よりもはるかに大きく、天平文化の様々な美術や建築様式が詰められた伽藍でした。
天平時代・鎌倉時代江戸時代と、その姿を変えてきた西大寺。その栄華と衰退の背景には、いったい何があったのでしょうか。

平城京最大の規模を誇った西大寺

奈良市にある西大寺は、奈良時代に創建された歴史ある寺院。近畿日本鉄道の大和西大寺駅から、すぐ近くにひっそりと建っています。かつては南都七大寺と呼ばれる、朝廷から特に大切にされた寺院のひとつでした。現在の姿からは、当時平城京のうちではずば抜けた規模の寺領を持ち、興福寺・薬師寺・唐招提寺などよりもはるかに大きかったとは、思いもよらないでしょう。

現在の姿は、鎌倉時代に叡尊によって復興した姿。創建当時に比べ縮小されたプランで作られた伽藍を、江戸時代に再建したものです。草創期の豪華さは見られませんが、歴史の重みを感じられます。

天平時代に栄華を極めた西大寺

天平時代の西大寺の遺構は、現在ほとんどが民家の下に埋もれています。当時の面影を偲ばせるのは、東西の塔の跡のみです。四王堂もほぼ現在の位置に建っていたようですが、残念ながら建物は当時のものではありません。

当時の規模は8世紀の終わりに書かれた「西大寺資財流記帳」が頼りです。それによると、西大寺には薬師金堂と弥勒金堂の2つの金堂「金堂院」を中心に、東西2つの塔・十一面堂院・西南角院・東南角院・四王院・小塔院・食堂院・馬屋房・政所院・正倉院と、多くの建物が並んでいたことがわかります。広さも当時の記録で31町。現在の単位に換算すると、約48ヘクタールと東京ドーム約10個の広さに相当する、広大な寺領を持っていました。

天平期の西大寺がこれだけの規模を誇った背景には、やはり当時の政治的な意図が強く絡んでいるようです。発願した称徳天皇の死と、それによる道鏡の失脚で西大寺の造営計画は一部変更されたようですが、計画自体には天皇と道鏡の意図が色濃く反映されています。天平時代の後期は、皇位継承の争いが絶えず、王子の擁立を謀る王族や貴族たちの間で、反逆や殺戮が繰り返されていました。その怨霊を鎮めるための堂宇や、鈍いから身を守るための建物が、伽藍の要所に配置されていることがわかります。

東西の塔は、当初珍しい八角形の七重の塔が計画されていましたが、礎石の祟りによって称徳天皇が病に伏したため、八角から四角へ、七重から五重へ変更されたと日本霊異記に記されています。東大寺よりも後に作られた西大寺には、天平時代の最新モードの堂宇や仏像が見られ、絢爛豪華な意匠が取り入れられていました。西塔跡から発掘された天平草創期の河原に、緑・白・褐色の三色の釉薬(三彩釉)が施されており、当時の華やかさを裏付けていますが、その全容の多くは書物の中から推し量るだけとなっています。

鎌倉時代の復興による新たな出発

平安後期、すでに衰退の一途をたどっていた西大寺の惨状は凄まじく、11世紀末の「中右記」には食堂院と塔一基を除いて全てが礎石だけになり、金銅の四天王像が雨ざらしで放置されていると書かれています。もはや壮大で豪華な伽藍は見る影もない、荒れ果てた寺院となっていました。

鎌倉時代西大寺を復興させた叡尊は、西大寺宝塔院の持斎僧として、自ら志願して当地へ赴きました。叡尊が訪れた頃には、食堂の修復と四王堂・東大門が再建された後でした。彼が目指したのは、天平時代に創建された仏堂や仏像を再建することではなく、真言密教の修養と仏教戒律の復興が目的であり、その宗教思想が鎌倉期の西大寺仏教美術に大きく影響を与えています。

叡尊は四王堂と宝塔院を中心に西大寺の再建を進め、一部僧堂を兼ねた厨や西僧房・僧堂・八幡宮・沙弥堂などが、彼の存命中に建てられました。その後も真言堂や宝生護国院などが建てられ、天平の草創期に比べだいぶ規模は縮小したものの、現在の境内とほぼ同じ規模の西大寺の姿が出来上がります。

江戸時代からの姿が見られる現在の境内

叡尊の努力によって再建された西大寺ですが、彼の死後は度重なる火災により、次々と失われてしまいます。現在見られる建物のほとんどは、江戸時代に再建されたものです。江戸時代に建てられたのは、本堂・四王院・愛染堂・護摩堂など。四王院は3度目の建立ということになります。現在見られる西大寺の姿は、この江戸時代に再建されたものです。規模も1万坪(約3.3ヘクタール)と、天平創建時の48ヘクタールから見ると、大幅に規模を縮小したひっそりとした伽藍になりました。

往時の絢爛豪華さは見る影もありませんが、天平当時の遺構からその姿に想いを馳せることはできます。本堂の前の地面に並んだ石は東塔跡の礎石。その礎石の大きさと本堂とを比べると、在りし日の塔の壮大さを偲ばせる遺構です。当時の堂宇や塔院に収められていた仏像も、火災や盗難でほとんどが失われてしまい、残っているのは金銅製の四天王像のみ。それも台座の天邪鬼の部分だけで、像全体はのちに作り直されたものです。

聚宝館に収められている寺宝や、現在の堂宇に収められた仏像の多くは、鎌倉時代の叡尊と江戸時代の再建で新たに収められたものです。江戸時代の再建修復では、叡尊の真言律宗の世界観に忠実な、質素だが装飾性のない伝統的な工法で再建されました。本堂は江戸時代後期の大規模な仏像建築として、国の重要文化財に指定されています。

その他にも釈迦如来・阿弥陀如来・阿?如来・宝生如来の4体の木心乾漆像など、多くの国宝重要文化財があり、一部は東京国立博物館や奈良国立博物館に寄託されています。聚宝館で見られる乾漆吉祥天立像は、創建当時のものではありませんが、所蔵品の中では最も古い部類で平安時代に作られたものです。

現在の西大寺は街中の喧騒のほど近くで、ひっそりと佇む静かな寺院です。政治的な意図が絡み、創建後まもなく衰退の一途をたどり、天平文化の鮮やかで絢爛な姿は、瞬く間に失われてしまいました。叡尊によって新たな世界観を持つ寺院として生まれ変わりますが、それもやはり世の動乱による火災や兵乱で、再び姿を消してしまいます。創建当時と現在の姿に、これほどまで異なる姿を見せる寺院は、現在見られる寺院の中でも稀な部類と言えるでしょう。人の世の儚さを思わせる西大寺歴史を、当地を訪れた際はぜひ思いを巡らせてみてください。

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