落語

エピソードも豊富!二代目桂枝雀さんってどんな人?

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独自の落語理論を説き、多くの人を爆笑の渦へと巻き込んでいった二代目枝雀さん。
実際に、当時は「爆笑王」の名でも親しまれていたようです。そんな枝雀さんですが、重度のうつ病との闘病生活の末、1999年に自宅で自殺を図り、そのまま帰らぬ人となったことは周囲の落語家たちのみならず、日本中を驚かせました。
今回は、そんな二代目枝雀さんについてさまざまなエピソードを厳選して紹介していきたいと思います。

落語家としては当初インテリ方向だった?

当初「十代目桂小米」として、桂米朝さんに弟子入りしていたという枝雀さん。
実は「二代目桂枝雀」を襲名する前は、その後の「爆笑王」の名をほしいままにするような芸風ではなかったと言われています。と言いますのも、弟子入りした後は噺の内容を掘り下げた、インテリを匂わす芸風であったという枝雀さん。そのせいもあってか、客層は笑う人と笑わない人に二極化していたと言います。また、声が小さかった時もあったようで、師匠である桂米朝さんに注意されることもしばしばあったとか。そんな枝雀さんの芸風をがらりと変えることになったのは、皮肉にもうつ病の発症が要因であったと言われています。

枝雀さんが重いうつ病を患っていることが判明したのは、1973年のことだったそうです。
当時日吉川良子さんと結婚し、長男も誕生していた枝雀さんは落語に専念したいという思いから家にこもりきりでネタを練っていたそうです。その日もいつも通り良子さんが演芸場まで枝雀さんを送ろうと、タクシーを降りたとき、枝雀さんは「演芸場に行きたくない」としゃがみこんでしまったとか。
そこで病院で診察を受けたところ、重度のうつ病を発症していたことが発覚。治療のために病院を転々とすることとなりますが、どこも処方箋を出すだけで、なかなか快方には向かわなかったとか。
しかしある病院で、「必要なのは薬ではなく休息。不安になったらいつでも来てください」と言われたことで、快方へを向かうこととなった枝雀さん。実は家では、高座で見せる明るい性格と打って変わって陰気で寡黙であったという枝雀さんですが、家でも常に明るくいようと決意したそうです。
そこには、ずっと笑いの仮面をかぶり続ければ、いつかその仮面が自分の顔になるという枝雀さんの思いがあったと言われています。その後「二代目桂枝雀」を襲名してからは、オーバーリアクションを交えて爆笑を誘うような、枝雀さんに代表される芸風へと様変わりしていくこととなりました。

独自の理論と落語への姿勢

二代目桂枝雀さんは落語に関して独自の理論を掲げていたことも有名ですね。
これは「緊張と緩和」というもので、緊張を緩和することで笑いが生まれるという、笑いを理論的にとらえたものでした。また、噺において笑いがどこで生まれるかを研究し、オチに関して4つの方に分類したほか、物事2つの表現でとらえる二極分類を提唱していたそうです。

一方で、自身の持ちネタを60個に限定し、これらを磨き上げ高座で披露していたという枝雀さん。実は、枝雀さんが自殺を図った時、枝雀さんの元には遺書の類ではなく、自身が復帰後の独演会で披露するはずだったのであろう60のネタが順に記された紙が置いてあったそうです。最後の最後まで芸を磨き上げ、落語へ捧げた枝雀さんの人生を象徴しているかのように思えますね。

師匠・桂米朝さんの思い

大学を中退し桂米朝さんの元へ弟子入りした二代目桂枝雀さん。彼は一番の内弟子として、米朝さんのもとで芸を磨いていったと言われています。枝雀さんにとっても、米朝さんにとってもお互いがかけがえのない存在であったことは間違いないのではないでしょうか。

米朝さんは、銀行員でも教員でも務まると言われていたことからも、しっかりとして穏やかな性格であったことが窺えます。実際に、稽古が厳しいことでも有名でしたが、その反面破門者を一人も出さなかったようです。そんな米朝さんは枝雀さんと同じタイプの落語家、というわけではありませんでした。しかし自由奔放であった枝雀さんを熱心に指導できたのは、米朝さんのほかにはいなかったのかもしれませんね。

また、米朝さんは、枝雀さん亡き後、以下のようなコメントを残しています。

「枝雀がいなくなって、私は荷物が重くなった。ぼつぼつ楽しようと、仕事の半分ぐらいを任せかけていた時だったのに。もう私なんか、ムチ打ってもあきまへんわな。なのに、そうもいかなくなってしまいました。」

この前にも、枝雀さんが自分よりも上に行くと思っていたことを明かしている米朝さん。進化を遂げ、高い評価も得ていた枝雀さんの死は米朝さんにとっても耐え難いものであったことが窺えます。また、米朝さんは自身の著作である「桂米朝 私の履歴書」において、枝雀さんの死について「死ぬよりほかなかったのかと今は思う」と述べています。2015年にはこの世を去っている米朝さん、枝雀さんの死は心に大きな爪痕を残した出来事であったことは間違いないと思われます。

ほかにもいろいろなエピソードが!

二代目桂枝雀さんにはほかにもいろいろなエピソードが残されているようです。
もしかしたら、現代で活躍されている落語家さんたちの心の奥にも、桂枝雀さんとの思い出が宝物のようにし舞われているかもしれませんね。ぜひ参考にしてください。

「西の枝雀」とも称された桂枝雀さんの波乱万丈な人生に迫る

二代目桂枝雀さんという落語家をご存知でしょうか?
同世代の噺家たちからは三代目古今亭志ん朝さん共に「東の志ん朝 西の枝雀」と称されていたほど、上方落語の実力者として評価されていた桂枝雀さん。
いまでも彼の噺は高評価を得ており、生前は「爆笑王」の名もほしいままにしていたようです。しかし、1999年4月にこの世を去るまでは、闘病生活を含め波乱万丈な人生を送っていたことが窺い知れます。

桂米朝さんを師に

二代目桂枝雀さんは本名を前田達(まえだとおる)さん、1939年に神戸市灘区で生を受けています。ブリキ工を営んでいた父のもとで成長したそうですが、その後疎開や移住を経験し、小学校に入学するころは兵庫県伊丹市で暮らしていたと言われています。しかし父の不幸により家計が苦しくなったことで、中学卒業後は定時制の学校に通いながら働いていたそうです。当初進学を希望していたころからも、枝雀さんはかなり学問に優れていたそうです。実際に高校ヘは首席で入学していますし、特に英語には精通していたそうで、専門書などを読めるほど優秀であったと言われています。

このころからラジオ番組にリスナーとして弟さんと出演していたという枝雀さん「素人お笑いトーナメント荒らし」と言われるほど、兄弟ともにお笑いのセンスが高かったようです。その後神戸大学へ入学するも、1年で中退したという枝雀さん。中退後は三代目桂米朝さんの元へ弟子入りを果たします。1962年には千日劇場で「十代目桂小米」として初舞台を踏むこととなり、名実ともに落語家としての途を歩んでいくこととなりました。

1973年には大阪道頓堀にて名跡「桂枝雀」の二代目を襲名すると、今までのインテリな落語から一点、オーバーリアクションを交えた爆笑を誘う落語へと芸風を大きく方向転換していきます。以前は笑う人と笑わない人とで客層が分かれていたとされていますが、ここからすべての人を笑わせる「爆笑王」の落語としてみるみる頭角を現していったのです。その後評判はうなぎのぼりとなっていく枝雀さんは、1983年に「芸術選奨新人賞」を獲得、さらに1984年には東京歌舞伎座で初めての独演会を開催すると、会場は満員御礼となったそうです。

それからというもの、枝雀さんが出演する寄席は常に満席を誇っていたと言われています。また、俳優としてもいくつか映画に出演を果たしていますが、枝雀さんは一貫して落語家としての活動にこだわり、バラエティ番組などへの出演はあまり多くはありませんでした。

うつ病との闘い

一見落語家として、いわば大成功の途を進んでいるかのように見える二代目桂枝雀さん。しかし彼の人生を語るにあたって闘病生活については欠かせないほど、重いうつ病が枝雀さんを大きく蝕んでいたようです。

枝雀さんが最初にうつ病を発症したのは「二代目桂枝雀」を襲名する前、十代目桂小米として活動していた時だったそうです。当時枝雀さんは日吉川良子さんと結婚しており、長男も授かっていたとか。このころ落語に専念するために家にこもってネタ作りに励んでいたという枝雀さんですが、1973年のとある日に良子さんが枝雀さんと共にタクシーから降りようとしたら、「演芸場に行くのが怖い」と言ってしゃがみ込んでしまったそうです。その後病院に行くと「重いうつ病」と診断され、食事もとらずにお風呂にも入らず、家にこもりっきりになったとか。しかしとある病院で、必要なのは薬ではなく休息だと言われたことをきっかけに、快方に向かっていったという枝雀さん。その後再び高座に立つこととなりました。

突然すぎるお別れ

ひとまずは終息を迎えたかのように見えたうつ病でしたが、1997年には再発。一時は回復の途を辿ったそうですが、1999年に自宅で首を吊り自殺を図っていたところが発見されます。すぐに病院へと搬送されますが、その約一か月後、満59歳にて帰らぬ人となりました。

うつ病がトリガーとなったことは示唆されていますが、遺書やそういった関連の発言は一切なかったそうです。その代わりと言っては変かもしれませんが、枝雀さんの元には自身の復帰以後に予定していた公演で披露するはずだったと思われるネタを書いた一枚の紙が残されていたそうです。そこには、1日3つのネタを、20日間連続で独奏会で披露するための計60個にも及ぶネタが順番に書かれていたとか。一説では、復帰後の独奏会へ向けて自信が追い込みをしていたことも自殺の要因となったかもしれないことも示唆されています。

いまだ空席の「桂枝雀」

落語界の名跡「桂枝雀」の席は、二代目亡き後いまだ空席となっています。
しかし現在、枝雀さんの長男である桂りょうばさんが独り立ちしたこともあり、今後が期待されていることもうかがえます。
弟子入りから1年で独り立ちしたのは史上最速であると言われており、この背景には枝雀さんのもとで幼い時から落語に慣れ親しんできたことも考慮されているとか。
偉大な父をもつりょうばさんの今後にも期待したいですね。

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