日本画

葛飾北斎 同一人物が描いたとは思えないほどの幅広い画風を持つ男

2017-06-21

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「富嶽三十六景・甲州石班沢」

葛飾北斎と言えば富士をイメージする人や美人画のイメージを持つ人とわかれるのではないでしょうか。北斎は役者絵、美人画、相撲絵、小説本の挿絵など様々なジャンルの絵を完璧に仕上げる絵師でした。

その画力は、90代になっても衰えることなく、むしろ絵の進化がますます進んでいるのがわかります。ここでは、そんな北斎の力強い絵とあまり知られていない美しい絵について詳しくご紹介していきます。

葛飾北斎 名前、画風、住まいを何度も変えている

「初代中村仲蔵の景清」勝川春朗(北斎)

葛飾北斎は、18歳のときに勝川春章に弟子入りをします。北斎が春章からもらった名前が「春朗」で、34歳までこの名前で役者絵などを描いていました。

「夜鷹図」北斎宗理 細見美術館蔵

春章が亡くなってからは、勝川派を離れて「宗理(そうり)」と名前を変えます。その後は、北極星を神格化した妙見信仰の信者だったことから、「北辰」を「北斎」と表し「北斎宗理」と名乗ります。

18世紀の中頃、江戸にも俵屋宗達尾形光琳の琳派が伝わっており、琳派の先駆けとなったのが俵屋宗里でした。北斎はこの俵屋宗里の号を継承したのですが、琳派の特徴とも言える本質を引き継いでいないことから両者の間に師弟関係はなかったそうです。

「柳の糸」北斎宗里 慶應義塾図書館蔵

なぜ、北斎が「宗里」の号を引き継いだかの経緯は、はっきりわかっていないようですが当時勢力があった勝川派を抜けた以上、浮世絵会から少し距離を置いた活動の場が必要だったからではないかと言われています。

しかし、38歳になった頃「宗理」の名前を弟子に譲ると今度は「北斎辰政」と名乗りだします。それからも名前を何度も変えていき「北斎」だけを残すようになります。

北斎は、名前を変えるだけではなく、画風も新しいものをどんどん取り入れていき常に良いと思うものを積極的に探求し、様々な技法で絵を完成させていきます。また、画風や名前が変わるだけではなく生涯にわたり93回転居をしたことでも有名です。

葛飾北斎は、探究心旺盛な絵師

「美人図」画狂人北斎 MOA美術館蔵

「美人図」は、緻密な描写表現に隙きがないと言われている絵です。狂歌絵本などの摺物が多く制作された時代で、滑稽本(町人の日常生活をおかしく書いた小説の類)「世界諸事 花の下物語」の中に『いい摺物だ。金で摺られてぴかぴかすらあ。画は誰だ。北斎。ああ豪勢なものだ』というセリフが載っていることからもこの当時、狂歌絵本の分野で喜多川歌麿と並ぶ代表的な絵師が北斎であったことがわかります。

北斎の活躍の場は、小説のような読本の挿絵にもありました。読本の挿絵によって売上が左右されたようで、版元(出版元)は当然売れる挿絵を描く絵師を選ぶようになります。北斎は、挿絵の第一人者であったことは間違えないようです。

「ゆめのうきはし」国立国会図書館蔵

北斎の描く挿絵は、南蘋派風(なんぴんは)の影響が強く出ているそうです。南蘋派とは、中国の画家の沈 南蘋(しん なんびん)が長崎に2年弱滞在し、写生的な花鳥画の技法を伝えたことから始まっています。

この沈 南蘋の名前から南蘋派と言われるようになり、北斎をはじめ円山応挙、伊藤若冲など江戸を代表する画家達に大きな影響を与えたことでも知られています。

「ゆめのうきはし」は、著者、楽々案桃英(らくらくあんとうえい)の読本で北斎が挿絵を描いています。漆黒の闇の中に版木掘りでぼかしを入れることで不気味さを漂わせているそうです。

亡霊に吸い寄せられているのは、悪事を働く女性のお丑です。お丑の体の動きに緊迫感が伝わってくるようだと言われています。北斎みずから「すべての画法の根本は、四角と円にある」と語っていたようです。

「阿蘭陀画鏡(おらんだえかがみ) 江戸八景」神戸市立博物館蔵

構図が巧みな絵師としても有名な北斎は、「三わり法」という遠近法を北斎漫画で解説しています。北斎の探究心は70歳を越えても衰えることなく、西洋画にも着目するようになります。江戸には、早くから舶来の銅版画、本の挿絵などが入ってきており、当時の西洋画の特徴でもある荏油(えのあぶら)を溶剤で溶かし少し濁りのある色調の画も学んでいたのではないかと言われています。荏油とは、エゴマの種から抽出した淡黄色の油でエゴマ油とも呼びます。

「くだんうしがふち」ほくさいゑがく

「阿蘭陀画鏡 江戸八景」は、銅版画の極めて細かい線表現を木版画で模倣している作品です。暗い茶色を用いて彩色し、刻線の密度を高くしていることから画面全体が暗くなっているようです。

「くだんうしがふち」をはじめ北斎の西洋画風の絵には、必ずひらがなの落款が残されていて、線描ではなく色面と陰影で立体感を出している特徴があるそうです。

「たかはしのふじ」葛飾北斎 房総浮世絵美術館蔵

「たかのふじ」も西洋風に描かれ、橋の下から富士を覗く表現がとられています。富士は、当時から富士信仰ブームがあり北斎も富士山の絵を多く残していることで知られています。

北斎が描く富士山には様々な表現法が見える

「富嶽三十六景・駿州江尻(すんしゅうえじり)」

富士信仰とは、1733年富士山七合五勺の烏帽子岩(えぼしいわ)に食行身禄(じきぎょうみろく)本名 伊藤伊兵衛63歳が、断食行を行い35日後に亡くなり即身仏となったことから始まるようです。

明治以降は、この行為は法律で禁止されています。当時、身禄の捨て身の行動に刺激された弟子たちが富士山に登るための富士講の信者を集めたことから、富士信仰ブームとなったようです。妙見信仰と富士信仰には重なる部分があると感じていた北斎は、富士山に大きな興味を抱いていたそうです。

「駿州江尻」は、静岡県江尻市、東海道の宿場名のひとつです。突風が吹く中の旅人たちの姿と頭巾姿の女性の懐から懐紙がこぼれ落ち上空へ舞い上がる光景が印象に残ります。突風に慌てる人々とは裏腹に富士山の悠然とした姿がおもしろい絵だと言われています。

「富嶽三十六景・常州牛堀(じょうしゅううししぼり)」

「常州牛堀」に描かれている場所は、現在の茨城県潮来市で霞ヶ浦(かすみがうら)の南端利根川に近い水郷だそうです。舟の上で日々を過ごす人たちが早朝に米とぎ汁を流しています。その音に二羽の鷺が眠りから覚め飛び立つ光景を描いているようです。

この絵の特徴は濃淡の藍だけでまとめることによって、明け方の静かで穏やかな雰囲気を漂わせていることです。北斎は、様々な絵を見事に表現しています。ぜひ、北斎の幅広い画力を味わってみて下さい。

絵を楽しんでいた北斎ならではの描写方法を見る

「酔余美人図」

葛飾北斎の名前をほとんどの人が知っていると思います。浮世絵師勝川春草に入門した頃から本格的な絵師として活躍していった北斎ですが、その絵の描写方法は独特でおもしろく、また迫力に満ちています。そこで、絵を楽しんでいたことがわかる北斎の独特な描写方法やエピソードを詳しくご紹介していきます。

気迫に満ちた北斎の絵

「鍾馗図(しょうきず)」葛飾北斎美術館蔵

「鍾馗図」は、中国の言い伝えで唐の玄宗皇帝が長い間病床にあった時、鍾馗が子鬼を退治するという夢を見て、その夢から覚めると皇帝の病気が癒えていたという話が元になって描かれているそうです。

日本で「鍾馗」は、学業成就や邪気を払うと言われていることから端午の節句ののぼりなどに描かれ、男子の無病息災を祈願するようになりました。鍾馗は、長い髭、中国の官人の衣装に剣、大きな眼で睨みつけるという姿が一般的です。

鍾馗を朱色で描く理由は、子供の病気で恐れられていた疱瘡に赤い色が効くと信じられていたことからきているようです。北斎も、朱色の鍾馗を数多く描いています。この「鍾馗図」は、その中でも春朗時代の作品として有名です。

北斎の計算された細やかな描写方法

「隅田川両岸一覧」国立歴史民族博物館蔵

「隅田川両岸一覧」は、隅田川を辿り新春から年の暮れへと月日の流れ季節や景観の移り変わりが見えてくるように描かれています。全部で21場面は、3冊の本で表現されその細やかな描写や計算された構図が随所に見られることから見事な狂歌絵本と言われています。

河川の流れに沿って景色や風景を連続して描くという構成は北斎の前からとられていた描写方法ではあったようですが、北斎の「隅田川両岸一覧」は、本の冊子のページをうまく利用して図様が鮮やかに転換するという視覚効果をねらって構成されているそうです。

「隅田川両岸一覧」国立歴史民族博物館蔵 大本3冊一部

また、従来の錦絵の名所絵では見られない名所や景観を新しい視点でとらえた斬新なものとして北斎の描写方法が当時注目されだします。この描写の流れは後の歌川国芳らの描く江戸名所絵に大きな影響を与えたとも言われています。

徳川家斉も驚いた北斎の発想とその信憑性

「鶏竹図」

11代将軍の徳川家斉は、北斎の評判を聞きその画力が見てみたいと鷹狩りの帰り道で滞在していた浅草の伝法院に当時人気の絵師、北斎、谷文晁(たにぶんちょう)らを招いて絵を描かせました。

1人目の谷文晁が絵を描き終わると次に北斎が花鳥山水を描いて人々を感心させます。しかし、北斎の余興はここからでした。北斎は、持参していた籠から鶏を出し鶏の足に朱色を塗り、藍を横に引いた長い唐紙の上を歩かせ「龍田川の風景にございます」と言って拝礼して退席します。

これには、周囲が拍手喝采をしたという北斎の大胆な行動や発想、サービス精神の現れとして語り継がれてきた話になっているのですが、実は、このパフォーマンス北斎の想像通りに行かなかったのではという説も残っています。「丁子屋と北斎」によると、生きたと鶏は思った所へ走らず事前に想定していた紙面に足跡は出来なかったとあるようです。

そこで北斎は、筆を使わず指や爪、徳利(とっくり)などの器、逆筆のいずれかの方法を用いて相手に失敗したように見せないパフォーマンスを付け加えて絵を完成させたと言われています。

このような描き方を北斎が得意としていたことからも後者の説のほうが有力視されていますが、その信憑性は謎のままです。いずれにせよ、北斎という人物が大胆でおもしろい発想の持ち主であったことは間違えないようです。

北斎のおもしろい絵

「踊独稽古」(登り夜船)葛飾北斎美術館蔵

北斎のおもしろい絵に「踊独稽古」があります。今で言うアニメーションの元祖といった感じです。踊りを覚えるための独習本で、北斎自ら編集と作画を手がけています。北斎の描く「北斎漫画」は、絵を学ぶためのノウハウなど今の時代の漫画本(コミック)ではなく絵手本といった内容になります。

「踊独稽古」(悪玉踊り)葛飾北斎美術館蔵

「踊独稽古」は、―で手や足の動きを表現し「ツン」「チリチリチン」と動きを説明しているところがわかりやすくおもしろい本です。

「三つわり法」浦上蒼穹堂蔵

北斎独自が取り入れている遠近法を表したのが「三つわり法」です。画面を三等分にして消失点を2つ設定するというところが北斎の我流が光る技のようです。実際に北斎が「たかはしのふじ」などの名所図で用いている描写方法になります。

このような「北斎漫画」は、絵画としても完成度が高いものが多く人気を集めていたようです。

北斎の描写の細かさが見る人を惹きつける

弘法大師修法図」西新井大師總持寺

北斎の見事な迫力と技が見える絵に「弘法大師修法図」があります。両目を見開き弘法大師に迫る鬼の形相が圧巻の迫力を感じさせます。右手に握られている鉄の棒に雲母(うんも)を使って光彩を与えることで、怪しく光りを放っているような演出が作られています。

また、左手に握りしめられた縄が生き物のような動きを見せている点でも悪鬼が強調された演出がなされているようです。弘法大師の傍らで尾を巻いて怯えながらも必死で吠えている犬がこの場の緊迫感を高める効果も発揮させています。

この絵で経典を手に一心不乱に弘法大師が悪鬼を降伏させようとしている姿があります。注目するところは、経典を握りしめる弘法大師の腕に血管が浮き上がっている点です。この描写で弘法大師からさらなる緊張感が伝わってきます。弘法大師の着物の描写も北斎独特の表現になります。
この絵は、北斎晩年の最大の絵の作品と言われており現在は掛幅に改装されているのですが、元は横に長い額であったそうです。

この絵は、西新井大師の寺歴から弘法大師が関東を巡って教えを広めているところで蔓延していた悪病が治っていったという伝えから、鬼は病魔を表します。「弘法大師修法図」は、西新井大師總持寺で例年10月の第1土曜日の「北斎会」で一般公開されているそうです。

北斎の絵から見えてくる物語を読む

「忠臣蔵討入」

「弘法大師修法図」のように北斎の絵の中にはひと目で物語が見えてくる演出がされています。歌舞伎などでも題材にされた「仮名手本忠臣蔵」は、当時から多くの人々に人気があり、北斎をはじめ浮世絵絵師の喜多川歌麿、歌川広重、国貞、国芳など次々に「忠臣蔵」を題材にした絵を発表していたようです。

北斎の「忠臣蔵討入」もそんな人気の中で描かれています。浪士に逃げる女性の姿など絵からすぐに物語が想像できます。注目するところは、画面左下の炭小屋で隠れていた吉良上野介(きらこうづけのすけ)を発見する場面の浪士に「いろは」とひらがなが書かれている点です。

討入の時には浪士ひとりひとりにいろは札をつけるという歌舞伎の演出があったことから北斎の絵でもいろはの札が描かれているそうです。
余談ですが、吉良上野介と北斎には繋がりがあると言われています。北斎の母方の曾祖父の小林平八郎は、吉良上野介の家老でした。北斎は、叔父の中島伊勢の養子になっていたのですが、この中島家の屋敷も吉良上野介邸の跡地の一画にあったようです。

叔父の中島伊勢は御鏡師であったことから、北斎もその後を継ぐことになっていたのですが、北斎は鏡作りをしなかったので代わりに御鏡師を子供に継がせたことで中島の養子から出たとされる説が有力視されています。

北斎が、吉良上野介の跡地の家に住んでいた時があるのかは定かではないようですが、北斎の初期(春朗時代)の作品として大判3枚続で描かれていることはとても珍しいことから北斎の力作であったことが想像できます。ぜひ、北斎の絵を楽しんでみて下さい。

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