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『鳥獣戯画』と高山寺 現代に生きる『鳥獣戯画』の魅力|日本画|趣味時間

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『鳥獣戯画』と高山寺 現代に生きる『鳥獣戯画』の魅力

鳥獣戯画」と聞くと何を思い浮かべますか?湯呑みや風呂敷などのグッズが多く販売されているのを見たことがあると言う人もいるのではないでしょうか。
アニメの原点が「鳥獣戯画」とも言われています。今でもそのキャラクターが販売され続けている「鳥獣戯画」の魅力とその「鳥獣戯画」を所蔵している高山寺について詳しくご紹介していきます。

「鳥獣戯画」と高山寺

「高山寺の紅葉

鳥獣戯画」の絵巻物甲巻、乙巻、丙巻、丁巻が所蔵されているのは、紅葉名所でも知られている京都の高山寺です。奈良時代、今の高山寺が合った場所には「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと呼ばれた寺院があったと言われていますが、はっきりしたことがわかっていないそうです。
「高山寺」

平安時代にはいると近隣の神護寺の別院として「神護寺十無尽院」と呼ばれていましたが、鎌倉時代にはいり、明恵上人が後鳥羽上皇からこの栂尾の地を下賜されて開山しました。高山寺の名称はその際に後鳥羽上皇から「日出先照高山之寺(日、出でて、まず高き山を照らす)」の名を賜り今の高台寺と改められたようです。

この「日、出でて、まず高き山を照らす」とは、『華厳経』の中の句で「朝日が昇り真っ先に照れされるのは高い山の頂上だ」という意味があります。高台寺は度重なる戦乱、火災にあい今は石水院のみになりました。

高山寺には、華厳経の教えに基づく実践の地として、貴重な聖教、典籍などが9000点以上残され「高山寺典籍文書類」として重要文化財に指定されています。

鳥獣戯画」も国宝として高山寺に残されていますが、「鳥獣戯画」甲巻、乙巻が制作されたのは、高山寺が再興されるずっと前ということになり、どのようなルーツで高山寺に所蔵されるようになったのかははっきりわかっていないようです。

一説には「鳥獣戯画」は、鳥羽上皇もしくは後白河上皇(この時代の芸術作品のパトロンとして活躍した権力者)の宝蔵にあり、それが西園寺家(西園寺公経は、藤原定家の義理弟で、明恵上人の教えを尊崇していた人物)から仁和寺を経由して高台寺へ移ったか西園寺家からそのまま高台寺へ移ったのではないかと言われています。

高台寺と「鳥獣戯画」との関係を知る手がかかりとして注目されているのが、永世16(1519)年の高山寺に収められている品々の修理受け取りの注文表「東経蔵本尊御道具請取注文之事」の中に

『一 上人ノ御絵 上中下以上三巻 箱一 二入
 一 義想元暁ノ絵取合テ六巻 箱一 二入り
 一シャレ絵三巻 箱一 二入り』

という記述が残されていたことです。この「シャレ絵」とは戯画の元とされる「鳴呼絵」や「戯れ絵」のことで「鳥獣戯画」のことを示しているのではないかと言われています。「鳴呼絵」、「戯れ絵」とは、即興的に描かれた風刺性のある絵のことです。
「平城京跡 長屋王邸出土 墨画土器」

  代表的な絵巻に「放屁合戦絵巻」(男女に分かれておならで対決する絵巻)「陽物比べ絵巻」(どちらも男女が性器を出す露骨な表現の絵)がこの「鳴呼絵」にあたります。「鳴呼絵」を「鳥獣戯画」の作者ではないかと言われている鳥羽増正(天台座主を務めた高僧、絵の達人)も描いていたと言われています。

また、「鳥獣戯画」でも見られる白描画(彩色していない絵)は奈良時代から人々に描かれていた系譜があり、平城京跡で長屋王邸出土 墨画土器には猿のスケッチが見つかっています。「鳥獣戯画」が描かれるまえにこのような絵が存在していることを示す資料にもなっているようです。
江戸時代の人々は「鳥獣戯画」の作者が鳥羽増正と思っていたこともあり伝統的な戯画をまとめて「鳥羽絵」とも呼んでいました。現在「鳥獣戯画」の各巻の紙継ぎのところに「高山寺」の朱門印が押してあります。

これは、抜け落ちたり、混ざってしまったりすることがないように押されているようです。高山寺に所蔵されるようになった背景には、この絵の作者が鳥羽増正を含めた僧侶であった可能性が高いのではないかと言われているからです。

現在に生きる『鳥獣戯画』の魅力に迫る

鳥獣戯画」には、下書きを思わせるような線が一切なく、筆の迷いもない絵が描かれています。「鳥獣戯画」を描いた人物はかなり絵が上手な絵仏師という可能性が高いようです。

鳥獣戯画」は、すべてが彩色のない白描画で描かれていてセリフもないことから見る人の想像をどんどん含ませる要素を持っています。
鳥獣戯画」絵巻物

つまり、見る人によって「鳥獣戯画」の解釈の仕方も自由で、楽しみ方も自由に出来るということです。絵巻物は、1枚の絵を見るのとは違い、巻物を開いていくごとに物語が続いていきそれは、いまのアニメのコマ送りに似ています。

物語の先読みをするような飛ばし読みが出来ない絵巻物を開いていけば、その世界に自分が入ってしまう錯覚が起こるかもしれません。「鳥獣戯画」には人の想像を掻き立てられるわかりやすさと奥深さを秘めているところにも魅力があるようです。
現在でも「鳥獣戯画」の携帯置きやコップ、食べ物などの関連グッズがたくさん販売されているほどです。「鳥獣戯画」を身近に感じて楽しんでみてはいかがでしょうか。

日本一謎だらけの国宝『鳥獣戯画』に迫る

鳥獣戯画」(国宝
国立博物館展示

日本には「鳥獣戯画」という国宝があることをご存知でしょうか?「鳥獣戯画」は、誰が何のために描いたのかよくわかっていない謎だらけの巻物です。ここでは、「鳥獣戯画」に描かれた動物、架空の生き物などその魅力と謎について詳しくご紹介していきます。

国宝「鳥獣戯画」とはどんなものか

鳥獣戯画」(一部)

鳥獣戯画」とは、擬人化された動物などが描かれた巻物で日本一謎だらけの国宝と言われています。何が「ミステリー」というと、いつ誰が何のために描いたのか多くの研究がされ続けているのですが、いまだ解明せれていないことのほうが多い巻物だからです。
鳥獣戯画」甲巻

鳥獣戯画」は、甲巻、乙巻、丙巻、丁巻の全4巻に分かれています。描いた人物も様々で年代も違うものと言われています。まず、甲巻には、擬人化された動物などが多く描かれていて、ユニークな面が見られることが特徴です。
鳥獣戯画」乙巻

乙巻には、擬人化されていない動物が多く描かれているのですが、その描写がとてもリアルです。乙巻後半部分になると麒麟、龍など架空の生き物が描かれていることがもうひとつ大きな特徴になります。この甲巻と乙巻は12世紀後半の平安時代に描かれたものだそうです。
鳥獣戯画」丙巻

もう少し年代が進み12世紀末頃に描かれた丙巻には、人間が主題になり様々な遊びをしている様子が描かれています。丙巻後半部分には、人間を擬獣化した描写が描かれているのが大きな特徴と言えます。

鳥獣戯画」丁巻

そして、もっと年代が進み13世紀に描かれたのが丁巻です。丁巻には、同じく人間が主題となるのですが、丙巻と違う点が即興で描かれたようなタッチが目立つことです。男性器が描かれているところもあり甲巻のような擬人化した描写で人間界を描くものとは全く違う描き方がされています。

鳥獣戯画」は、最初「獣物巻」「獣巻」「擬獣晝巻」「戯画巻」「高山寺絵本」などと呼ばれていて一定した呼び方がなかったようです。しかし、明治時代に入り国宝指定となった時に「鳥獣戯画」という呼び方が定着していったそうです。

昭和27年国定新指定の際に「鳥獣人物戯画」が正式名とされました。「鳥獣戯画」の名前が定着している今でもこの絵を巡り様々な研究がされています。これほどまでに人を釘付けにする「鳥獣戯画」の魅力のひとつが4巻それぞれに何らかの物語があることです。

たとえば、甲巻に関して取り上げると『猿はウサギに負けてウサギが蛙に負ける。最後は蛙が猿に殺されてしまい、その蛙が成仏して猿の供養を受けていることをひそかに非難している蛙がいる』というような場面があります。

常識の中で理解しにくいことですが、そこには、自由な空想の世界観が広がりおもしろさに繋がっているようでもあります。甲巻は、本来2巻本だったということが長年の研究でわかっているそうですが、甲巻の前半部と後半部は筆者が違うのではという見解もあり、その真相についていまだ全貌がわかっていないままです。

「鳥獣戯画」の作者を巡っての諸説

鳥獣戯画」甲巻『田楽を見物する群衆』

甲巻、乙巻、丙巻、丁巻の作者が違うことは描かれた年代の違いからも明確ではあるのですが、誰が描いたのかということに関しては諸説あります。

まず、「鳥獣戯画」は、絵が上手な人が描いていることが明白でその筆さばきや技法から見て、公家からの命令で絵を描いていた宮廷絵師の人たちや仏画を描く絵仏師たちの中の誰かではないかと言う説です。

鳥獣戯画」は、現在京都の高台寺で所蔵されています。そのことから考えてもこの巻物は絵仏師によって、まだ仏門に入らず髪を切り落としていない修行僧の子供のために描いたものではないかという説がひとつあります。

もうひとつは、「鳥獣戯画」の甲巻にある『田楽を見物する群衆』の絵が同じ時期に宮廷絵師が描いた「年中行事絵巻」と同じ構図の描写があることから「鳥獣戯画」の作者は宮廷絵師によるという説です。

両方の説を踏まて「鳥獣戯画」の作者は複数の絵師たちの手によって描かれたという説まであります。ただひとつ現時点で有力視されている作者のひとりが「鳥羽僧正覚猷」という人物です。

鳥羽僧正覚猷とは、平安時代の天台座主で日本仏教界重職を務めた高僧でありながら絵が上手くユニークな絵画を描く人物として知られています。今の漫画の始祖とも言われている人物です。

17世紀に描かれた住吉家伝来の「鳥獣戯画」を模写した本に「鳥羽僧正戯画」と記されていたことから「鳥獣戯画」の作者は、鳥羽僧正覚猷ではないかと言われ有力視されてきました。
不動明王」(白描画)醍醐寺蔵

ただ、鳥羽僧正が描いた絵が見つかっておらず、唯一「不動明王」の絵だけが鳥羽僧正が描いたのものではないかという説がありますが、決定的なものではなく一方では弟子が模写したものと言われている絵だけが現存しているようです。

不動明王」でも見られるように「鳥獣戯画」の大きな特色は、絵に色がないことです。彩色のない墨だけの筆描画のことを「白描画」と言います。白描画は、仏教画を描く手法としても用いられています。

仏教の教えをきちんと理解するためにあえてブレが生じない線描だけで表現する必要があることから仏画は白描画で描かれたそうです。「鳥獣戯画」もまた白描画で描かれ甲巻に出てくる動物の体、手足、動きが正確で筆に迷いがないことからも鳥羽増正を含めた絵仏師が描いたのではないかと思わせるものがあるようです。
バンダイ 鳥獣戯画ガシャポン

様々な説がある中でまだまだ解明されていない「鳥獣戯画」は、人の心をとらえる不思議な動きや表現、技法、物語といろんな観点から魅力がたくさんあります。ぜひ、「鳥獣戯画」を知るきっかけにしてみて下さい。

京都の中の”聖地”! 自然が美しい高山寺に行ってみよう!!

京都市右京区に高山寺があります。
高山寺といえば、動物たちの遊戯を描いた『鳥獣人物戯画』が有名です。 そのほかにも秋の紅葉がたいへん美しく、たくさんの参拝客を楽しませています。 山の中にあるため自然が豊かで、心がホッと落ち着くお寺です。 そして、ユネスコの世界文化遺産にも登録されており、日本が世界に誇るお寺でもあるのです。
そこで今回は、高山寺の魅力をたっぷりとご紹介します!

高山寺の歴史とは?

高山寺はもともと真言宗の別格本山でしたが、現在は単立で、山号は栂尾山です。

詳しい創建の年代はわかりませんが、奈良時代末期に開かれ、はじめは『都賀尾坊』とよばれていました。 平安末期、高山寺の近くにある神護寺の文覚が、高山寺を神護寺の別院としました。 そして、文覚には明恵(みょうえ)という弟子がいました。 高山寺にはこの明恵が深くかかわっています。

明恵は8歳で両親を失い、文覚について出家しました。 東大寺で華厳を学んだあと、勧修寺の公然から密教を伝授されました。 そして、建永1年(1206年)。後鳥羽上皇の院宣(天皇や上皇の言葉を伝える文書)により、栂尾の地をいただきました。 上皇から華厳宗の『日出先照高山之寺』の勅額(天皇が国内の寺院に与える直筆の寺社額)を賜り、寺号を『高山寺』としました。 明恵は高山寺を『華厳宗興隆の道場』として再興させました。

明恵は釈迦をこよなく慕っていて、「生誕地のインドへ行きたい!!」と何度も思っていました。 そんな強い思いをぶつけるかのように、山内をインドに見立て、仏跡になぞらえた造りにしました。 明恵は高山寺の背後にある山を『楞(りょう)伽(が)山』と名づけました。これは釈迦が説いた『楞伽山』にちなんでいます。 また、そばを流れる清滝川は、釈迦が身を清めたといわれる尼連禅河に見立てています。 明恵はしばしば、樹の上や石の上で坐禅をしていました。 インドへ行けない分、”釈迦の聖地”に見立てたこの場所で坐禅をすることが、明恵の一番の願いだったのかもしれません。 確かに、山内に入ると空気が一変し、聖地へと入ったことが分かります。 ぜひ、明恵がつくった聖地を味わってみてください!

石水院で心をなごませよう!

開山堂前の道を下ると、白壁と石垣に囲まれた『石水院』があります。
高山寺はたびたび、戦火などで建物を焼失してしまいました。 当時の建物はほとんどなくなってしまいましたが、唯一残っているのがこの石水院です。 こちらは国宝に指定されています。

石水院の縁側は開けっ広げで、外側に立つ木々たちは秋になると真っ赤に染まります。 秋以外にも、緑豊かな季節や雪景色を楽しめる季節もあり、四季を通して楽しめるのです。 また、朝日の木漏れ日を感じたり、夕日に照らされる葉をみたりと、1日の間で山内のいろんな姿を眺めることができます。 そして、廂の間は春日・住吉明神の拝殿でした。現在は、善財童子の木像が置かれています。

石水院は貞応3年(1224年)、明恵が後鳥羽上皇から賜った賀茂別院の建物を高山寺に移築したのがはじまりです。 明治2年(1889年)に現在の場所に移され、改造されました。 簡単な造りではありますが、飽きのこない建物です。

また、石水院では500円を払うと、お抹茶とお菓子がいただけます! なぜ、抹茶かというと、中国のお茶を日本に伝えた臨済宗の栄西が明恵に茶の実を授けたからなのです。 お茶は修行の妨げになる眠気を覚ましてくれる効果があります。 明恵は茶の実を植え育て、修行僧にお茶をすすめました。 そして、高山寺の茶園は『日本ではじめてお茶が作られて場所』として知られています。 『日本最古之茶園』とかかれた碑も建てられています。 現在でも、毎年5月中旬に茶摘みが行われているのです。

ぜひ、石水院で心をなごませながら、お茶をいただいてください!

高山寺といえば『鳥獣人物戯画』!!

高山寺にはたくさんの寺宝がありますが、とくに有名なのが「鳥獣人物戯画」です!
こちらは上記の石水院に飾られています。 甲乙丙丁の4巻に、動物や人物がユーモアたっぷりに描かれています。 甲巻には擬人化された兎と猿が水浴びをしていたり、鹿に乗ったりと、遊んでいる様子が描かれています。 乙巻は、実在の動物や空想上の動物をあわせた動物図譜になっています。獅子や青龍などが描かれているのが特徴です。 丙巻には前半に人間が登場し、囲碁をする僧侶と稚児、賭けすごろくをしている模様があり、後半には甲巻と同じく擬人化された動物たちが描かれています。 丁巻は勝負事に挑む人物を中心に描かれていて、修験者と法師が験を競う場面があります。

甲乙巻は平安時代後期に、丙丁巻は鎌倉時代につくられたといわれています。 作者は、鳥羽僧正の覚猷(かくゆう)や絵仏師の定智、義清阿闍梨ともいわれていて、ハッキリとは分かっていません。

ちなみに、一部の『鳥獣人物戯画』は現在の漫画の手法がみられることから、”日本最古の漫画”ともいわれていて、現代日本文化の原点なのです。 そして、高山寺のお守りにも『鳥獣人物戯画』が描かれています!
ぜひ、『鳥獣人物戯画』を見てみてくださいね!

参拝後は『とが乃茶屋』でゆったり休憩を……

高山寺の裏参道下、栂ノ尾のバス停があるところに『とが乃茶屋』があります。 築130年以上の檜皮葺きのお店で、大正初期に創業されました。 清滝川をのぞむ座敷があり、自然をひとり占めしながらお食事がいただけるのです!

ふつうのうどんやおそばはもちろん、湯豆腐定食や地鶏みそ鍋、鮎の塩焼きがついたそうめん定食など、季節のメニューも取りそろえています。

ぜひ、高山寺にお参りしたときはとが乃茶屋でお食事をしてみてくださいね。

○所在地
〒616ー8295
京都市右京区梅ヶ畑栂尾町3

○営業時間
9:00〜17:00

○定休日 木曜日
(祝日の場合は振り替え不定)
ただし、11月の紅葉の時期は無休

○電話番号
075ー861ー4206

○FAX
075ー881ー1014

いかがでしたか。
高山寺は山の中にあり、京都駅から少し遠いですが、また参拝したくなる魅力がたくさんあります。 まずは秋の紅葉を見に、そして夏は緑を、冬は雪景色を……と、1年を通して楽しめるお寺です。 また、数々の寺宝もあり、誰もがウットリとします。 ぜひ、高山寺に足を運んでみてください!

■所在地
〒616ー8295
京都市右京区梅ヶ畑栂尾町8

■石水院拝観料
800円
(紅葉時期のみ入山料500円)

■拝観時間
8:30〜17:00

「あるべきようわ」明恵上人の心が息づく高山寺

京都市左京区にある高山寺。京都駅からバスで約1時間と、人里離れた山奥にたたずむ古刹です。
鳥獣戯画のレプリカがあることで有名ですが、他にも数多くの絵や書が残されています。
秋には多くの参拝客が訪れる紅葉名所ですが、雪に覆われた静かな高山寺には、明恵上人の「あるべきようわ」の心に通じるものを感じられます。

山奥にひっそりとたたずむ古刹「高山寺」

高山寺は京都市左京区栂尾(とがのお)にある古刹。京都駅からJR嵯峨野線に乗って約20分、花園駅で降りてタクシーを使っても約30分と人里離れた場所にあります。JRバスや市バスを利用する方がおすすめです。近年は駐車場やバス停のある裏参道を利用する人が多いですが、少し遠回りして表参道から入ると、かつての大門の後に立つ一対の石灯籠や、正方形の石が17枚連なって敷かれた参道など、美しい光景を目にできます。

高山寺が開かれたのは1206年(建永元)、後鳥羽上皇の院宣により明恵上人が、華厳宗の道場として再建を任されます。その時に「日出先照高山之寺(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」と後鳥羽上皇より賜った言葉により、高山寺と号することになりました。上皇直筆の勅額が、今でも石水院の欄間に掛けられています。

高山寺となったのは鎌倉時代に入ってからですが、前身となったのは773年(宝亀5)、僧侶の山林修行の場として開かれた草庵でした。天皇の勅願で開かれた草庵ですが、その後荒廃と再建を繰り返し、500年以上経って明恵上人が訪れ、高山寺となったのです。境内は1994年に世界遺産に登録されています。

ストイックなのにやさしい二面性を持つ明恵上人

高山寺を再興した明恵上人は、武家の出身の僧侶です。8歳の時に母を失い、父も平家に味方し戦死し、孤児となります。神護寺の叔父を頼って仏門に入ったのは16歳のとき。仏門に入った明恵は、ひたすらストイックに修行に打ち込みました。母と父を亡くした寂しさを紛らわそうとしたのでしょうか、「生活が豊かになると僧侶は堕落する。貧乏寺でかつかつに生き、道を求めるべきである。」といった内容の言葉を残すほど、己に厳しく生きた生涯でした。

そのストイックさは目をみはるほど、耳を切り落としという有名なエピソードも残っています。「欲望を断ち切り仏道に専念するため、目・耳・鼻・舌・身をそぐ必要がある。」と考えた明恵、「目は経典に必要、鼻が垂れては経典を汚す、手は印を結ぶに必要。だが、耳は切っても聞こえよう。」と、右の耳を切りをとしたと伝えられています。そのときに飛び散った血が、石水院にある仏眼仏母像の絵に、よく見ると痕跡として残っているそうです。

このような逸話を聞くと、厳しく気難しそうに聞こえる明恵ですが、同じく石水院にある明恵上人樹上坐禅像にその人柄が表れています。リスや小鳥が見守る中、数珠は枝に掛けて下駄を脱ぎ捨てた明恵上人が、松の樹上に坐禅を組んだ姿を描いた図。そこからはストイックな明恵上人ではなく、自然と一体になった穏やかな人物の姿が浮かび上がっています。

明恵上人の時代から残る唯一の建物「石水院」

裏参道の素朴な石段を登りきった右手にある、白い土塀に囲まれた一角が石水院です。石水院はもともと金堂の東に「東経蔵」として建っており、別に石水院の名前の建物がありました。谷の向かいにあった本来の石水院は、1228年の洪水で失われてしまったのです。その後、石水院の名を継いで、中心的堂宇の役割を果たすようになります。1889年(明治22)に現在の場所へ移築され、住宅様式に変更されました。明恵上人のいた鎌倉時代の、現存する唯一の建物です。

石水院にはその欄間に掛けられた、後鳥羽上皇直筆の勅額を始め、「仏眼仏母像」や「明恵上人樹上坐禅像」、明恵上人の「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」の戒律が箇条書きされた額など、多くの絵や書が収められています。「白樺派」で有名な志賀直哉が「持って帰りたい」と呟いたという「木製狗児」は、運慶が作った作品と伝えられている、かわいらしい子犬の木像です。

後鳥羽天皇の勅額の掛けられた南縁を振り返ると、そこには清滝川を越えて向山を望む、一気に視界の開ける光景が広がります。なるほど、日が昇ると最初に高山寺が照らされるとは、こういうことかと納得する素晴らしい光景です。

日本最古のマンガ「鳥獣人物戯画」

有名な「鳥獣人物戯画」があるのもこの石水院です。石水院にある鳥獣人物戯画はレプリカ。実物は東京国立博物館と京都国立博物館に収蔵されています。レプリカとはいえ、その出来は素晴らしいもの。細部まで丁寧に再現されており、実物の迫力はそのままに堪能できる一品です。

鳥獣人物戯画は甲・乙・丙・丁の4巻からなる絵巻物。甲巻に描かれた擬人化された動物たちの図が、とくに有名になっています。乙巻には空想上の動物と実在の動物が合わせて描かれた動物図譜、丙巻は前半に人間たちの風俗と後半に動物戯画、丁巻には勝負事を中心にした人物模様が描かれています。甲乙は平安時代後期の作、丙丁は鎌倉時代の作と考えられており、鳥羽僧正覚猷の筆という説が主流ですが、確証には至っていません。

日本の茶の発祥となった茶園

高山寺には茶畑があり、現在でも大切に守られています。実は日本で初めて茶を栽培したと言われる場所です。修行の妨げになる眠気を覚ます効果があると、明恵上人が他の僧侶たちにも勧めたという逸話も残っています。

毎年5月の中旬に茶摘みが行われ、摘み取った新茶を明恵上人に献上する「献茶式」の法会は、11月8日に開山堂で執り行われます。この法会には宇治の茶業組合の役員も参列し、明恵上人と茶業界物故者に感謝の祈りを捧げる催しで、開山堂に収められた明恵上人坐像を排する、数少ない機会のひとつです。境内には明恵上人700年遠忌を記念した茶室も立てられています。

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