世界史遊牧民のカリスマ族長チンギスハンになぜ周辺国は勝てなかった?

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モンゴル帝国誕生前夜、アジア内陸部の気候に異変が

悠久の時を刻む中国大陸は、はるか太古の私たち日本人にとって憧れの先進国であり、海によってユーラシア大陸から隔てられた島国においては、まだ見ぬイスラム帝国や、その向こうにある西欧諸国から鮮度の高い異国文化を伝えてくれる、尊敬すべき国家でした。

日々過酷な生存競争を繰り広げている現代日本のビジネスマンにとって、時代を超えて興味を向けられている中国皇帝といえば、やはりモンゴル帝国初代皇帝チンギスハンではないでしょうか。

日本人によく似た風貌の肖像画が残る彼は、モンゴル高原に住まう小さな遊牧民のせがれが、自分の才覚ひとつで多種多様な民族を武力によって支配下に置き、はるかヨーロッパのロシアやハンガリーまで恐怖に陥れる史上最大規模の帝国を築き上げることができたという歴史的事実を残すことで、アジアに住む人々を勇気付ける存在となっています。

モンゴル高原にあまた存在した遊牧民の中で、なぜチンギスハンのみがそれほどの力を得ることができたのでしょう?

当時の遊牧民たちは、彼らの祖先たちが長いこと暮らしてきた比較的のどかな草原暮らしの恩恵をこうむることが徐々に困難になっていました。

地球の温暖化に差し掛かった11世紀前後には、モンゴル高原北部では降雨量が増加していたようです。

草木にとってありがたい気候は遊牧民にも良い影響を及ぼし、家族も家畜も増加して恵まれた草原生活を送っていたのですが、13世紀前後には一転して寒冷現象に襲われました。そのため、遊牧民たちは家畜を太らせ家族を養うために、それまで自分の暮らしていたモンゴル高原北部から少しずつ南下をし、狭くなる一方の肥沃な領土を同族で争ったり、他国を強引に征服したりすることに積極的にならざるを得ない情勢となりました。

武力に秀でていなければ滅ぼされるしかなかったモンゴル高原の遊牧民の時代に、テムジン(ジンギスハン)は生を受けたのです。

部族の命を守れ!カリスマ族長チンギスハン誕生

当時の遊牧民には歴史を文字に残すという文化が備わっていなかったため、チンギスハンの出生からモンゴル高原にて頭角を現してくる時代の記録は、他国の記録や伝承、そしてモンゴル帝国につたわる口伝を後世に筆記した『元朝秘史』など、諸説あることが前提となっているようです。

出生年も多説あるチンギスハンですが、幼少時に父は敵対するタタール族に毒殺され、稼ぎ頭を失った一家は一族から見捨てられるように惨めな生活を送っていました。

しかし、実力主義が根本にある遊牧民社会では、身内も異民族も関係なく自分に敵対する者は根こそぎ討伐するチンギスハンの勇猛さと実力、苛烈な統率力は評判を呼び、やがて彼の下につく部族が増えてきました。

「最近勢いのいいテムジンの下についた方が得だぞ」という評判が高まれば、かつての敵は今日の味方とばかりに、チンギスハン側に寝返る部族は加速度的に増加し、いくつかの決戦を経て1206年ごろまでに、メルキト、ウイグル、ケレイト、タタルを平らげ、モンゴル高原統一を成し遂げたのです。

モンゴル高原統一後、支配者となったテムジンは「チンギスハン」を名乗るようになりました。

大モンゴル帝国の帝王となったものの、遊牧民の長としての役目は変わりません。

家族と家畜を養う領土を果てしなく拡大し続けることが、彼の命題です。

東の国境を接する西夏や金に攻め入り、順調に領土拡大を進行していた最中に、チンギスハンは病に倒れ、そのまま死亡しました。

チンギスハンの墓はどこだ?歴史の彼方に消えた墓標

チンギスハンは、自分の死が周辺敵対国に知られないよう「死を隠せ」という遺言したと伝えられています。その遺言をモンゴル帝国は徹底的に守り、チンギスハンの墓の場所を歴史の彼方に秘しました。

記録の残っていないその場所は、現代においてもモンゴルの民によって神聖視されており、外国の発掘チームによる調査は嫌われています。

2004年に日本の調査団がモンゴル高原のアウラガ遺跡を「どうやらここがチンギスハンの霊廟らしい」と特定まではしたのですが、やはりモンゴルの人々の感情に配慮し、発掘は行っていません。

各国の調査団が次々にチンギスハンの墓の特定を進めているものの、未だ確実な発掘をするまでには至らず、2015年にモンゴル族発祥の地かつチンギスハンの墓所とされている「ブルカン・カルドゥン」が世界遺産に登録され、チンギスハンを偲ぶ場所となっています。

戦うほどに戦上手になるモンゴル兵団の恐ろしさ

二度にわたる「元寇」にて、モンゴル兵の強さと装備の違いをまざまざと見せつけられた記録が、日本には国民的記憶として生々しく残っています。

鎌倉武士が長弓のみで防衛した一方、攻め手のモンゴル兵は馬の上から速射できる短弓に加え、防壁を貫く弩と音と光で無力化する「てつはう」など、シーンによって使い分けることが可能な軍備でやってきました。

モンゴル兵団の強さの秘密は、常に多国籍軍であり、各民族の持つ優れた軍事システムを取り入れ、必要とされる戦地に兵団ごと派遣し、効率的な戦術を選ぶ傾向を持つことにあります。

さらにチンギスハンはカリスマ性と冷酷非情さを兼ね備えたリーダーでしたので、兵士の怠惰を許さず、規律と忠誠を骨の芯まで叩き込み、働きが悪かったり脱走する兵のいる兵団は連帯責任を取らされ、全員処刑されることもあったそうです。

俊足の馬を卓越した乗馬技術で操り、中国人軍略家やイスラムの数学者やヨーロッパの技術者などで俊英軍事顧問団を編成し、精鋭が集うモンゴル兵団に必勝の策と軍備を与えるチンギスハンの恐ろしさは、史上最大の領地の基盤を一代で築き上げたモンゴル帝国初代皇帝になるべくしてなった、と認めるを得ません。

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