神社葵祭と賀茂社の神々

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毎年盛大に行われる葵祭。日本だけでなく海外からも観光客の訪れる京都の三大祭りのひとつです。
葵祭の起源を語る上で、賀茂社と呼ばれる賀茂御祖神社と賀茂別雷神社の縁起は、切り離すことができません。そこには賀茂氏と朝廷の関わりが見えてきます。

葵祭とは賀茂社で行われる京都三大祭りのひとつ

誰もが聞いたことの葵祭は、京都の賀茂社で毎年5月に行われる祭事で、かつては賀茂祭と呼ばれていました。葵祭と呼ばれるようになったのは、江戸時代に入ってからですが、二葉葵を身につけるようになったのは、もっと以前からのようです。

八坂神社で行われる「祇園祭」と、平安神宮で行われる「時代祭」とともに、京都三大祭りのひとつに数えられ、かつては「まつり」といえばカモ祭を指すほど、広く知られた盛大なお祭りでした。賀茂祭がこれほどまでに盛んになった理由には、石清水八幡宮の石清水祭や春日大社の春日祭と同じく、天皇の勅使が派遣される勅祭であったことも挙げられます。源氏物語の中でも車争いの下で描かれるほど、貴賎問わず人々を熱狂させたお祭りだったようです。

賀茂祭と名前にもなっている賀茂社とは、どんな結びつきがあるのでしょう。賀茂別雷神社と賀茂御祖神社の2つを指して賀茂社と呼んでいます。この2つの神社の成り立ちと、葵祭と呼ばれる賀茂祭には、深い結びつきがありそうです。

賀茂社の御祖神(みおやがみ)と別雷神

賀茂御祖神社の御祭神は賀茂建角身命、賀茂別雷神社の御祭神は賀茂別雷大神です。古伝によると日向峰に降り立った賀茂建角身命は、神武東征の先導役(八咫烏)をつとめた後、大和葛城山にいました。その後、山代の岡田に移り、さらに賀茂川を遡った久我の国の北に居を構えました。丹波の国から妻を娶り生まれた玉依姫が、瀬見の小川で見つけた「丹塗りの矢」を持ち帰り、その結果身ごもったのが賀茂別雷命とあります。

神話には史実が織り込まれていると考えると、賀茂建角身命は賀茂氏の祖先と考えられます。賀茂氏がどこから移ってきたのかはともかく、大和の葛城山付近から川沿いを北上し、現在の賀茂一帯に勢力を広げたようです。丹波から姫を娶ったことを考慮すると、そのあたりまで勢力を広げていたのかもしれません。

玉依姫は「玉=魂(神霊)」の依り代になる女性なので、巫女(賀茂では「阿礼乙女」)と考えられ、川で遊んでいたことなどから水神の性格を持っていたようです。賀茂別雷命はその名の通り、賀茂一帯に鳴り響く雷をイメージさせます。雷は「神鳴り」や「厳づ霊(ち)」とも読まれ、どちらも神々しさを表した呼び名です。雷光を稲妻と呼ぶように、雷に伴う雨は農業に欠かせないもので、賀茂氏はこの水神や雷神を守り神として、農業を中心に栄えた勢力と考えられます。

余談ですが、賀茂氏の「カモ」はカミ(神・上)から転じたという説もあります。自らに神の呼び名を転じるほど、彼らは自然神や祖先神を大切に祀っているという自負があり、賀茂の住人や周囲の人々からもそう認められていたのかもしれません。

五穀豊穣を祈る祭から国を挙げての祭へ

賀茂氏が玉依姫や賀茂別雷大神を、下社や上社で祀るようになったのはいつ頃からでしょう。両者の社伝によると、神武天皇の時代に賀茂建角身命が下社の北東にある御影山に、賀茂別雷大神が神社の真北にある神山に降り立ったとあります。

社伝自体は後世になってから成り立ったと考えられますが、史実に登場するのは5世紀ごろ、大和朝廷が設定した直轄地の中に「葛野県」や「賀茂県」が登場します。また、6世紀ごろには賀茂の神を祀る「賀茂県主」が、朝廷に貢ぎ物をしていたことも記されているので、その頃にはすでに両社ともに成立し、社伝もその頃には成り立っていたと考えて差し支えないでしょう。

賀茂祭の起源は「山城国風土記」の中で6世紀ごろと伝えられています。欽明天皇の御代に、賀茂の神の祟りによって起きた暴風・豪雨により、農作物が思うように育たず困窮していましたので、賀茂県主らが「4月の吉日」を選び祭祀を行った結果、無事に五穀成就し、天下も豊かになったとあり、賀茂一族を中心とした賀茂一帯の人々の豊作祈願の祭が、賀茂祭の起源だったようです。

賀茂氏が次第に勢力を増していくに従って、祭も徐々に盛大なものになっていったようです。7世紀後半には賀茂社の社殿も立派に造営され、山背国だけでなく周辺地域からも参拝者が増えていきます。祭に訪れる人も増え続け、ついには天皇の勅命により国司が派遣されるほどの賑わいを見せるようになったのです。賀茂祭は賀茂一族の地域の祭りから、山背国を挙げての国祭と成長していきます。

平安遷都により「勅祭」へと発展した賀茂祭

都が平安京へ遷都したことをきっかけに、賀茂社にも大きな転機が訪れました。朝廷から「皇城鎮護の神」として今まで以上に崇敬され、格別の待遇を受けるようになっていきます。賀茂社の社格も従二位から正二位、最終的には正一位まで昇格しました。賀茂社は事実上の山城国一宮となったのです。

810年には嵯峨天皇が内親王を斎王として遣わし、賀茂祭などに奉仕させたと「賀茂斎院記」に記されています。これが賀茂社の斎院の始まりで、1212年に廃止されるまで約300年にわたって皇室から斎王が遣わされました。

そして819年、嵯峨天皇は「賀茂御祖并びに別雷二神の祭、宜しく中祀に準ず」との勅を発します。当時の大祀は大嘗祭のみでしたから、それに次ぐ中祀に定められたということは、賀茂社の賀茂祭が宮中行事と同様に重要な行事であると見なされたということです。これにより、賀茂祭は警固も厳重になり、勅祭としての儀式も整えられ、その盛大華麗な様子が当時の書物に詳しく記されるようになりました。ところで、いったいなぜこれほどまでに賀茂祭が重要視されるようになったのでしょう。

都の遷都による賀茂氏への恐れが葵祭に

山背国の一地方の豊作祈願に過ぎなかった賀茂氏の賀茂祭。宮中でも重要な位置を占める、勅祭にまで重要視されるようになった背景には、賀茂氏の勢力圏と都の遷都が関わっているようです。

賀茂氏が居を構えた山背国には、平城京以降3つの都(恭仁京・長岡京・平安京)が造られました。その位置を年代順に追って見てみると、徐々に賀茂氏の勢力圏へ近づいているように見えてきます。賀茂氏が朝廷を呼び寄せたのでしょうか。

賀茂氏は秦氏と関係が深いと言われ、秦氏とともにこの地へ移ってきたのではないかという説があります。秦氏は太秦の地名が残っているように下流地域に、賀茂氏は上流域に稲作を中心として勢力を広げてきました。桂川の灌漑工事を行い現在の流れに治めたのは、渡来人で土木技術に長けた秦氏でした。

勢力を広げる秦氏に恐れをなした朝廷は、遷都の形をとって秦氏を追い出してしまいます。秦氏と関係の深かった賀茂一族も、少なからず影響を受けたことでしょう。当時は「祟る」ということに敏感な世の中でした。豪雨などの悪天候で不作に悩まされたことを「祟り」と捉えた朝廷は、祟りをおさめるために秦氏にゆかりの深い賀茂氏の賀茂社をもって、その怒りを鎮めることにしたのかもしれません。

もう一つ、雷のことを「ハタタ神」と呼ぶと言う、面白い事実があります。秦系には火雷神と言う雷神がいることも興味深い事実です。賀茂氏の奉る賀茂別雷大神は、秦氏の雷神を、もしかしたら秦氏そのものを祀っているのかもしれません。そう考えると朝廷が賀茂社を格別の待遇で珍重した理由も見えてくるようです。

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