日本画

歌川広重「東海道五十三次」それぞれの宿場の昔と今

2018-11-15

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江戸時代に整備された五街道のうちのひとつである東海道。東京から京都までの間には53の宿場があり、歌川広重がその風景画を描いた「東海道五十三次」は非常に有名です。今回は「東海道五十三次」のそれぞれの宿場の昔と今について紹介します。

東海道五十三次 小田原 酒匂川

東海道五十三次の起点を東京都千代田区の日本橋とすると、小田原は9番目の宿場になります。

この浮世絵では大きな川の対岸に小田原城と箱根連山がそびえ、人夫がそこを目指し、駕籠に乗せた旅人の川渡しをしています。
旅人を対岸に渡す方法も、広重の浮世絵では舟ではなく、駕籠なのですよね。
同じ駕籠でも渡し賃によって待遇が違うのがわかります。
この大きな川は酒匂川(さかわがわ)と言い、その川沿いにある栢山(かやま)という集落は、あの有名な二宮尊徳(幼名・金次郎)の故郷であることが知られています。

急峻な箱根連山と酒匂川に挟まれている小田原城は日本一の堅城として知られ、北条早雲から始まる後北条氏が5代に渡り、秀吉に滅ぼされるまで治めた城として有名でした。

やがて徳川の時代となり、小田原藩として譜代の家臣が封ぜられた後も、小田原は箱根越えを控える旅人達のために宿場が整えられたそうです。

現代でも小田原は神奈川県西部の重要都市として、小田原城や、小田原藩に仕えた二宮尊徳を祀った神社などがあり、近隣には箱根温泉や芦ノ湖など、見どころ満載な一大観光都市となっているのです。

東海道五十三次 浜松 冬枯ノ図

歌川広重の浮世絵では「浜松」の表記が「濱松」となっています。

東海道五十三次では29番目の宿場にあたるこの地は、実距離にして江戸と京のちょうど中間点に位置する宿場でした。
浮世絵では一本松の先に浜松城が見え、さらにその奥には浜名湖らしき青色が見えます。
「冬枯ノ図」と題しているように、浜松宿に入る前の、一本松の下で旅人達が焚き火で暖を取る姿が印象的です。

浜松城はかつて「曳馬(ひくま)城」と呼ばれ、今川方の城でした。

今川義元が織田信長により桶狭間で討たれ、今川氏が急速に弱体化すると、信長の盟友である徳川家康が曳馬城を奪い、岡崎城から本拠を遷して名前を浜松に改めました。

家康がこの城から名を上げたように、浜松城の城主を務めたものには出世した人物が多かったため、「出世城」として多くの幕臣達の憧れの城となりました。

現在の浜松は、政令指定都市となっており、人口は約79万人と、静岡県の県庁所在地である静岡市の人口約69万人よりも多く、静岡県最大の都市として栄えています。

当時の様子を「自宅でも目にしたい」、広重の情緒あふれる浮世絵を「身近に置きたい」と思う方もたくさんいることと思います。

しかし、五十五図を一枚一枚揃えるのはたいへんなことです。
そのような方のために、「歌川広重 東海道五十三次 五十五図 完全コレクション」の販売がされています。

ぜひあなたの部屋で楽しんでみてはいかがでしょうか。





東海道五十三次 桑名 七里渡口

東海道五十三次のなかでも特殊なのがこの桑名です。

副題に「七里渡口(しちりのわたしぐち)」とあるように、浮世絵では舟で町に入っていく様子が描かれています。

この絵のままに、東海道は熱田神宮のある41番目の宿場「宮」にて一旦陸路が途切れていました。

木曽川と長良川と揖斐川(いびがわ)からなる木曽三川によって宮のある尾張国と伊勢国の入り口である桑名は分断されており、最短距離を行くなら舟を使うしかなかったのです。
宮宿と、42番目の宿場である桑名宿を結ぶこの海路がちょうど七里あることから「七里の渡し」と呼ばれていたのです。
浮世絵のなかで海に突出している城は桑名城と呼ばれていました。
桑名城は水城であり、城のなかに港があったのです。
川と海によって物理的に遮断されたこの地は、西国から江戸に進軍された場合の盾となる役目を担っていたため、本多忠勝を始め、徳川家中で最も信頼に値する家臣が代々封ぜられてきました。

また、伊勢国には伊勢神宮があることから、参拝客も東海道を使う場合は桑名を経由しなければならず、この桑名宿は、東海道に数ある宿場のなかでとなりに位置する宮宿の次に大きな規模を誇っていたのです。

現在の桑名市は三重県の最東部に位置し、インフラ技術が発達したことと、木曽三川を挟んで名古屋市が近いことから、名古屋市のベッドタウンとなっています。

海上交通はすたれてしまいましたが、七里の渡し跡や、桑名城のあった九華公園など、伊勢神宮のある伊勢市に劣らぬ観光都市として今も発展しているのです。

東海道五十三次の浮世絵はどこにあるのだろう?

歌川広重の東海道五十三次シリーズは実は各地で展示してあります。
なぜならこの浮世絵は歌川広重が彫った木版画から刷られたものであるからです。
インターネットを使い「歌川広重 東海道五十三次 展示」で検索すると全国各地で展覧会が行われておりますので、ぜひ近くの美術館に足を運んでみてください。

東海道五十三次シリーズは見ていて飽きませんし、かなうことなら手元に置いておきたいですが、実際こんな有名な作品を手に入れることなどできるはずがありません。
できることと言えば、その都度展示会に足を運んで楽しむか、写真で満足することくらいでしょう。

ですが、そのような浮世絵を入手することができるのです。

実際に浮世絵を入手する方法

それがこの「歌川広重 東海道五十三次 五十五図 完全コレクション」です。
この作品は江戸時代に摺られたといわれる版画を写真に撮り、現代のデジタル技術を加えて復活させた浮世絵です。
広重が生きていた時代の古き良き趣きは残しつつ、完全再現されたコレクションは美術館に展示してある作品と比べても遜色ありません。

浮世絵を飾る額縁も付いてくるのでその日の気分に合わせて浮世絵を着せ替えることもできます。
起点である日本橋と終点である京の三条大橋を加えた五十五図の中からきっとピッタリな一枚が見つかることでしょう。

今日はどの絵を飾りますか?




東海道五十三次を歌川広重の絵から旅する

「伏見」

東京と京都を結ぶ東海道は、昔から人々の交通に欠かせないものでした。この道のりの中に存在する宿駅を「東海道五十三次」と呼ばれていることは、多くの人が知っているのではないでしょうか。

「東海道」を題材にした絵や書物は、葛飾北斎を始め多く作家により手がけられ、人々の人気を集めました。その中で特に人気を集めた人物が歌川広重です。ここでは、歌川広重が描く「東海道五十三次」から見える景色とその人気の理由について詳しくご紹介していきます。

歌川広重が見せる東海道五十三次の魅力

「草津」

歌川広重は、幕府が京都の朝廷に馬を献上する(八朔御馬進献)際の行列にお供をした経験から「東海道五十三次」を描いたという説が有名でしたが、近年の研究でその頃には子供に家職を譲っていたので、広重自身がお供することはなかったことがわかっています。

その証拠に広重の「草津」「大津」「京都」の挿絵は、「東海道名所図会」を忠実に写していることでもわかるようです。これは、広重が、見たこともない景色を想像で描くのでなく正しい情報を旅する人に届けたいという思いの現れではないかと言われています。

歌川広重の旅人に対する思いやりやユーモアが見える「東海道五十三次」が今なお有名なことは、このような広重自身の工夫や演出が細かく表現されていることにあるようです。ここから、広重の東海道五十三次の演出と景色の見どころへ進めていきます。

歌川広重が見せる川の魅力を旅する

「両国の花火」

「両国の花火」(東京都墨田区両国1丁目)は、1733年徳川吉宗が前年に起きた飢饉などから、両国橋で死者の慰霊と悪霊退散を祈って始めた水神祭がはじまりです。両国橋の画面手前の上流が「玉屋」下流が「鍵屋」で、両家は橋を境にして競い合ったことでも知られています。

提灯を5つ飾っているのが屋台舟で舟先に行灯を置いているのが飲食物を売っている舟になります。両国橋に人々がうっすら描かれる演出と花火を強調するために白抜きで明るさを表現する演出がされているのが特徴です。

「水道橋」

「水道橋」(東京都千代田区三崎町)は、右下に架かる水道橋から手前に巨大な鯉のぼりが描かれていることが特徴です。右奥だけに描かれた鯉のぼりが、だんだん小さく描かれていくところに遠近法があります。

眼下に広がる武家屋敷の男児が健やかに元気に育つよう願いを込めた端午の節句の習慣が、吹き流しや鍾馗幟(しょうきのぼり)に象徴され、その奥に富士山がそびえたつ風情は見応えがある絵として有名です。

歌川広重の遠近法から東海道五十三次の景色を味わう

「平塚」

「平塚」(神奈川県平塚市)は、視点を低い位置からとらえられているのが特徴です。田んぼ道が蛇行している先にある丸い山は、神奈川県の平塚市と大磯町に誇る高麗山で、山裾を淡くぼかして田んぼ道がどこまでも続いているかのような演出がされています。

高麗山の隣に見える角ばった山が山岳信仰の対象とされている大山です。高麗山と大山の間から見える白い雪山が富士山です。この絵の描き方から広重は谷文晁の山水画に触発されて描いた可能性があると言われています。

松の木がだんだん小さく描かれていくことで遠近法を出しています。この絵のもうひとつのおもしろさは、お客が捕まらず、駕籠の棒を引き抜いて傘をぶら下げ歩く男達の反対側からは、平塚の宿へ向かう飛脚の姿が描かれているところにあります。

口を結んだ上半身裸姿の男が松の木の後ろを威勢よく通るところに動感を表しているようです。わざと松の木で体全部を見せないようにすることで余韻がでる演出がされているそうです。

「御油」

「御油」(愛知県豊川市)は、視線が奥へ奥へと導かれるような遠近法を用いて描かれています。街道の両端には、宿泊宿が軒を並べ中央の女性が旅人をつかまえ、近くにある赤坂宿まで行かないようにしているところです。

荷物を引っ張られ苦しそうにする男性ともう一人の男性の手をつかむ女性の姿がおもしろく、その様子を見ている女性の口元に笑みがこぼれているのがわかります。対象的に右手の宿泊宿では、老婆がたらい湯を持ってきて、男性が今足を洗おうとしている様子が見えます。

まったく路上の男女に関心がない老婆と男性の横で退屈そうにしている女性に現実味が湧いてくるようです。

「箱根」

「箱根」(神奈川県足柄下郡箱根町)は、東海道の中で一番の難所と言われた場所です。急な傾斜を強調するために西へ向かって下りてくる大名行列の姿が描かれています。芦ノ湖周辺を低い山が連なり、ずっと奥の遠景をたどっていくと富士山が見えて来るのがわかります。

この絵の演出で印象に残るのが山間の色分けです。現実では見られないような青色、緑色、茶色、墨色と様々な色の山があります。この演出は、中国の山水画の山の塗り分け方法で、中国では山水画は心の理想郷として描かれていました。

広重はこの中国の山水画をヒントに箱根の山を現実離れしたものにして山を強調する演出をとったのではないかと言われています。いずれにせよ広重は中国の山水画に強い関心を持っていたのは間違えないようです。

歌川広重は道案内のためだけに「東海道五十三次」を描いたのではなく、見る人が東海道を疑似体験できるように描いたのだと言われています。

ここに、今も歌川広重の「東海道五十三次」が親しまれている理由があるようです。昔の景色と今の景色を重ねて東海道の世界を想像して楽しんでみてはいかがでしょうか。

歌川広重の景観をそこなわない表現技法が光る

「日本橋」

「豊国にかほ 国芳むしや 広重めいしょ」と、嘉永6年(1848年)に刊行された「江戸寿那古細撰記」に記されています。歌川豊国は役者絵、歌川国芳は武者絵、歌川広重名所絵の第一人者であることを示している文で当時からこの3人が人気絵師であったことがわかります。

そこで、名所絵で有名な歌川広重の絵の表現技法など今なお色褪せない魅力について詳しくご紹介していきます。

歌川広重が描く風景画は最高傑作と名高い

「阿波鳴門之風景」

歌川広重といえば「東海道五十三次」のイメージを持つ人が多いと思います。ところが、広重はその他にも多くの風景画を描いていて、特に最高傑作と言われている作品が『雪月花三部作』です。

「武陽金沢八勝夜景」

『雪月花三部作』は、「阿波鳴門之風景」「武陽金沢八勝夜景」「木曽路之山川」の大判3枚続きのことを表しています。「阿波鳴門之風景」では、鳴門の渦潮があちこちで起こっている様子が美しく描かれ、「武陽金沢八勝夜景」では、金沢八景の名所地に月の光が照らし出され静かな美しさが漂っている様子が見えてきます。

「木曽路之山川」

「木曽路之山川」は、雪が険しい山々をすっぽりと白く覆ってしまっています。静かな空気の流れまで感じさせる広重の画力が優れた作品です。広重は、その時代のニーズにあったユーモアセンスや風景を正確にとらえることができたことから、「風景画の名手」と言われています。

「武相名所手鑑」平木浮世絵美術館蔵

広重自身「自分の描く風景は、北斎よりはよほど写生を重視した」と言っていたそうで、その言葉通り「武相名所手鑑」は、嘉永6年5月から6月頃広重が箱根遊山の時スケッチした「武相名所旅絵日記」を元に描かれた優れた作品です。

この絵には名所に詳しくない人でもわかるような配慮が施されていて、スケッチで描き出した絵からモチーフの省略や構図の修正などを行って仕上げているそうです。見た景色を写生のまま描くような芸のないことはしないという強い意思と広重の高い技術力をうかがうことが出来ます。

歌川広重はライバル葛飾北斎の絵を意識している

名所江戸百景・市中繁栄七夕祭」歌川広重

広重は、北斎と自分はちがうということをアピールしていましたが、実は広重の初期の絵は北斎の絵の影響を強く受けていることがわかります。広重の「名所江戸百景・市中繁栄七夕祭」とよく似た作品が北斎の「冨嶽百景・七夕の不二」です。

「冨嶽百景・七夕の不二」葛飾北斎

余談ですが、七夕は、アルタイル(牽牛)とベガ(織姫)の伝説で有名です。実は、ここから生まれた伝説に中国の風習の乞巧奠(きっこうでん)というものがあります。乞巧奠の「乞巧」には、芸能などの技術の向上を願う意味があり、「奠」には、神仏に食べ物を供える意味があるようです。この乞巧奠が奈良時代に日本に伝わってきたそうで、中国では7月7日に神饌を供え、日本では古来の風習の棚機(たなばた)と同一視されるようになり、七夕に子供の裁縫や書道などの上達の願いを込めたとされています。広重の絵にも季節の行事絵が多く描かれている特徴があり、風習を大事にしていたことがわかります。

北斎には、場面の前に大きなものを置き、その向こう側の物を描いていく「近像拡大大型構図」という描き方を得意としていたそうです。広重もこの描き方と同じような構図で絵をいくつか描いています。

「冨嶽三十六景・登戸浦」葛飾北斎

「富士三十六景・相模江ノ島入り口」歌川広重

そのひとつがわかる絵に、北斎の「冨嶽三十六景・登戸浦」と広重の「富士三十六景・相模江ノ島入り口」です。この2枚の絵からも「近像拡大大型構図」の技法が見えてきます。広重は「富士三十六景・相模江ノ島入り口」を実景とは異なる江ノ島の鳥居と富士山を組み合わせて描いています。ここに広重の絵のおもしろさが出てきているようです。

広重が北斎の絵を真似ることは、決して悪いことではなく当時から優れているものを積極的に受け継いでいくべきという考えが根付いていた現れでもあります。例えば日本橋を描く時は、江戸城と富士山を一緒にするという「おきまり」が引き継がれています。

名所江戸百景・日本橋雪晴」歌川広重

これは、明和4年(1767年)河村岷雪の「百富士」が初めと言われていて、それ以後は、北斎や広重の他にも多くの絵師が日本橋を描く際、この「おきまり」が守られるようになったそうです。

これを「見立て」といい、古(いにしえ)の優れたものを知って新しいものを作っていくという日本文化のひとつのようです。広重が北斎の絵を真似ている点でも伝承と尊敬の気持ちの表れだったのかもしれません。

歌川広重だから描ける美しい風景画

「富士三十六景・武蔵小金井」

1653年幕府が江戸の水不足を解消する目的で、江戸西方の山の麓の多摩川から江戸までの水路を作る計画をし、同年末か翌年に完成したとされています。この絵が描かれたのは、幕末でその頃には桜が老木となり多数枯れてしまっていたそうです。

「富士三十六景・甲斐大月の原」

その老木の間から見える富士山の描写に広重ならではの画力が見えてきます。同じく富士山と自然が美しい作品に「富士三十六景・甲斐大月の原」があります。現在の山梨県大月市大月町甲州道中の宿場だそうです。

「富士三十六景・御茶の水」

江戸から富士山に行く分かれ道で花が咲き乱れた田舎景色が広がっていたようです。萩の花が咲き、秋の景色を象徴していることがわかります。「富士三十六景・御茶の水」は、神田明神付近の湯島の上空から神田川を見て描いている絵になります。

手前に見える橋が神田上水の掛樋(かけひ)といい、用水が川を横切ったり谷をまたいだりする場合に架ける橋です。奥に見える橋が水道橋になります。当時は、神田川の御茶の水に掛樋と吉祥寺橋と呼ばれて橋が架けられていたそうです。

吉祥寺橋は「吉祥寺」というお寺が近くにあったことからその名前で呼ばれていたようですが、明暦3年(1657年)に寺が焼かれてしまい、現在は駒込に移転しています。掛樋が描かれている絵は数が少なく広重の「富士三十六景・御茶の水」は、歴史資料としての価値も高いようです。ぜひ、広重の風景画から見える江戸の景色を体感してみて下さい。

まだまだ続く歌川広重の絵から旅する東海道五十三次

「東海道五十三次」歌川広重

東海道五十三次の絵といえば歌川広重が頭に浮かぶ人も多いのではないでしょうか。浮世絵の中でも歌川広重の東海道五十三次シリーズは大ヒットしました。その魅力の理由は、広重の描く東海道にはさまざまな物語が隠され、そこに謎解きのようなおもしろさが加わっているからです。ここでは、歌川広重の絵から見える物語と東海道五十三次についてご紹介していきます。

東海道五十三次 大磯

「大磯」保永堂版

高麗山南麓の道を西南に向かうと、化粧坂(けわいざか)を通過し大磯宿へと向かいます。大磯から国府津にかけて海岸(小余綾磯)があったそうです。この地を題材にした句も多く残されています。

例えば、万葉集「相模路の余呂伎(よろぎ)の浜のまさごなす児(こ)らは愛しく(かなしく)思はるるかも」です。「相模の余綾(よろぎ)の浜の砂のように、あの娘のことが限りなく愛おしく思われる」という意味です。

古今集には「こゆるぎのお磯たちならし磯菜つむめざしぬらす沖にをれ波」とうたわれ、意味は「小余綾の磯で一生懸命に磯菜を摘むあの娘の髪を濡らすな、お気に居ろ波」になります。

西行法師がこの地を訪れ「心なき身にもあはらは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮れ」と秋の夕暮れのものかなしさを詠んでいます。また、小礒には、地蔵堂がありそこから物語が伝えられています。

「小磯の町外れに小橋という所があり、その右側には地蔵堂がありました。この地蔵は夜ごと人に化けて、このあたりに行き交う人を悩ませていました。ある時、紀州のなんとかという人がここを通ると美しい女性に化けて出てきたといいます。恐ろしさのあまり一刀の下に抜打ちでその女性を殺してしまいます。

後で立ち寄ってみれば、石地蔵の首が打ち落とされていました」そこから首切地蔵の名前が残っているそうです。 この大磯には歌舞伎で有名な「曽我物語」の題材にもなっています。この物語には、大磯の妓虎御前(ぎとらごぜん)という実在の遊女の話に関わりがあります。

日本三大仇討ち事件が「曽我物語」です。1193年5月28日源頼朝が多くの御家人を集め富士の裾野で巻狩(従夷大将軍の権威を誇示するためや軍事演習の目的で行う)の最中に敵打ち事件が起こります。

曽我十郎祐成、五郎時到兄弟が父親の敵、工藤祐経を討とうとしますが、自らも富士の裾野で消えてしまうという有名な話。ここに大磯に関係するもう一つの物語があります。1175年平塚の山下屋敷の長者夫婦は、子供に恵まれなかったので虎池弁財天にお願いしにいきます。すると、枕元に石が置かれていて、女児を授かることが出来ました。

その女の子は「虎」と名付けられ、その美しさから大磯宿の遊女の長「菊鶴」にもらいうけられ街道一の遊女として有名になっていきます。曽我十郎がその虎に恋をし、通いつめるようになると、二人はいつしか恋仲に。ところが、曽我十郎は、帰らぬ人になってしまいました。

虎と出会ってわずか3年の出来事でした。虎は討ち入り事件を事前に聞き、関与していたのではないかと疑いをかけられ尋問を受ける日々が続き、苦しい時を過ごします。

その後、虎は64歳で亡くなるまで、たった3年しか一緒にいれなかった曽我十郎を愛し続け、その生涯を鎮魂に捧げたそうです。「太山寺本」には、「昔も今もかかる優しき(けなげな)女あらじ」と記され後世に伝えられています。

歌川広重の保永堂版の題に「虎ケ雨」とあるのは、この大磯の虎の涙が降らした雨とかけているのではと言われています。

東海道五十三次 沼津

「沼津」保永堂版

沼津には、史跡が多くさまざまな物語がある場所です。中でも「平家物語」の六代御前の話が東海道五十三次の「沼津」によく取り上げられます。当時の人々が「平家物語」に関心が深かったこともありますが、東海道名所記や道中案内には図入りでこの物語が紹介されることが多かったということもあるようです。

平家の滅亡後、平家残党の取り調べも厳しく小松の三位中将平維盛(たいらのこれもり)の息子六代御前も源頼朝の家来である北条時政によって捕らえられ、鎌倉へ護送される途中の千本松原で処刑されるところでした。

その時、頼朝の助命の教書をもった文覚上人(もんがくしょうにん)が馬で到着し、命乞いをしてくれたため、ぎりぎりのところで赦免となったのですが、その後、文覚上人の謀反(君主に背いて兵をおこす)により、一度は助かった六代御前も結局、12歳の若さで処刑されたという話が残されています。

保永堂版に描かれている黄瀬川(きせがわ)は、源頼朝と義経が対面した場所としても知られています。この絵に描かれた黄瀬川沿いを歩く巡礼の親子と猿田彦の面を背負った金毘羅(こんぴら)参りの光景が目に入ります。夕暮れの哀歓を漂う中で疲れ切った巡礼途中の親子を描くところが広重一流の感傷表現と言われています。

また、水や空など全体的に青く暗い印象の中で月は白く大きいという特徴があります。そこに猿田彦のお面が異様に赤くインパクトを与えている傑作と言われた作品です。

「沼津」隷書東海道

隷書東海道では、海上から松原をとらえ、左はるか遠くの富士山が雄大に描かれています。松林の中にある城は、文明年中(1469〜1487年)今川氏が創立したと言われていますが、その後、時代とともにたびたび城主が変わり、一時は廃墟になったこともあったようです。

「沼津富士山」

安永6年(1777年)水野忠友が幕命によってこの城を「沼津城」別名「観潮城」として復興させました。しかし、度重なる戦火にあい現在は城郭がなくなり「大手町」という地名だけ残されています。

沼須の海は遠浅で、潮の干満が激しいことでも知られていて、歌川広重の隷書東海道には、その様子がわかるように描かれています。歌川廣重の絵に隠された物語を想像しながらぜひ、東海道五十三次を旅してみて下さい。

東海道五十三次で知られる歌川広重はこの作品で浮世絵の流れを変えた

「日本郵便切手」

切手の絵でも馴染みがある歌川広重の東海道五十三次は、いまでも様々な場所で見ることが出来る最も有名な絵です。多くの作家や絵師たちが東海道五十三次を題材にした作品を手がけていますが、東海道五十三次=歌川広重とイメージつく人が多いようです。広重のみせる東海道五十三次の魅力を詳しくご紹介していきます。

東海道五十三次を知る

「東海道五十三次」

東海道五十三次とは、上方と江戸を結ぶ文化交流や、政治や経済に主要な役割を果たすため、徳川家康が東海道筋の諸国に命じて橋をかけさせました。東海道の駅を五十三次駅と定めたことから始まり、庶民の旅の憧れる場所へとなっていきます。東海道五十三次を巡り、たくさんの紀行文、物語、絵など芸術的な題材へと広がっていきます。

1658年に浅井了が「東海道名所記」を出したことをかわきりに、浮世絵師菱川師宣の「東海道分間絵図」が出版され、参勤交代などの旅の必需品として使われました。このような案内図、地図的な役割を果たす名所記から十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が出版され、爆発的な大ヒットとなります。

「東海道中膝栗毛」に影響を受けた葛飾北斎は、弥次郎兵衛と喜多八を思わせるような人物描写中心の「東海道五十三次」のシリーズ次々に刊行していきます。一方、北斎よりかなり年下の歌川広重は、風景描写中心の「東海道五十三次」を刊行します。すると、広重の「東海道五十三次」が大ヒットとなりました。

現在でも広く親しまれている広重の絵もまた十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の影響を受けていることが分かる弥次郎兵衛や喜多八がでてくる場面があります。ここから、広重の「東海道五十三次」について進めていきます。

歌川広重の東海道五十三次にも「東海道中膝栗毛」の弥次郎兵衛と喜多八が登場する

「鞠子」

十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の中に、弥次郎兵衛と喜多八がとろろ汁屋に立ち寄ると、とろろ汁屋の親父と女房が派手な喧嘩をしているワンシーンがあります。「裏口より小言を言いながら来るは女房と見え、髪はおどろのやうに振りかぶりたるが、背中に乳飲み子をおおひ、藁(わら)草履(ぞうり)ひきずり来り」という「東海道中膝栗毛」の中の一説の言葉通り、広重の「鞠子」保永堂版にも同じ描写があります。
松尾芭蕉

「鞠子」行書東海道では、弥次郎兵衛と喜多八がとろろ汁を食べているシーンが描かれています。とろろ汁屋は、江戸時代には軒を並べるほどたくさんあったそうです。そして、松尾芭蕉もこの静岡市駿河区(丸子)で「梅若菜まり子の宿のとろろ汁」と一句詠んでいます。
「戸塚」保永堂版

米屋で馬から降りようとする場面と馬に乗ろうとする場面が保永堂版で残されています。戸塚の柏尾川付近から鎌倉への分かれ道があり、その道標になる石には「左かまくら道」と描かれているのがわかります。橋は、柏尾川に架かる吉田橋で通称「大橋」と呼ばれていたそうです。

「戸塚」隷書東海道では、松並木が印象的な絵となっています。この松並木は、江戸幕府が道路を整備した際に作らせたそうです。この松には、「旅人従来の助にも相成事故」と旅人にとって松並木が旅のなぐさめになるように緑が心を楽しくするようにという思いがあったようです。一方で、戦の時に備えた防衛的な役割も含んでいたのではないかと言われています。

歌川広重の東海道五十三次名作

保永堂版 「三島」

三島は、箱根越えをする旅人、越えて来た旅人にとってもっとも重要な宿駅として賑わっていました。広重は三島大社を右方から描き、鳥居前を朝露につつまれて過ぎていく駕籠(かご)と馬の上に乗った旅人を描いています。

顔の見えない乗客に対し駕籠もちは表情豊かで面白く描かれている一方で、霧でかすんだ鳥居、離れた場所を歩く旅人の姿がかすんでいる表現は旅の情景がすぐに見て取れるようになっています。また、鳥居、人家、遠くにいる旅人は、線を用いておらずぼかしの濃淡で奥行きを表現しています。広重の「東海道五十三次保永堂版」の中でも傑作と言われている絵です。

今日の三島大社の鳥居側に立つ石灯籠は、鳥居より後方にあります。明治以降に道路交通の関係上今の位置になったのか、広重の見ていた時の石灯籠が前方にあったのか、広重の作風の思考だったのかは定かではないようです。
風景画の第一人者で幕末の人気浮世絵師が歌川広重と言われています。広重は、最初歌川豊国に弟子入りを申込んだのですが、人数が多かったため断られ歌川豊広に弟子入りし「歌川広重」の名前をもらいました。

最初は、美人画、役者絵、武者絵などを描いていたようですが、風景画に目を向けるようになると、またたく間に有名風景絵師となっていきます。これまでの浮世絵の流れを変えた人物としても有名で、今なお「東海道五十三次」といえば歌川広重の絵が取り上げられています。

名所を巡る旅をする際、広重の絵と現在の場所を探す楽しみ方をする人も多いようです。ぜひ、参考にしてみて下さい。

東海道五十三次の絵と現代に続く道のり

歌川広重

東海道五十三次の道のりを歌川広重の絵でたどってみると現代の景色に過去の景色が合わさり時代の流れを感じることができます。ここでは、歌川広重の東海道五十三次の絵のおもしろさとともに現代の景色をご紹介していきます。

東海道五十三次 品川

「東海度五十三次 品川」

現代の品川の風景です。中世では品川は「品川港」として栄え、交通の上でも重要な場所でした。慶長6年(1601年)東海道に「伝馬制」がおかれます。伝馬制とは、使者や物資を馬で運ぶ制度のことです。

「品川」保永堂版

品川は、東海道五十三次の最初の宿場として大変賑やかな場所だったことがわかります。「品川」保永堂版では、右手に八ツ山、青楼、料亭を挟んで遠くに海が描かれています。海上のはるか東の空は日の出で、朝焼け雲の流れが鮮やかに美しく描かれ、空と海と陸が三分されている特徴的な絵になります。

品川には、変わり図がいくつかありますが、この保永堂版では街道を行く大名行列の最後尾が通り過ぎようとしているところが描かれ、道ばたで土下座をして控える旅人や駕籠(かご)が大名行列の通り過ぎるのを今か今かと待っている様子が見えてきます。

「品川」諸候出立

茶屋の前では女達の媚びるような仕草が描かれていて、この絵のおもしろさが伝わってきます。「諸候出立」は、後刷りで作られ大名行列の数がはるかに増え、図の左端までつづくほど長くなります。

「品川」隷書東海道 

「品川」行書東海道

保永堂版では、斜めからの構図で描かれているのですが、隷書東海道、行書東海道では海岸の茶店の前に海景色が広がるというわかりやすい構図になります。茶屋で休む男女の旅人と宿場風景の情感が漂っていると言われています。

東海道五十三次 川崎

「東海道五十三次 川崎」

川崎は、11世紀頃秩父から移住してきた河崎冠者基家が「荘園」を開いたことからこの地名となったと言われています。昔、日本の農地はすべて朝廷が持ち土地と人はすべて朝廷のものとし、農民には口分田を貸し与えるという決まりがありました。

「荘園」とは、奈良時代に朝廷が律令制下で農地増加を図るため、有力者に土地の私有を認めるというものです。それから川崎は、集落が発展していき元和9年(1623年)東海道の宿場として認められるようになりました。

「川崎」保永堂版

多摩川の下流東海道を渡し船でつないでいる場所が六郷川と呼ばれていたそうです。保永堂版では、行書東海道や隷書東海道に比べ富士山が遠方に見え、渡船の人物の着物、土坡(どは)の色が鮮やかになります。

かつてはこの場所に橋が架けられていたそうですが、度重なる洪水で流失してしまったようです。貞享5年(1688年)から船渡となり、六郷川の渡船権が認められ公用の人馬や武家以外は一般の馬匹の渡賃で収益をあげていたといいます。

この渡船の場所より上流に矢口の渡という所があり、正平13年(1358年)新田義貞(にったよしさだ)の子の義興(よしおき)が鎌倉に攻め入ろうとして不覚の討死をとげました。この話を脚色したのが江戸浄瑠璃で有名な「神霊矢口渡」です。

明和7年(1770年)には歌舞伎で初演されたこともあり、川崎は歌舞伎に縁が深い場所になっています。広重の「川崎」後版では、いかだとその上の人物、富士山の輪郭線が消去され、渡し守りの棹をあやつる姿も変わっていきます。

東海道五十三次 神奈川

「神奈川 鶴見神社」

慶長6年(1601年)徳川家康が伝馬制を制定する前から神奈川には伝馬役を務めていたという記録が残されていることから「神奈川」の成立は随分早かったことがわかります。また、古くから神奈川県宿場の途中の鶴見橋近くで売られていたのが名物「よねまんじゅう」でした。

「東海道五十三次 神奈川」

この界隈で「よねまんじゅう」を売る店は40軒もあったといいます。その中でも鶴屋と亀屋が有名で「六郷渡りて川崎の万年屋、鶴と亀とのよねまんじゅう…」と駅路唄がうたわれているほどだそうです。

昔は、ゆるい丘陵地帯で台の街には茶屋料亭が軒をならべ、街路の真下まで海が入り込んでいたといいます。当時は、繁盛した場所だったようですが黒船がついて様子が変わったそうです。

広重の保永堂版では、斜め路上から仰ぎ見るような構図で描かれています。海上近くの大きな舟から右側に小さい船が連なり、その奥に見える半島が「本牧岬(本牧の鼻)」です。

また、この絵から旅人の足を止めさせようとする茶店の女が手を引いている様子が見えてきます。この場面が、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」と似ていることから、読者の親しみを存分に誘ったのではと言われています。

「神奈川」行書東海道

隷書東海道では、さらに後方真上から茶屋の様子を描いているので、視界が広がって見えてきます。さらに、行書東海道はこの台の街を過ぎたところから描くという構図になります。異版には、大船の前の小舟が消されて描かれるなど変化していくのも広重の描く「神奈川」の特徴のようです。

まだまだ東海道五十三次には、歌川広重の絵とともにおもしろい場所がいくつもあります。ぜひ、東海道五十三次の絵から昔と今を比べてみて下さい。

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