日本史

前夜、なにがあった?応仁の乱が長引いた理由とは

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戦国時代に突入するきっかけとなった戦いと言われる「応仁の乱」。

応仁の乱は、室町幕府管領(将軍に次ぐ権力をも持つ)畠山氏と斯波氏のお家騒動、細川勝元と山名宗全の勢力争い、さらに室町幕府8代将軍・足利義政の継嗣争いが、複雑怪奇に絡み合って起きました。

小さなにらみ合いから始まり、どんどんと飛び火し、勢力図は入り乱れ、もうキッカケが何だったか、敵は誰で、どこに味方がいて、どんな理由で戦っているのか、当事者さえも分からなくなってしまうような。あげく、誰も勝者のいない「和睦」という幕引き・・・・まるで、お互いが振り上げたこぶしを降ろすタイミングを失ったかのような、実に不毛な戦乱でした。応仁の乱が起こった応仁元年(1467年)から文明9年(1477年)までの約11年もの間、京の町を燃やし人々を疲弊させ続けた結果、幕府の権威は地に落ち、都は荒廃し、疫病や一揆がはびこる恐ろしい世の中になってしまっていたのです。

歴史ファンとしても、この戦いを本当に理解するのはなかなかに難しいもの。

今回は、応仁の乱前夜、乱のきっかけを作った対立関係に、注目してみたいと思います。

揺れる幕府の基盤

そもそも、室町幕府は、将軍の下にいる管領家や守護大名などによる合議制ということもあって、私たちが比較的よく知る江戸幕府のように、将軍に絶対的な権力が集中しているわけではありませんでした。4代目将軍足利義持の弟で、くじ引きで将軍に選ばれた6代将軍足利義教は、守護大名らが独自に力をつけ、将軍家に対しても権限が強まることを懸念し、「強い幕府」を誇示するために専制政治を行っていました。

一方、力を抑えられては当然反発も起きます。その結果、足利義教は赤松満祐という人物によって暗殺されてしまいました。この事件を「嘉吉の乱」と言います。嘉吉の乱を収束に導いたのが、管領家である細川持之と畠山持国です。

乱の平定後、畠山持国は足利義教に抑えられていた守護大名たちを次々と取り立て、人気を集めました。畠山持国は、義教亡き後の7代将軍になった当時9歳の足利義勝が急逝すると、義勝の弟、当時8歳であった足利義政を8代将軍に指名します。
足利家のことは足利家で決めたら良かったのに、と思いますが、権力を誇示するために管領家だって口を出します。さらに、義政と持国は、管領家の斯波家のお家騒動にも口を出して、余計こじらせてしまったりするのです。

管領・畠山家のお家騒動

さて、そんな畠山持国には、それまで子どもがなく、弟の畠山持富を養子にし、後々跡目を継がせようとしていました。しかしその後、なんと持国に子どもができたので、弟の持富を廃嫡、実子である義就を嫡子とします。

それに不服を唱えたのは、畠山家重臣の遊佐氏と神保氏です。そしてここに大きな対立が生まれました。

「持富を廃嫡し実子・義就を跡継ぎに!の持国派」と、「持富(は亡くなったので)の子・弥三郎こそが正当な跡継ぎだ!の神保・遊佐両氏派」が、争いを起こします。そして争いの末、持国によって神保氏が暗殺されると、不利になった弥三郎は弟の政長と共に、弥三郎押しの畠山家臣と細川勝元、山名宗全らに保護されます。

姻戚関係で結ばれた細川勝元、山名宗全らは、畠山持国を襲撃。結果、持国は隠居し、息子義就は京を追い出されてしまいます。こうなっては、持国派だった将軍足利義政も、弥三郎が嫡子であることを認めるしかありませんでした。

きりがないケンカの応酬

争い原因を作ったとして、義政は持国親子と細川勝元の両方に処罰を与えます。
いわゆる喧嘩両成敗、ということでしたが、しかし、山名宗全は納得がいきません。「え?何で?持国悪いでしょ。ていうか、なんで細川も処罰受け入れちゃってんの?おかしくない?」と山名宗全が叫んだかどうかは定かではありませんが、反発しました。また、そんな山名の態度に将軍義政は怒り返して、「山名め!私の言うことが聞けんのか!やっつけてやる!!」とばかりに討伐命令を出す始末・・・。ここは細川勝元のとりなしで討伐命はさがり、山名宗全が但馬に隠居することでひとまずこの件は収まります。

ところが、山名宗全が京からいなくなると、好機とばかりに再び畠山義就が軍を率いて上洛、家督争いに名乗りを上げます。そして、なんと義就が正式な畠山家の跡取りに返り咲くのです。(みなさん、大丈夫ですか?ついてきていますか?混とんとしていますね、まったく。)

頼みの山名が京にいない今、逃げた弥三郎は細川勝元を頼ります。京を追われた雪辱を晴らすべく弥三郎憎しと燃える義就と、弥三郎を擁した細川勝元は、戦闘を開始するのです。

そして、どういうわけか、但馬にいたはずの山名宗全は義就側に付きます。

そうです、ここに、「山名宗全vs細川勝元」応仁の乱の対立関係が生まれたのでした。

火種は残る

世の中が落ち着かない時代、この頃に起こったとされるお家騒動は富樫氏・小笠原氏・六角氏などが知られています。畠山氏や斯波氏以外でも、お家騒動が起きるたびに、幕府が間に入り調停に努めますが、(ただ口を出しているだけ、という説も)幕府の対応には一貫性がなく、幕府の威信は下降していきました。

お家騒動で各家に残った火種は、応仁の乱開戦というきっかけに触発され、また新たな戦火を生みました。まさしくこのことが、応仁の乱がこれほど長引いた理由なのかもしれません。

応仁の乱を始めた山名宗全も細川勝元もまさか11年も長く戦闘が続くとは思ってもいなかったでしょう。戦いの途中で両氏ともなくなり、次の代に変わってからの「和睦」による乱の収束。モヤモヤ感が残りますね。

そして世の中は、ますます混とんとした戦国時代へと突入していくのでした。

応仁の乱〜「下克上、いい感じ!」な雰囲気はなぜ生まれた?

「強い幕府」を目指した足利将軍家はなぜ弱体化した?

室町幕府が最盛期を迎えた時代は、三代将軍・足利義満の時代でした。
約半世紀にわたり、朝廷がふたつに分かれた南北朝時代が、この義満の代でひとつにまとまり、政治権力は幕府のもとに集約されることになったのです。

さらに、倭寇の暴挙に頭を悩ませた明と義満の間で、勘合を持つ者だけが正式な交易商人と認めるという勘合貿易が始まったことで、貿易による富が日本に蓄積されるようになりました。

すでに「強い幕府」となる材料は揃っていたはずなのですが、室町幕府には、その創立以来の悩みの種となっている事実がありました。
強いのは幕府だけではなく、幕府を守る守護大名が握る武力や権力も、幕府に負けず劣らず強かったことです。
後に「応仁の乱」が起きた原因は、この「強すぎる守護大名」の権力争いに加え、足利将軍家の跡目争いが繰り返し起こることで、そのたびごとに将軍家の力が弱まっていったことによるとも言われています。

強い勢力には、より強い勢力を持って毅然と立ち向かうこと。
「柔能く剛を制す」の逆を行く、強権的態度で守護大名を頭から押さえ込もう、という方針があけすけな将軍家に対し、守護大名は名の通り「柔能く剛を制す」の要領で、一見すると言う事を聞いているように見えながら、跡目争いの後見人など将軍家の弱い部分をサポートして取り入ることで、政治にますます口を挟みやすくなる実態を作り上げます。

応仁の乱」の後の戦国時代のキャッチコピーとも言える「下克上」の雰囲気は、すでに足利義満以降の政界で、守護大名たちにより醸成されていたのでした。

応仁の乱前夜、人々の生活はどうだった?

平安時代末期から鎌倉時代室町時代と、政権が前の政権によって滅ぼされ、そのたびに人材が上下かまわずにシャッフルされてきました。
政権争いに破れ、京を落ちてきた教養人が、日本各地にある荘園や、有力な農民のいる農村にたどり着き、そこで京都の最新ビジネスやニュースを広めました。
そして、1400年代の室町時代になると、民衆による農業の効率化が、作物の育て方から農業グッズにいたるまで格段にバージョンアップされ、牛馬を使い広大な田畑を耕し、十分な肥料が行き届いたその田畑では稲と麦の二毛作が行われ、農民が財力とともに力と知恵をつけていきました。
羽子板のようなもので子供が遊び、「御伽草子」で教養を蓄え、得意な手芸を極めて櫛やゲタなどを作って売る職人も現れました。

そんな知恵と財、そして最新の都事情に詳しい地方の民から、権力争いに夢中で民衆を金儲けマシーンとしか考えてない幕府は、すでに敬われる存在ではなく、排除されてしかるべきやっかい者となっていました。

生活苦や飢饉に窮した民は、繰り返し一揆を行い、忌まわしい幕府の手先や増税ばかりの領主、金貸しに立ち向かっていたのです。
ここにも、「下克上、いい感じ!」の種が育っていました。

応仁の乱の大元、日野富子とはどんな人?

銀閣寺(東山慈照寺)でお馴染の8代足利義政は、リアルで夢のない政治よりも、アートの世界に住まう性格の人だったようで、パトロン兼アーティストとして、センスのいい建築物を才能ある絵師や庭師とともに、現代では「これぞJAPAN」として海外からファンが殺到する「和風」の文化を築き上げました。

「東山文化」と呼ばれる自分の世界に没頭する夫の妻は、リアルな蓄財に明け暮れていました。
日野富子が「悪女」と言われる理由は、自分の財を増やすために増税を繰り返したことにありました。有名なのは、京の出入り口全てに関所を作り、通行税を庶民から巻き上げ巨万の富を得たことです。

政治に興味のない夫に代わり幕府の実権を握っていた富子は、長く男児を授からず、そのため義政は弟の義視を次代将軍に据えたのですが、その翌年に待望の男児を富子は授かりました。

わが子を次代将軍にしたい富子は、有力守護大名の山名宗全を後見人にして、子の義尚に譲るよう義視に迫ります。
一方義視は、彼の後見人である細川勝元の力を借りて対抗しました。
1467年、この両軍が衝突。「応仁の乱」のはじまりです。

イケイケの山名宗全、マジメな細川勝元、どう違う?

あまたいる守護大名の中で、なぜ山名宗全と細川勝元がそれぞれ将軍家の後見人として激突することになったのでしょう?

さかのぼること4代将軍足利義教の時代、守護大名に強権的な恐怖政治をしていた義教を暗殺した赤松満祐を討伐した山名持豊の功により、幕府の重臣となった山名家は、その勢いのままに将軍家に物を言える強い守護大名として君臨していました。日野富子はその力をわが子義尚を将軍にするために使おうと考え、出家して山名持豊から宗全に名を変えた彼を担ぎ出しました。政界の泳ぎ方を知っているイケイケの山名宗全は、将軍家の跡目争いに、敵方の義視の後見人である細川勝元が、やはり後見人をしていた畠山家の跡目争いの火種を利用し、細川勝元を牽制します。
幕府管領を20年以上も務めたご意見番たる細川勝元は、あからさまに戦の火種を撒く山名宗全に手を焼いていたものの、幕府の決めたルールを尊び自省します。
しかし、じわじわと老獪に味方を増やす山名宗全、足利幕府の正統な跡目を守ろうとする細川勝元は、両軍25万もの兵を集めての全面戦争に突入しました。

応仁の乱後、日本中に伝播される京文化

応仁元年の1467年に始まった応仁の乱は、義政が義尚に将軍職を譲ることで、1477年に終わります。
時すでに遅し、将軍家の権威は地に落ち、地方にまで広まった戦乱の影響で守護大名は11年の内に幕府の権力の及ばない強大な力を持ちました。
守護大名が留守にしていた領地では、留守の間に領地が家臣や別勢力に占領されていたり、隣国から攻められてなくなっていたりと、弱肉強食の「戦国時代」が幕を開けます。
応仁の乱で混乱し、治安が悪化した京から、各地にある荘園や縁戚をたどって逃れた京都の貴族たちにより、京の最新モードが地方に伝播しました。将軍家ゆかりの文化が地方豪族の庇護のもと、時にはその土地の特産となって後の世にまで残ることになり、日本のあちこちで今でも「小京都」と呼ばれている土地は、このころ花開いた文化によるものが多いそうです。

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