落語

脱サラして落語家になった!?立川志の輔ってどんな人?

2017-06-19

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テレビやラジオなどにも多く出演している落語家の立川志の輔さん。
NHK総合で放映されている「ためしてガッテン!」では長きにわたって司会者も務めており、高い評価も得ているようです。そんな立川志の輔さんは、実は落語家になる前にサラリーマンとして企業に勤めていたという、落語家の中でも異例の経歴をもっているとか。
そこで今回は、立川志の輔さんについてその経歴や活躍の一部を詳しく紹介していきたいと思います。

広告代理店でサラリーマンを務めていた

立川志の輔さんは本名を「竹内照雄(たけうちてるお)」さんと言い、1954年に富山県で生を受けたそうです。幼い時に両親が離婚し、さらに母親が逝去されたことで、祖父母の家で伯父夫婦家族と共に暮らし育てられたという志の輔さん。この時、落語好きだった祖父の影響で、テレビで五代目柳家小さんを観たことが落語との出会いだったと言われています。

その後地元富山県の高校を卒業し明治大学に入学すると、志の輔さんは落語研究会に入ることになります。しかしこの頃、現在俳優として活躍されている三宅裕司さんの影響で劇団にも興味を持ち、大学卒業後にはアルバイトをしながら劇団員として活動していたこともあったか。しかし徐々にアルバイト中心の生活へとシフトチェンジしていった際、偶然新宿ゴールデン街で飲んでいた時に広告代理店の関係者に誘われ、入社することになったそうです。

入社後は営業や現場で経験を積んだという志の輔さん。この時志の輔さんがディレクターとして制作した仏壇店のCMは、石川県でおよそ30年近くも放送されていたと言われています。しかし28歳の時、志の輔さんは迷った末に広告代理店を退社することになります。この時、安定した職についていながらも落語家としての夢を忘れることができずに、葛藤の末ひとつの「区切り」として退社を決意したという志の輔さん。その後は大学の同級生であり、落語研究会でも交流があった立川談之助さんに相談し、29歳の時に七代目立川談志さんのもとに入門を果たすこととなります。

立川流の落語家として

「立川志の輔」という前座名で落語家としての人生をスタートさせたはいいものの、実は前座として寄席に立つことは無かったという志の輔さん。これには師匠である七代目立川談志さんが深く関係しています。と言いますのも、志の輔さんが談志さんの弟子となってから早3か月後、談志さんはそれまで所属していた落語協会を脱退しているのです。これにより前座として高座に立つこともなく、寄席の仕事も一回も体験しなかったという志の輔さんを談志さんは「立川流の最高傑作」と呼んでいたとか。実際に、寄席を経験しない弟子にもかかわらず、その後人気を博し大成功を収めている志の輔さんを談志さんは高く評価していたようです。

その後1984年には二つ目へ、1990年には真打へと昇進した立川志の輔さん。従来の慣習とは違い、前座名でもある「立川志の輔」を真打になってからも使用しています。一方で志の輔さんは、二つ目になってからは「志の輔」の名を冠した落語会も開催するようになり、さらに真打になってからは独演会も精力的に開催しています。例えば1996年からは渋谷PARCO劇場にて「志の輔らくごinパルコ」を毎年開催しており、毎年1カ月の興行を続けているそうです。さらに古典芸能のひとつである能や狂言とコラボレーションした落語も披露するなど、新しい取り組みにも努めていることが見て取れます。

タレントとしても活躍中

立川志の輔さんと言えば、冒頭でもちらっと紹介したNHK総合番組「ためしてガッテン!」の司会者というイメージを抱いている人は多いのではないでしょうか。そんな志の輔さんがテレビ番組にも多く出演するようになったきっかけは、1985年に放映されていたTBSテレビ番組「朝のホットライン」だったようです。この時レポーターとして出演していた志の輔さんですが、ここを封切りにいろいろなテレビ局からオファーが来るようになったと言われています。

また、2004年に開催された「志の輔らくごinパルコ」において、志の輔さんが新作落語として披露した「歓喜の歌」は、2008年に映画化も果たしています。劇中にはなんと志の輔さんも落語家役で少し出演もしていたとか。さらに同年には、「歓喜の歌」は北海道テレビの開局40周年記念としてテレビドラマ化され、その後全国区でも放映されたそうです。ちなみに2004年に「歓喜の歌」が初演されたときは、噺が終わると高座の後ろ幕が開き、ママさんコーラスグループが姿を現し「歓喜の歌」を合唱したとか。さらにそこで燕尾服姿の志の輔さんが指揮者の真似をし、観客を沸かせたそうです。

タレントとしても活躍中!落語家・立川志の輔の魅力に迫る

師匠である七代目立川談志さんからも、落語において高い評価を得ていたという立川志の輔さん。
現在は、落語家としてだけでなく、タレントとしても活躍し知名度も高い志の輔さんですが、実は脱サラを経て落語家としての道を進むことにしたという異色の経歴の持ち主でもあります。
今回は、そんな立川志の輔さんについて、今までの経歴や周囲の方々との関わりを含め、現在の活躍振りやその魅力などを紹介していきたいと思います。

広告代理店を退職し落語家へ

立川志の輔さんは現在の富山県射水市出身の落語家で、本名を竹内照雄(たけうちてるお)さんと言います。幼い時に両親が離婚し、さらにお母さまが亡くなられたため、祖父母と伯父夫婦家族とともに暮らしていたそうです。ちなみに志の輔さんのおじいさまが落語好きだったらしく、テレビで五代目柳家小さんを見たのが志の輔さんにとっての落語とのファーストコンタクトであったとか。

明治大学に入学し大学生になると落語研究会に所属し、伝統ある「紫紺亭志い朝」という名跡の5代目を襲名したという志の輔さん。しかし大学卒業後は同大学の先輩である、現俳優である三宅裕司さんの影響を受け、劇団に所属しながら串カツ屋でのアルバイト生活で生計を立てていたそうです。一方、ある日串カツ屋でのアルバイト後によく行っていたという新宿ゴールデン街の飲み屋で、とある広告代理店の関係者に誘われたことをきっかけに広告代理店へ入社することになった志の輔さん。ある程度業務をこなしていったそうですが、どうしても落語家になりたいという思いを捨てきれなかったことで退社することにしたそうです。

その後は明治大学在学中に落語研究会で一緒であった立川談之助さんに相談し、立川談志さんの元へ弟子入りを果たします。ちなみに志の輔さんは落語研究会に在籍中は三代目古今亭志ん朝さんへの造詣が深かったらしいのですが、七代目立川談志さんが独自にアレンジした「芝浜」という高座を目にしてからは、談志さんのもとで弟子入りしたいという思いが強くなっていったそうです。

そして1983年に七代目立川談志さんの元へと入門を果たし、今に至るまで親しまれている「立川志の輔」という名を名乗ることとなります。続く1984年には二つ目に昇進した志の輔さん、実は「立川志の輔」というのは前座名だったのですが、志の輔さんは1990年に真打へと昇進した後もこの名を名乗り続けています。

「立川流の最高傑作」と称されている立川志の輔

立川志の輔さんのお師匠様である立川談志さんは、今に至るまで多くのファンに愛され続けているテレビ番組「笑点」の生みの親でもあり、偉大な落語家でもあったと言われています。一方で、その偏屈さと荒唐無稽な性格から、好き嫌いが分かれる落語家でもあったようです。

一方で、立川談志さんは、独自の落語の流派である「落語立川流」を立ち上げたことでも注目の的となったのではないでしょうか。
そんな落語立川流の「最高傑作」と称されるほど、談志さんから高い評価を得ていた落語家が、立川志の輔さんです。そもそも談志さんは志の輔さんが一門に入門してから早三か月後に、自身が所属していた落語協会を脱退しています。これは落語協会の真打昇進制度を巡って、当時落語協会の会長を務めていた柳家小さんと対立したことがきっかけとなったと言われています。
一方で、この脱退は志の輔さんが寄席の定席における前座修行の直前に起こったため、志の輔さんは前座という立場において寄席で高座に立つということを1回も経験しなかったとか。そんな志の輔さんを、寄席を経験していない弟子の1号として立川流の実験台という立ち位置に置き、実際に志の輔さんが成功を収めたことで談志さんは志の輔さんに高い評価を寄せたと言われています。

春風亭昇太さんとは仲良し?

立川志の輔さんは新作落語を数多く作り出し、上演していることでも知られています。また、2003年からは毎年1回、地元富山県の県民館において「越中座」という名で、富山県出身の芸能人と共に寄席形式での公演を行っている志の輔さん。こちらの公演では、富山の方言で、さらには英語で落語に挑戦する志の輔さんの姿が見られたそうです。

また、プライベートでは、現在「笑点」の司会を務めている春風亭昇太さんと仲が良いという志の輔さん。同時期に落語界へと足を踏み入れたという縁もあってか、一緒に国内外旅行へ行く仲でもあるそうです。ちなみにサザンオールスターズの桑田佳祐さんは落語を趣味にしていることもあって、志の輔さんが開催している「志の輔らくご」という公演へもたびたび足を運んでいるとか。さらに志の輔さんはデビュー当時からサザンのファンだったそうで、サザンの音楽を自身の公演の終演時に流したこともあったそうです。

立川志の輔さんの寄席に行こう!

いかがでしたか?
立川志の輔さんは独演会なども定期的に行っており、特に渋谷パルコでの「志の輔らくごinパルコ」は現在恒例行事にもなっています。
ぜひ一度志の輔さんの高座を間近でご覧になってみてください。

生きている限り新作落語を作りたい「立川流の傑作」立川志の輔 

『ためしてガッテン!』やコマーシャルなど、テレビでの活躍も目覚ましい立川志の輔さん。
全国で数多くの独演会をこなし、どれも満員御礼となる、チケットの取りにくい落語家の一人です。師匠の談志さんが「立川流の傑作」と評した、人気も実力もピカイチの志の輔さんの魅力に迫ってみます。

生い立ちと少年時代

志の輔さんは、本名を竹内 照雄(たけうち てるお)といい、1954年2月13日富山県新湊市(現:射水市)に生まれました。
幼いころに両親が離婚し、5歳のころ母親が亡くなったため、母方の祖父母と伯父夫婦に育てられました。伯父夫婦は実の子のように接してくれ、祖父は志の輔さんを「わしの可愛い照雄ちゃん」と呼んで可愛がってくれました。

志の輔さんの祖父はとても面白い人でした。志の輔さんが子供のころ、祖父は変な替え歌を作って志の輔さんと合唱したり、突然死んだマネをして倒れこみ、志の輔さんがどんな顔をするのか試してみたりと、エピソードに事欠かない人です。志の輔さんはそんな祖父が大好きで、小学校6年生まで膝に乗って甘えていたそうです。

志の輔さんは小学生の頃、近所のお店を順番に手伝いに回るような子供でした。学校が終わると、今日は八百屋、次は肉屋など順番に回り、お客さんに10円のお釣りを「はい10万円」と言って渡して笑いを取るなど、ほのぼのとした会話が大好きな明るい少年でした。

落研そして劇団

祖父は落語好きでしたが、志の輔さんは大学生になるまで落語にはまったく興味がありませんでした。
しかし、気づかないうちに影響を受けていたのか、明治大学に入学するとたまたま聴いた落研の公演に感激し、落語研究会に入部。2年先輩の三宅裕司さんから同落研で伝統ある高座名「紫紺亭志い朝」を引き継ぎ、五代目として活動します。

大学卒業後は劇団「シェイクスピア・シアター」や劇団「昴」の養成所に通いながら、アルバイト生活をします。そして、バイト終了後によく飲みに行った、新宿ゴールデン街で広告代理店関係者と知り合い、広告代理店に就職しました。仕事は順調にこなしたものの、落語への思いが忘れられずに退職します。

大学時代から三代目古今亭志ん朝師匠を尊敬していましたが、国立演芸場で聴いた立川談志師匠の『芝浜』に衝撃を受け入門を決意します。
1983年1月、29歳のとき立川談志師匠の門を叩き正式に入門、志の輔となります。

しかし、同年談志師匠が落語協会を脱退したため、寄席に出る機会がなくなり、志の輔さんは寄席での前座修業を一度も経験したことがありません。

1984年10月、二つ目に昇進。名前も志の輔のまま落語を続けます。出演できる寄席がないため、上野本牧亭で「勝手に志の輔の会」など、名前を冠した勉強会を自ら開きます。
やがて1985年『朝のホットライン』(TBSテレビ)でレポーターに抜擢されたのをきっかけに、人気タレントになっていきます。
そして1990年5月、入門から7年で真打に昇進します。

芸風と得意ネタ

落語は師匠から口伝で教わるものですが、教わったままを演れば良いかというとそうでもありません。
例えば『道灌』『たらちね』『狸』などは、教わったものをそのままコピーしてやっても受けます。それは、リズムや口調が完成されていて、誰がやっても笑えるようにできているからです。
しかし談志師匠の『天災』を志の輔さんがそのままコピーしてやっても、さっぱり受けないそうです。これは、談志師匠が自分のリズム、口調、間で完成させたもので、他の人がどう真似をしても笑いがとれないのです。

この経験を志の輔さんは後にこんな風に語っています。
「ああ落語って、稽古して、同じ話をより巧くやるってだけのものじゃないんだなって。 人間とは、とか、人生とは、とかいう普遍的な事柄について根底にある己の思想を、笑いを交えて、人に感動と伴に伝えるのが落語家なんだという事、それを談志の落語で初めて知った。」
<ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像>立川志の輔×野際陽子

そうした経験から、志の輔さんは「志の輔らくご」といわれる、独自のリズム、口調、間で演じる工夫や創作あふれる落語を目指すようになっていったのです。

しかし、その過程には苦労と試行錯誤がありました。
二つ目の時代、自分で下北沢の劇場を見つけてきて勉強会をやったとき、お客ゼロの日もありました。スタッフから「準備は結構です。今日はお客さんいませんから」と言われて、そそくさと一人で飲みに行ったりしたそうです。

またあるときは、お客さんが3人で「みなさん落語ききたいですか?」と聞くとみんな黙って下を向いてしまいました。これでは落語は無理と思い、スタッフにお燗機能付きのコップ酒を買ってきてもらい、お客さんに配って飲んでもらいながら話をしたこともあるそうです。

そんな試行錯誤を志の輔さんは「落語の敷居を低くすることをやってきた」といいます。つまり落語を一人でも多くの人に楽しんでもらうための工夫を、知らず知らずのうちに積み重ねてきたということなのです。

そんな苦労が実り、今では1カ月間ぶっ通しの興行「志の輔らくご」はチケット発売と同時に売り切れ、1万人を動員するほどになりました。
志の輔さんは他の落語家とのつながりがなかったため、コピーライターやディレクターなどと付き合いができ、ブレーンになってもらったことが、結果的に演劇的要素の入った「志の輔らくご」を生み出したと語っています。

そんな志の輔さんの芸風を文珍さんは「あんたの芸、困りの芸やなあ。あんたの困りおもろいわ。やっぱり談志師匠のそばにおったからやなぁ。あんた、ずっと困ってたやろ」と評したそうです。

その困りの芸も常に進化を続けています。志の輔さんは創作落語について、インタビューでこう語っています。

「創作落語は本人が一人で考えて、ちっちゃーい座布団ひとつで、セットも何もない。それでいてお客様の頭の中にでっかーいものを生み出せる。創作落語は流行りモノだとか『現象』を扱うから、状況設定が難しい。でも、新作を作るの好きなんです。生きてる限り、作り続けたいね」
36p 『玄人ですもの−室井滋のオシゴト探検−』室井滋著(中央公論社、2013年)

こうして自らの世界を確立した志の輔さんの実力を、師匠の談志さんも認めて2人が対談をしたときに、色紙に「志の輔 立川流の傑作也」としたため、渡したそうです。談志師匠が英才教育で育て、見事に一人前になったということで、誇りに思ったからでしょう。

創作落語で成功した志の輔さんですが、古典落語にも強い意欲を持っています。特に師匠談志が完成させたネタに挑戦したいと意気込みを語っています。

「私もあと何百回高座をできるか判らないが、できれば近いうちに、談志がこしらえて完成させてしまった噺、他の人じゃできないだろうと思われてる落語を1つでも何か挑戦してやれたらいいなあと思っている。」
<ザ・インタビュー〜トップランナーの肖像>立川志の輔×野際陽子
志の輔さんの歩みをまとめてみましたが、「ガッテンしていただけましたでしょうか?」
志の輔さんは一人でも多くの人に落語を楽しんでもらうべく、また師匠談志さんに少しでも近づくべく、今日も挑戦を続けています。志の輔さんのさらなる活躍を応援したいですね。

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