日本史 ハイスペック少年天皇登場!大宝律令に込められた父母の夢とは

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天武を父に、持統を母に持つスペシャルな天皇・文武天皇登場

大化の改新や壬申の乱といった深刻な内乱が度重なった時代のリーダーであった天智天皇、天武天皇、持統天皇たちが望んでいたのは、日本という国をささいな騒乱では揺るがない「律令国家」に成長させることでした。

大宝律令」とは、そんな律令国家となるために日本の統治システムに必ず導入しなければならないものでした。なぜなら律令とは、まだ個人の利益に国のいく末が左右されてしまう幼い日本を先進国に成長させるためのルールそのものであり、官民それぞれの立場を越えて、国とその国家を運営するトップたちに忠誠を誓わせることができる設計図でもあったからです。

663年に手痛い敗北を喫した白村江の戦い以降、おのずと強く意識せざるを得なくなった、天皇を中心とした求心力ある強力な中央集権国家を作ること。その実現のためにも、国の実情にそった日本オリジナルの律令は、喉から手が出るほど欲しかったものでした。

先進国・中国の専制国家統治システムである「律令」を、日本古来の風習や文化と軋轢を生まないようにアレンジして、天皇をトップにした政権側が扱いやすく、そして国民が抵抗なく従いやすい「日本の律令」を生み出すには、急ピッチで準備を進めていたとはいえ、近江令や浄御原令といった数々のトライ&エラーが必要でした。

ところで、この日本初の国家の基本法である「大宝律令」を施行したのは誰かご存知でしょうか?
答えは文武天皇です。
どんな天皇だったのかピンとこない方も多いのではないでしょうか。
人気の高い天皇の多い時代の中では、意外と知名度の低い人物です。

文武天皇とは、天武天皇と持統天皇の孫として生まれ、女傑の持統天皇が日本という国家の命運をかけ、全責任を負って「生まれながらの天皇の器に」と育て上げ、彼女の期待以上の逸材となったハイスペック天皇です。

歴代天皇の中でも日本人から神聖視されている天武天皇と持統天皇の直系の血を受け継いた軽皇子は、15歳の若さで天皇に即位しました。
祖母の持統天皇は、軽皇子が15歳になるまで天皇の座を自ら守り、サッと譲位したのですが、まだまだ壮健な頭脳と身体を持って、彼の権力を強力にバックアップしようと計画していたようです。

しかし、祖母の威光が健在とはいえ、日本は天皇の跡目争いや派閥争いが絶えない内乱の時代が長く続きましたから、血統書付きの飾り物としての役割しか担えない天皇などに、律令化しきれてない国家の命運を預けるわけにはいきません。そんな緊張感ある実力主義の時代に、15歳の文武天皇には、統治者としての実力が備わっていると周囲から判断されていたからこそ、他の経験豊富な後継候補者を差し置いて、政治上の最終決断を自ら下す天皇の座につくことを、人々が認めたのではないでしょうか。さらに軽皇子が天皇となったことで、その後の皇位継承の原則が直系の子孫に定められたのです。

スペシャルな少年天皇・文武天皇の在位は短く、25歳の若さで世を去りました。

大宝律令」で律令国家となった日本の最初の天皇である彼は、他にも遣唐使を再開して唐との国交を再開したり、後の平城京への遷都のプランを立てたりと、短い在位の中でも積極的に国のために働きました。

国家の悲願、大宝律令はどのように決まった?

大宝律令」はその名の通り、「律」と「令」の2つのパーツで出来ています。律とは刑法であり、令とは行政ルールのようなものと考えられます。
国の形が大きく、複雑になるにつれ、皇族や豪族それぞれのルールで利益を求めて勝手に動き、お互いの顏を立てる取り決めや内々での取引、頻繁に起こる武力抗争でいつまでも政治が行われているようでは、海を隔てた中国大陸の動乱が日本にまで押し寄せた際に対応しきれず、先進国の唐に独立国として認知されないまま国交にも支障が出ます。

大宝律令」では、律令を制定した天皇の地位・意思・行動は絶大とされ、一線を画していることが定められました。天皇中心の律令国家の象徴として日本独自の「年号」を公式文書で使うことになり、唐に対する日本の独立(朝貢はするものの臣下にはならない)を保持しました。

「中央官制」によって官僚統治システムを完成させ、中央だけではなく地方にまで天皇による統治が届きやすくなりました。

太上天皇は大宝律令で新設された地位

皇室ニュースにて現在話題となっているのが、「譲位後の天皇陛下をどのような地位とするのか」です。
その第一候補「太上天皇」とは、この「大宝律令」にて登場した日本独特の制度でした。
そして初めて太上天皇となった人物が持統天皇で、彼女のために新設された地位だけあり太上天皇の権力は天皇に匹敵し、共同統治すら可能になるものでした。しかし時代が降るにつれ、世相に沿って太上天皇の権力も様々な形がとられ、天皇が崩御する寸前に譲位して上皇(太上天皇)になり死に至るケースなど、権力と関係ない継承もなされたことで、59代もの太上天皇が記録されています。現在は皇室典範の改正が検討されており、60代目の太上天皇が生まれるかもしれません。

天皇集権と律令国家を結ぶ礎、それが大宝律令

ルールを新設し、それを万民に納得させて従わせるためには、運営する側にルールを穴なく行使できるほど深く柔軟な学識を持つものが多数存在し、誠実に執り行うスタッフがそれ以上にたくさん必要です。そしてそのルールに異論を唱えることが憚られるほどの人望と権力を持つボスが、長く安定して支配していなければなりません。 その全てが揃った瞬間に「大宝律令」は施行されました。

古代日本が先進国に憧れつつもその全てをコピーするのではなく、国民の実情に即した独自性を保ったシステムを編み上げ、日本の繁栄の礎を作るために天皇自ら知恵を絞っていたことを忘れずにいたいものです。

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