西芳寺に現在も息づく夢窓疎石の禅宗観|寺|趣味時間

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西芳寺に現在も息づく夢窓疎石の禅宗観

西芳寺というより「苔寺」といった方が、イメージを浮かべやすいかもしれません。それくらい「苔寺」として日本だけでなく、世界にも名を知られた寺院です。
以前は誰でもその有名な庭園を見ることが可能でしたが、現在は限られた人数にのみ門戸を開いています。そこには中興開山の役割を果たした、夢窓疎石の願いが息づいているのかもしれません。

二つの庭が対照的な西芳寺

西芳寺は京都の西京区にある寺院。山号は「洪隠山」、阿弥陀如来を本尊とする臨済宗禅寺です。苔寺と呼ばれるほど苔の美しい庭園を持ち、その庭園は世界中に知られています。一面に広がる苔むした境内の中にある本殿や茶室は、長い歴史を思い起こさせますが、そのほとんどは明治時代に再建されたものです。最も古い建物は16世紀末に建てられた湘南亭。本家と待合及び廊下を含めた2棟が、国指定の重要文化財に指定されています。

庭が有名な西芳寺の敷地内には、禅の世界を具現化していると言われる枯山水庭園と、黄金池を巡る池泉回遊式庭園の2つ。影向石の周辺に作られた石庭は、夢窓疎石の作った当初の庭の姿をとどめていると言われ、夢窓の庭に対する姿勢が表れていると言われています。放生会も行われる黄金池のある庭園は、その後の日本庭園の見本ともなった石組みが有名です。

西方寺から西芳寺へ

西芳寺を開山したのは夢窓疎石ですが、それ以前にも約600〜700年以上にわたる歴史があります。もともとは用明天皇の皇子である聖徳太子が建てた別荘が、現在の西芳寺の始まりと言われています。太子の別荘にあったとされる「朝日のしみづ」と「夕日のしみづ」は、現在でも枯れることのない天然の湧水です。おそらく別荘の敷地内に、太子自作の阿弥陀如来像を祀った仏堂があったのではないかと考えられています。

太子の時代から隔たること百数十年。聖武天皇は行基に命じて畿内に49の寺院を建立しました。その中の一つ「西方寺」を、太子の別荘跡地に建てたのが、寺院としての始まりと考えられています。その後は荒廃するにまかされ、長い時間が過ぎて行きました。実はこの間の西方寺については、あまり詳しいことがわかっていません。様々な説は伝えられるものの、確固とした証拠たるものが見つかっていないのです。

鎌倉時代に入ると、摂津守・中原師員(もろかず)が堂舎を再建し、西方寺と穢土寺に分割して、浄土宗の法然を迎えました。西芳寺の上と下の2つの庭園は、この時の西方寺と穢土寺の名残ではないかと考えられています。一時は活気を取り戻しましたが、師員の死後、再び荒廃し、あとは夢窓疎石の登場を待つこととなるのです。

西芳寺に中興開山と夢窓疎石

夢窓疎石の生家は、伊勢源氏の佐々木家。夢窓の生まれた前年には、蒙古襲来があるなど、世間は騒然としていた時代でした。甲斐(山梨県)で仏教に触れた夢窓は、空阿大徳に弟子入りし、東大寺戒壇院の慈観律師により受戒します。平塩山寺に戻った彼は、夢の中で禅僧に出会ったことがきっかけで、禅宗に進むことを決意します。

京都建仁寺をはじめ、鎌倉の東勝寺・建長寺・円覚寺を転々とし、法諱を「疎石」道号を「夢窓」としたのは、受戒から2年後の20歳の時でした。その後も中国から高僧が来たと耳にすれば、京都の建仁寺から鎌倉の建長寺まで馳せ参じ、熾烈な選抜試験をくぐり抜け入門を許されたり、陸奥や常陸(茨城県)を経て3度目の鎌倉、さらに故郷の甲斐に戻り遠江(静岡県)・美濃(岐阜県)を渡り歩いたりと、禅宗の中で上位の格を追い求めることをせず、ただひたすら修行し続ける日々を送りました。彼の評判は日増しに高くなっていきます。

夢窓疎石が西芳寺を開山するきっかけとなったのは、後醍醐天皇から京都の南禅寺の住持を依頼されたことでした。鎌倉幕府の執権・北条高時からの後押しもあり、断れなかった無双は、1年ほどですが住持を引き受けることになります。その後、亡き世良(ときなが)親王の菩提を弔うため、臨川寺の開山の勅命を受け、夢窓国師の号を賜り、後醍醐天皇の宗教政策の先頭に立つことになったのです。

ところが足利尊氏が後醍醐天皇に叛旗を翻したことで、事態は急変してゆきます。鎌倉幕府を倒した足利尊氏は、光明天皇を擁立し征夷大将軍になり、室町幕府を開きました。南北朝の対立の始まりです。後醍醐天皇とも足利尊氏・直義兄弟とも親交のあった夢窓は、どちらに加担することもなく、閉じこもって表舞台に出ることはありませんでした。

夢窓が動き出したのは、足利尊氏の重臣・中原親秀から、臨川寺対岸にある西方寺の住持の依頼を受けてでした。この時、彼は西方寺を「西芳寺」に名を改め、禅寺として修復作業に取り掛かるのです。事態を静観していた無双が動き出したことは、事実上の南北朝の決着を意味していました。その4ヶ月後、後醍醐天皇の崩御の報を受けた無双は、尊氏に天皇の菩提を弔う禅寺天龍寺」の建立を進言するのでした。

地蔵が作った浄穢の区別のない名園

さて、西方寺にあった上下二段の庭園。浄土と穢土(穢=けがれ)を具現していたと考えられていますが、夢窓はその構成を継承しなかったとみられています。というのは、縁起にも記載のあるこんな伝説が残っているからです。

夢窓の造営作業が進行している間、毎日巨石を運んだり、巨木を植え替えたりする僧がやってきていました。ようやく造営が終わったその日、その僧は「あなたの徳を慕うゆえ、作業を手伝いました。のちの印に拙僧の錫杖(シャクジョウ)を受け取ってください」と、錫杖を夢窓に手渡し、代わりに夢窓の袈裟を受け取って帰って行きました。その後、四条の「染殿(ソメドノ)地蔵」の手にあるはずの錫杖が見当たらず、代わりに見慣れない袈裟をまとっているのが発見されます。染殿地蔵は浄穢の差別をしない象徴と言われており、西芳寺の上下の庭も、この区別を取り払ったと考えられているのです。

夢窓は1351年(観応2年)に亡くなりますが、彼の死後も上皇や公卿、将軍たちが西芳寺を訪れました。彼らの多くは天龍寺の御幸を終えた後、西芳寺へ疲れを癒しに訪れたようです。天皇の菩提を弔う天龍寺と、禅寺西芳寺とでは、肩の荷が違ったのかもしれません。何よりも美しい庭園は、眺めているだけで心が洗われるようだったのでしょう。三代将軍・足利義満だけは、自らを禅僧の境地に置き、お供とは別行動をとって、指東庵にこもりひたすら座禅を組んでいました。他の人たちのように春の桜や、秋の紅葉を楽しむことなく、修行の場として西芳寺を訪れていたのです。

復興、そして観光の寺から宗教の寺へ

室町幕府の歴代将軍の中では、8代将軍の足利義政が最も多く西芳寺を訪れた将軍でした。毎年のように春と秋の2回、西芳寺を訪れその季節の庭園の木々を愛でていたようです。ところが応仁の乱の戦火を逃れることは叶わず、西芳寺も全焼を免れませんでした。幸か不幸か、戦乱が広がることで、争いの中心から遠ざかった義政は、東山山荘の造営に着手します。最初に取り掛かったのは、西芳寺の指東庵の再興でした。

指東庵は再興されたものの、応仁の乱の後の西芳寺の復興はままなりませんでした。低湿地に位置する西芳寺は、戦火以外にも度重なる洪水の被害に見舞われます。辛うじて存続することはできましたが、伽藍の復興が叶ったのは明治時代に入ってからでした。現在の伽藍のほとんどは、この明治時代の復興期に再建されたものです。

戦後になって西芳寺庭園の苔の美しさから、「苔寺」として注目を集めるようなります。国内だけでなく、国外からも多くの観光客の訪れる、京都の観光スポットとして人気の寺院になりました。その人気ぶりは、京都の観光施設のトップと言っても過言ではないほどの賑わいでした。多くの人が訪れるようにはなったものの、そのほとんどは庭園の苔だけを見て去ってしまいます。

そのことに疑問を感じた西芳寺は、ついに大きな決断を下すことになりました。それが現在行われている「予約制の拝観」です。西芳寺写経などの宗教行事に参加する、限られた人数にのみ境内を解放することにしたのでした。おそらくそれまで通り拝観料を納める見学者を受け入れた方が、はるかに経営も楽だったに違いありません。それでも西芳寺は、夢窓疎石の目指した禅の世界を守り抜くべく、門戸を閉ざす方を選んだのです。

西芳寺の苔に小欲知足の心を知る

釈迦の教えの中に「小欲知足」という言葉があるそうです。難しい事は省きますが、簡単に言うと「分相応」といったところでしょうか。
欲のない人は満足を知っている、といった意味になります。大量消費によるエネルギーや環境問題に、実は西芳寺も大いに影響を受けています。近年の二酸化炭素放出量の増加による温暖化の影響で、境内の苔の分布が変化してきているというのです。
それに伴い、他の野生動物や昆虫たちにも変化が生じているといいます。私たちはそろそろ「十分に足りている」ということを、自覚して次の行動を起こさなければならないのかもしれません。

事前申し込みが必要で高い拝観料、それでも行きたい西芳寺

「古都京都の文化財」17か所の一つである西芳寺。別名である苔寺の方が世間では名が通っているかもしれません。
西芳寺は、桂離宮や修学院離宮、京都御所などと同様に事前申し込みが必要です。拝観料も破格の3000円です。それでもファンは「ここは別格」と言います。西芳寺の魅力に迫ります。

「古都京都の文化財」17か所とは

1994年に世界文化遺産として登録された「古都京都の文化財」17か所について、おさらいしてみましょう。

1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」で定義された世界遺産とは、文化遺産、自然遺産、複合遺産の3つがあり有形の不動産が対象となっています。「古都京都の文化財」は、京都が平安時代から江戸時代まで政治経済の中心地として各時代の文化を牽引して全国の建築、造園などの発展に大きく寄与したことなどが評価されて、文化遺産として登録されました。日本では5番目に登録された世界遺産です。
構成する資産は、京都市にある二条城、賀茂別雷神社((かもわけいかづちじんじゃ)上賀茂神社)、賀茂御祖神社((かもみおやじんじゃ)下鴨神社)の2つの神社、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺清水寺など11のお寺と、宇治市にある宇治上神社、平等院と、大津市にある比叡山延暦寺です。二条城の他は由緒ある寺社仏閣などが並びますが、どうしてこの17か所が選ばれたのかご存じでしょうか。
教王護国寺(東寺)をはじめとして醍醐寺、仁和寺、高山寺、西本願寺など13か所に国宝建造物があります。
このうち、西本願寺、二条城庭園が特別名勝、醍醐寺(塔頭寺院の三宝院)と慈照寺(銀閣寺)の庭園は特別名勝と特別史跡に指定されています。鹿苑寺(金閣寺)の庭園も特別名勝と特別史跡に指定された庭園です。

ここ西芳寺はどうかと言いますと、石庭で有名な龍安寺、天龍寺と同じくそれぞれの庭園が特別名勝なのです。世界遺産の仲間入りができた資産は国宝建造物があること、なくても庭園が特別史跡あるいは特別名勝に指定されているなど、芸術的価値が評価されているところです。興味深いのは、ここ西芳寺天龍寺庭園は、同じ人物によって作られていることです。

西芳寺の魅力〜天才庭園家夢窓疎石によって作られた西芳寺庭園

室町時代、松尾大社の宮司であった藤原親秀(ちかひで)に当時荒廃していた西芳寺(当時の名称は「西方寺」)の再興を依頼されたのが夢窓疎石です。

この夢窓疎石という人物は、77歳で入寂するまで室町時代に大活躍した臨済宗の高僧です。育てた門弟は1万人以上いたと言われています。後醍醐天皇から「夢窓国師」の号を賜ったほか、生前と没後あわせて七人の天皇から国師の号を授けられ「七朝帝師((しちちょうていし)」と称されました。
庭園家としての才能もずば抜けています。手がけた庭園世界遺産のここ西芳寺天龍寺だけでなく、鎌倉市の瑞泉寺、多治見市の永保寺、甲州市の恵林寺などいずれも名勝に指定されています。目を見張る業績の数々です。再興するにあたって、夢窓疎石は鎌倉時代に法然によって浄土宗に改宗されていた西芳寺(創建当時は法相宗(ほっそうしゅう))を臨済宗禅寺とします。寺の名前も「西方寺」から「西芳寺」へと改め、夢窓門派の修道のための寺としたとされています。
庭園の改修にも大がかりに取り組みます。それまでの浄土風の池泉庭園から上下二段からなる庭園を作り上げます。この趣が異なった二つの庭園があるのが西芳寺の魅力です。
上段は山の斜面に三段組みの枯滝石組を配した枯山水(かれさんすい)庭園であり、下段は黄金池(おうごんち)と呼ばれる池泉を中心とする池泉回遊式庭園となっています。
黄金池は、心という字をかたどった池泉であるところから心字池とも称されています。苔によって庭園が造られた当時の面影は残っていないとされる西芳寺で、黄金池の東側に浮かぶ鶴島の石組はあまり苔におおわれていないため比較的当時の趣が残っていると言われています。

西芳寺の魅力〜四季それぞれに美しい西芳寺庭園

作庭当初は苔など生えてなくて、苔におおわれるようになったのは江戸時代の末期と言われている西芳寺庭園ですが、その苔のおかげで神秘的な美しさを体験できるのです。苔が最も美しいといわれているのが梅雨時です。

衆妙門から中に入ると、新緑の木々が出迎えてくれます。上下二段の庭園は下段からスタートですがいきなりふわふわした苔の絨毯が目に入ります。もこもこした苔は木々にも登っています。
庭園の南側には当初、夢窓疎石の時代に建てられた湘南亭(しょうなんてい)と呼ばれる茶室があります。千利休の次男の千少庵によって再興されたと伝えられる茶室で、現在は重要文化財となっています。幕末の頃、岩倉具視が幕府から難を逃れるためにここに身を隠したとされます。湘南亭付近の苔はびっしりと生えています。庭園内の黄金池には長島、朝日ヶ島、夕日ヶ島と三つの中島がありますが、作庭当初は白い砂でおおわれていたようですが、今はすべて苔でおおわれています。島にかかる橋も苔でびっしりです。
このような幻想的な風景はほかでは味わえませんね。長島にかかる橋は、京都の世界遺産の切手が発行されたとき採用されています。
この島々の景色も紅葉の季節になると全然趣を変えてきます。違う季節の風景を見比べるのも西芳寺の魅力の一つです。

美しい苔寺の環境をまもるために、1977年7月から一般の拝観を中止し往復はがきによる事前申し込み制となっているようです。夢窓疎石が作庭した時代に思いをはせて西芳寺庭園をぜひお楽しみください。

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