仏像

仏教世界を分かりやすく。有名経文ご紹介!【物語と阿弥陀如来と心理学編】

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仏典シリーズ第三弾。分かりやすくも面白い仏典ですが、今回は物語性の強い経典や浄土三部経、心理学的側面を持った経典をご紹介します。

大乗仏教、菩薩のあるべき姿を面白く説く、『維摩経』

これまたストーリー仕立ての面白い経典です。維摩居士という人物を主人公に据え、仏弟子を始め有名な菩薩までケチョンケチョンに論破されるわけですが、その様が何だか痛快な経典。それでいて、しっかりと「大乗仏教とは」「菩薩とは」どうあるべきかを教えてくれています。文殊菩薩との論争が特に有名です。居士とは、俗世の身で仏道修行をする人のこと。

【病気の振りをする維摩】
維摩居士が病気になった、との知らせが仏の世界にも届きますが、未来の救世主弥勒菩薩でさえ「あの人トラウマです。色々言われて軽くうつ状態です」と尻込みしてお見舞いに行きません。何せ維摩居士は、頭は切れるし、超能力まで得ているし、言いすぎること以外取り立てて日の内どころのない人物。名乗りを上げたのは、菩薩でも特に知恵者の文殊菩薩。「文殊ならいけるか?」と、大勢の菩薩が見物に来ました。ちなみに、維摩居士が病気になったと言っても、仮病です。
「どうしてあなたは病気なのですか?」との問いに、維摩は鼻で笑って答えます。「世間が病気だからだよ。分かる?衆生は病んでいるのだ。この病が治れば、私もたちどころに病が治るだろうよ」と。つまり、世間は煩悩まみれで、それを病に例えたようです。

【やたら高い椅子を出した不可思議品】
仏弟子の一人が言いました。「あの、座りたいのですけど」そこにピシャリと維摩居士の言葉が飛んできます。「お前、座りに来たの?法を求めに来たの?」と厭味ったらしいことを言った挙げ句「仕方ねえな」とばかりに椅子を32000も出しました。ちなみに、場所は維摩居士の家で、どちらかと言えば狭い方です。「空間どうなっているの!?」と思う所ですが、そこは神通力のなせる業です。ついでに言うとこの椅子、とんでもなく高く、維摩居士同様神通力を持った菩薩は座れましたが、ただの仏弟子には座れませんでした。須弥灯如来なる仏に拝謁してやっと座ることができたとか。

【花びらで「空」を語る観衆生品】
維摩居士が衆生という物をいかにして観察し、導くかについて説法していると、「あなたは立派ですね」とばかりに天女が現れて花びらのシャワーを皆に降り注ぎました。菩薩の方は花がくっつくことはありませんでしたが、仏弟子の方はなぜかくっついてしまって取れませんでした。「何か仏弟子としてこれはよろしくないよなあ。何とかして取らないと」と、一応身についている神通力で落とそうとしますがこの花が頑固な汚れのごとく落ちません。洗剤のCMに出したいくらいに。「何でですか!」と困っていると、天女は言いました。「『仏弟子として』などと考えているからですよ。周りの状況をいちいち気にしているからくっつくんです」つまり花と仏道はふさわしくない、だからとろうという考えが、仏弟子の体に花を貼り付けたままにしている模様。これは、あらゆる物に対する執着から解き放たれることの重要性を説く「空」の思想を表します。

極楽往生の段階を説く、『無量寿経』

「〜三部作」という物がありますが、経典にもありました。その名も、浄土三部作。
阿弥陀如来の住まい、極楽浄土に関する経文を記すのが浄土三部経であり、『無量寿経』はその一作目に当たる物。出家して宝蔵菩薩と名乗り修行期間を経て自らの浄土を得るまでを描いた物です。「私の浄土に生まれたいと思う者すべてを受け入れるまで如来にはならない」という決意を始めとする四十八の誓願を果たすのは、まさに途方もない時間でした。極楽浄土の様子の他、衆生の生前の行いにより三つの段階にランク付けした「三輩往生」についても書かれています。

【上輩】
出家僧。

【中輩】
出家をしていなくとも、仏像づくりなどをして徳を積む者。

【下輩】
出家しない、徳も積まない、しかしわずかでも往生を願う者。

シンプルな往生経典、『阿弥陀経』

またの名を『小経』。『無量寿経』に対しこの名前がついたのですが、単に内容が短めでシンプルなため、こう呼ばれているのです。お釈迦様がまだ生前、弟子たちに「阿弥陀如来の極楽浄土に生まれなさい」と説く様子などが描写されます。どちらかと言えば短めのCMのような経文で、「阿弥陀様のお名前を一日、もしくは七日間念じ続ければ極楽往生できますよ」とのキャッチコピーまであるのです。

浄土宗関連の最終形態、『観無量寿経』

三部作のラストを飾る経典です。通称は『観経』。
観想する、つまり心に極楽往生並びに阿弥陀如来を思い描くことを説きます。
「南無阿弥陀仏って唱えれば極楽に行けるよ」というのは、この『観無量寿経』にて初めて描かれていることなのです。この観経、冒頭にて阿闍世王子が父王を幽閉し、餓死に追い込もうとする物語が存在。こっそり体に密を塗って夫を助けたことで自らも幽閉されてしまい、親子での殺し合いに哀しむ韋提希望夫人が苦しみのないを望み、お釈迦様が「極楽往生を思い描きなさい」と説くお話です。

お釈迦様入滅後のストーリーを二パターンで描いた、『涅槃経』

正式名称は『大般涅槃経』。上部座バージョンと大乗バージョンがあります。

【上部座版】
お釈迦様が最晩年にどういうことを行ったか。入滅後荼毘に付されて八つのストゥーパに仏舎利(遺骨)を分けるまでの経緯をこと細かく書いています。
おまけに、お釈迦様の最期も感動的。「いいか。存在する物はいずれ滅んで行く。それでも怠ることなく、精進を続けよ」と、昔の映画だったら派手なBGMで否が応にも盛り上げられる展開。お釈迦様しか仏はいない!というのが上部座仏教ですので、その入滅に重きを置いています。

【大乗版】
入滅、分骨がクライマックスになっている上部座版とは違い、ややあっさりした印象。「重要なのは、そこから。仏様はいつだっているし、誰だって仏様になれるよ」との考えから、不滅の仏、その仏性は誰にでもあり、仏こそが本来の姿なのだとしています。

心理学的『唯識三十頌』

唯識。それは「色々な出来事は心の持ちよう」という意味です。
心とは目、耳、鼻、舌、身、意識の六つが従来の教え、「六識」です。唯識では自我意識(末那識)、潜在意識(阿頼耶識)が加わった「八識」が心であるとしています。「阿頼耶識は過去の行い、業が元で生まれる。これは善でも悪でもなく、全ての源」です。煩悩とは阿頼耶識の産む流れを母体に、自我である末那識で発生。六識に影響を及ぼした物なのと説明されます。この八識論の他、世界の見方、三性説も存在。

1、遍計所執性:世俗で経験する、俗人が認識する事物。

2、依他起性:他との因縁により起きていると認識する、相対的な事物。

3、円成実性:悟った状態で見た世界や存在。真の存在であり、絶対的な物。

まとめ

色々な考えが垣間見られますが、シンプルでも難解でも、込められた想いや気概は伝わりますね。続いては、密教と日本人にはお馴染み、アノ行事にまつわる経典をご紹介します。

【日本仏典編】

海外出店の書ばかりでなく、日本でも多く仏典は記されてきました。ラストを飾るのは、我が国日本の仏典です。色々な宗派がありますが、経典はどのようなものがあるのでしょうか?

真言宗は他とは違う!空海作の『秘蔵宝鑰』

空海による著作です。
830年、淳和天皇が「仏教も宗派が多いから、宗派ごとに教義をまとめてきなさい」と仰せになります。
空海は『秘密曼荼羅十住心論』なる著書を撰進(天皇に提出すること)。『秘蔵宝鑰』はその簡略バージョンです。
空海はこの書物の中で、天台宗や華厳宗といった他の宗派を顕教という密教とは違う教えだとし、真言密教との違いとしてあらゆる心の状態を十段階に分け、記しました。
これは空海だけの考えではなく、『大日経』などの経典を参考にした物です。「羊みたいに貪り食らう心」こと第一往心(またの名を「異生羝羊心」)は煩悩まみれで宗教心もない状態。そこから段階的に儒教インドの哲学、老荘思想、上部座仏教の始まり、極意。大乗仏教の始まり、極意と言った具合に進化。「最高なのは真言宗であり、大日如来様の説かれる、最上の悟りを得られる」との結論に至る経典です。

天台宗発・極楽行くなら念仏を!『往生要集』

著者は源心という天台宗の僧侶。
色々な経典からの引用を駆使して念仏や極楽往生についてまとめた物です。源心自信の著というより、要約版と言った所。

この著書が出た当時は末法思想が大流行。
「2012年に世界が終わる。だってマヤ暦のカレンダーがそこで終わっているもの」という、あの頃にも似た恐怖心が、人々の中にはありました。そんな中で生まれたこの『往生要集』は「仏教には八つの地獄があるよ。おっかないよ」という「厭離穢土」という章から始まります。第1章「厭離穢土」で地獄(やその他の六道世界)の様をこれでもかと描き、第2章「欣求浄土」で極楽浄土の素晴らしさを描いているわけですが、重要なのは第4章。「正修念仏」です。
これは「素晴らしい極楽浄土に生まれる為の念仏の仕方」を説いています。ただ「南無阿弥陀仏」というだけではなく、阿弥陀様を真から礼賛し、悟りの気持ちを起こし、阿弥陀様のお姿を観想すること。
良き結果に向け、悟る為に精進することの重要性も解いているのです。この書は後代の仏教に多大な影響を与え、経典のみならず美術にまで影響を及ぼした、地味に重要な物でした。第五章以降では、念仏による修行の方法や念仏による功徳、包容性などを説き、最終章では念仏こそが最高の者であるとしています。

弟子が起こした親鸞語録集『歎異抄』

仏教自体の初期仏典は、お釈迦様のお言葉を記したものが中心でした。
ある意味それと同じことが日本でも起こったのです。

この『歎異抄』、浄土真宗を開いた親鸞和尚のお言葉を弟子たちがまとめた物。著者は唯円という人物です。
親鸞の死後、彼の教えに異義(誤植ではありません)申し立てをする弟子が出始めました。それだけならまだしも、「親鸞様のお教え」と称してまるっきり違うことを言ってのける輩もいた模様。「コイツら、アカンわ」と半ば怒りに震え、半ばため息をつきながら「師匠、私があなたの正しい教えを守ります」と記したのが、この『歎異抄』です。初めの10章(通称師訓編)は師匠の言ったことを書き留め、残りは意義に対する「コイツラは分かってない」との批判(通称異義編)でまとめています。
主に悪人正機について書かれており、念仏信仰というのはこういう物なんだよ、と、「真の念仏信仰」を説いているのです。ただ、悪人の往生に関しては「悪いことした奴は極楽往生できません」と親鸞が語っているにもかかわらず、『歎異抄』では「悪党の皆さん、ちゃんと悔い改めなさいね」程度にとどめ、「極楽往生できない」とは来ていないご様子。ただ100%ではないにせよ、それに近い精度で師匠の言葉を解いていることに間違いはなく、現在でも広く慕われているようです。言か、阿弥陀信仰の用語を少し書いておきます。現在というか、世間一般で使われている言葉と意味が違いますので。

【悪人】
悪行を成したものではなく、自分で修行できない人のこと。阿弥陀如来にすがるしかできない人を示します。

【他力本願】
阿弥陀如来の本願により、極楽往生すること。

【「南無阿弥陀仏」の意味】
「阿弥陀如来様に帰依する」という意味。

曹洞宗の教科書、日本語で書かれた初の仏典『正法眼蔵』

曹洞宗の祖、道元著。
曹洞宗の教科書ともいえる存在であり、全87巻というべらぼうに長い経典です。正法は仏法を表し、眼蔵とは眼のようにくまなく仏法を見、蔵のように仏法の全てを収めるということ。仏法の宝庫と言っても過言ではないかもしれません。
主な主張は、ひたすら座禅を行う「只管打坐」と、その結果見えてくる「修証一等」。これは修行そのものが悟りの境地なので、座禅を組む時に「仏にならなくては!」と考えることはないよとも説いています。

流人時代に書いた日蓮の著『観心本尊抄』

日蓮の代表作です。
日蓮はいっとき佐渡に流罪になっていたことがあり、その時に書いたとされます。正式なタイトルは『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』。この名がったるいタイトルには、「今はもう末法の世。正法を説かなくてはならない時期」という意味です。内容はと言えば、問答の形を取ります。「流罪にされたからって大袈裟な」と思われるかもしれません。しかし、天変地異が多く、「世界の終わりだ!」となるのも無理からぬことでしょう。「末法の世が訪れた今こそ、歓心と本尊という教義を世に現し、広める」ことが、この経典に記された日蓮の覚悟、決意です。

【歓心】
「『法華経』に帰依する」という「南無妙法蓮華経」を心に浮かべ、口に出し、体で行動することを指します。

【本尊】
お寺の本尊である仏像、ではなく信仰の大将である仏や神々を大曼荼羅の形で表した物です。
娑婆(この世界)の地面が割れて、そこから上行菩薩を始めとする多くの菩薩が湧いて出、『法華経』を広めると後半部分で記されており、自分が上行菩薩だととれる文面も見受けられます。「ビッグマウスだねえ」とお思いでしょうが、それだけの覚悟があったということですね。

まとめ

経典で見る仏教世界、いかがでしたでしょうか。

時と共に分裂し、形を変えていく宗教。仏教とて例外ではなくそれに組み込まれています。
それは、考えがより進化していくことの証。仏典の進歩は、教えがより細かになり、より緻密になって行ったことの証であり、僧侶や信者の成長の証とも言えます。読んでみると意外に面白い仏典。その根本が、常に同じに思えてくるから不思議です。

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