日本史 噂の真相やいかに?大坂夏の陣での「家康死亡」説にせまる!

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大阪は境にある名刹・南宗寺。
ここには、驚くべき人物の遺骸が納められているといいます。
その人物とはなんと、徳川家康――。

皆さんは、慶長20年(1615年)5月7日、いわゆる大坂夏の陣において、智将真田幸村に追い詰められた家康は、戦いで追った傷がもとで死亡した、という説があるのをご存知でしょうか。その説は、夏の陣以降の、元和2年(1616年)に駿府城にて死亡したあの徳川家康は、実は影武者であった、というものです。

そんなの信じられない?
では、「家康死亡」説がよりどころとしてあげるその根拠とはいったいどういったものなのでしょうか。

南宗寺の来歴で語られる「家康の最期」

大正11年に刊行された『大阪府全志』という地誌があります。これは大阪府全域における、各市町村の成り立ちや、町や村などの区画の変遷、神社仏閣や名所の由来などを記した、資料としても大変価値のあるものです。
その『大阪府全志』の巻之5に、南宗寺の来歴について書かれている部分があります。
一部を抜粋してみましょう。

“ 本堂と庫裏の間に東照宮の廟あり。(中略)寺の旧記によれば、元和元年大阪の役に徳川家康は摂津・河内両国の境なる平野に陣せしが、敵雷火を放ちてこれを襲う。(中略)家康わずかに免れて葬輿(そうよ・葬儀の時に使われる輿)に乗じ、遁れて和泉の半田寺山に至る。たまたま後藤又兵衛基次の紀州より帰り来れるに会す。基次これを認め怪しみてその輿を刺す。(中略)而してこれがために家康は創を負いて終に起たず。侍臣ひそかに遺骸を携えて当寺に来り(中略)これを照堂の下に斂(おさ)む。 ”

これによると、敵襲から逃れたところを、家康はその乗り物ごと(槍で)刺され、その傷がもとで亡くなってしまった、とあります。

密かに南宗寺に運び込まれた遺骸は、本堂と庫裏の間の照堂に葬られました。そして、のちに駿州久能山に改葬された、と本書は続きます。

物証?!穴の開いた家康の「駕籠」

さきほど「輿を刺す」、つまりは乗り物ごと刺されたと書きました。実は、その伝説と合致するような、「駕籠」が、日光東照宮に所蔵されています。

家康が大坂の陣で使用していたものとされているこの日光東照宮所蔵の「徳川家康所用網代駕籠」には、屋根部分と、屋根の穴よりちょうど反対側、腰の位置あたりの網代部分に直径5センチほどの穴が開いています。

この二つの穴は、駕籠の内部を貫通するように一直線で結ばれており、東照宮が編集し昭和二年に発行した『東照宮寶物志』では、『大坂の陣で、真田幸村が家康公を狙撃した弾丸の跡』であると紹介してあります。

残念ながら、「徳川家康所用網代駕籠」の詳しい来歴は伝わっておらず、「東照宮寶物志」で書かれた伝説を裏付ける正式な史料も、残されていないそう・・・。

しかし、槍であれ、弾丸であれ、駕籠に乗っているところをこのような貫通痕を残すような攻撃をされたら、おそらく無傷ではいられなかったでしょう。

南宗寺にある「家康の墓」

南宗寺に纏わる家康の伝説は、まだあります。
先出の『大坂府全志』と、さらに『大阪府史跡名勝天然記念物』(昭和六年刊行)によれば、真田幸村の猛攻を何とかしのいだものの、その後の大阪城攻撃の最中、被弾し、その傷がもとで死亡したとなっています。その時、堺の商人「海部屋」ら7人の糸割符商(いとわっぷしょう・生糸輸入商)に密命が出され、ひそかに南宗寺に葬ることになりました。家康の亡骸の上には紫雲石が安置されます。事実はあくまでも秘密に、ただ紫雲石だけが大切にされました。

後に幕府に願い出て、この紫雲石を日光に奉納することが許された7人は、石の護衛を隠れ蓑にし、ひそかに家康の遺骸を日光に改葬することに成功します。
その功績ゆえ7人は、徳川御三家御三卿以外の立ち入りを許されない内殿での参拝が特別に許されたといいます。

南宗寺に、家康の墓があるとされる根拠は、それだけではありません。
最大の根拠とされているのは、徳川二代将軍・秀忠、三代将軍・家光が相次いで南宗寺に参拝をしていることです。元和9年(1623年)7月10日に秀忠が(しかもその直後に将軍職を家光に譲っている)、また、就任したばかりの家光が同年8月18日に参拝しています。
要職の堺奉行も、就任するとまずはこの南宗寺を参拝し、代々寺を保護していたといいます。
・・・これは何かある・・・と「家康死亡、南宗寺本墓説」を唱える人々の根拠として根強く支持されているのです。

あなたは、信じますか?

それでは家康の影武者、とされた人物は誰でしょうか。

影武者なのに誰だかわかる、というのもおかしな話ですが、定番の人物は「小笠原秀政」でしょうか。秀政は、家康の長子信康の娘を妻に持ち、彼もまた大坂夏の陣で死闘の末47歳で命を落としたとされる人物です。
(72歳と高齢で太っていたとされる家康の影武者が、47歳の武者に勤まるかどうかは疑問が残るところですが・・・)

南宗寺のある大阪といえは、関ヶ原で苦汁をなめた、判官びいきならぬ「豊臣びいき」、さらに「家康ぎらい」の街、と言っても過言ではありません。
そんな土地柄が、家康死亡説を生んだのかもしれませんね。いえ、それとも死亡説は真実?

謎の解明とロマンの楽しみ、歴史好きにはどちらが好まれるのでしょうか。

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