日本画

東郷青児の絵は人々の関心を集め惹き込む力を持つ

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「損保ジャパン日本興亜美術館 東郷青児記念」

東郷青児の個性的な絵は、お菓子の缶のデザインや洋菓子店の包装紙などに今も使われているので馴染みがあるのではないでしょうか?東郷青児ほど人々の関心を集め、人々に馴親しまれた画家はいないかもしれません。そんな東郷青児の噂の真相や彼の自由奔放な人生について詳しくご紹介していきます。

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東郷青児 学生の時に描いた絵と女性

「東郷青児」

東郷青児は、青山学院に入学し、絵の勉強をしながら野球に打ち込んでいた少年だったようです。当時、「あいまい屋の女」という作品を投稿して一等賞になると、選者から「鬼才がある」と褒められたのですが、その題名が教師の間で評判になりつるしあげを食らったそうです。

この当時、「あいまい屋の女」という作品を描いてはいても、女性経験があるわけではなかったので、上級生の女生徒にいいよられ青山墓地に連れて行かれキスをされた時は、歯がガチガチ鳴るほど緊張したというエピソードも残っています。

この頃から本人いわく色気のある少年だったようです。東郷青児の女性との噂は、ここからさらに続いていき、彼の美しい女性の絵にたどり着くことになります。

マスコミで騒がれた竹久夢路の妻たまきとの関係

「裸婦」竹久夢二作

当時、竹久夢二の妻たまきさんと中学5年生の東郷青児との間に不倫報道がありました。そのことを知った夢二が二人の関係を疑い、富山県の海岸でたまきの腕を刺すという事件を起こしたとあります。このことがきっかけで夢二と妻たまきの破局に繋がっていきます。

その真相について、東郷青児みずから語っています。東郷青児は、友達に連れられて竹久夢二の店「港屋」に行きます。それがきっかけで、夢二の妻のたまきにかわいがられ暇さえあれば港屋に通うようになったそうです。画学生だった東郷青児にたまきは、留守ばかりしている夫、夢二の代わりに半襟の下絵や便箋のコマ絵の写しを頼むようになります。

竹久夢二は、この当時から有名画家でした。ところが、絵だけが有名だったわけではなく恋多き男性としても話題になっていきました。この時は、角海老のさんごという太夫(遊女)に夢中でほとんど家に帰らず、たまに帰ると二階に閉じこもり屏風や色紙を描いてそれを持って出かけて行くという生活で、東郷青児はそんな夢二をたまきと見送ったことがあると言います。

その後に、東郷青児とたまきの仲を疑う記事を書きたてられたようですが、東郷青児はこの時のことをたまきは弟のように自分をかわいがってくれただけで、その程度だったと残しています。

夢二自身もこれを転機に自分のところに通っていた3人娘のひとり、「彦乃」にのりかえ、東郷青児は、この3人娘のうちの「あおい」に惹かれたといいます。これが東郷青児の初恋だそうです。

夢二の妻たまきは、それから東郷青児と会うことはなかったようですが、夢二のもとへは、数年してからもどっています。たまきは、東郷青児の絵に惹かれていたのかもしれません。

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宇野千代との出会い

「左・宇野千代」

写真は、若い頃の宇野千代さんです。小説家、随筆家、編集者、着物デザイナー、実業家など多才な彼女もまた、恋多き女性としても知られています。その恋愛遍歴は、マスコミの間でもいつも話題になるほど波乱万丈のものでした。それだけ、宇野千代もモテ女だったということです。

東郷青児が友人の今東光(小説家、天台宗僧侶、政治家)と若い頃に通いつめたカフェ・巴里には、久米正雄(小説家)、豊島与志雄(小説家)、芥川龍之介(小説家)など新進作家たちもよく通っていたそうです。

このカフェから目と鼻の先にある燕楽軒でアルバイトをしていたのが宇野千代でした。宇野千代は、もうこの時には小説家として歩みだそうとしていたようで第一作が出され評判が良かったといいます。

宇野千代は、この界隈ではクイーンと呼ばれるほど人気があったそうです。芥川龍之介の「葱」のモデルが宇野千代と言われています。彼もこの時、宇野千代に惹かれていたのかもしれません。

そんな宇野千代と東郷青児は、後に一度結婚することになるのですが、この時の出会いからすぐ恋愛に発展したわけではなかったのです。この時、宇野千代に惚れていたのは東郷青児の友人の今東光でした。

東郷青児は、友人がなかなか宇野千代に告白することが出来ない様子に見ているだけということも出来ず、今東光の代わりに宇野千代のもとへ押しかけ友人の思いを代弁したそうです。その結果、今東光と宇野千代の交際がスタートしました。

しかし、小説家を目指している今東光と、もうすでに社会人として歩んでいた宇野千代との距離が開いていき破局となります。そこから、すぐに東郷青児と宇野千代の結婚ということはなく、宇野千代はその後、作家の尾崎士郎と再婚し、離婚します。

東郷青児は、その後も多くの女性にモテまくります。そして、永野明代と結婚し、長男を授かりますが、既婚のまま中村修子と結婚披露宴をし、翌月には、西崎盈子と出会い愛人関係になります。後にこの二人は、自殺未遂を図ったことでも有名です。

そのあとに宇野千代と再会します。東郷青児は、自殺未遂を起こしたばかりで首に包帯が巻かれたままだったそうですが、宇野千代は、その姿に惚れたとの説があります。宇野千代の代表作「色ざんげ」のモデルがこの時の東郷青児です。

東郷青児は、すぐに宇野千代と恋愛関係になり、永野明代と離婚し、中村修子とも別れます。そして、宇野千代と再婚します。しかし、宇野千代とも結婚生活は長く続かず結局、破局し、その後西崎盈子と再婚しました。東郷青児の周りにはいつも女性の姿があるようです。それだけ、彼の魅力に惹きつけられる女性が多かったということです。

そして、東郷青児の描く、甘く優しい女性像も彼の人柄の現れであり、そこに惹きつけられる人々が多くいるのは今も変わらないようです。ぜひ、東郷青児の魅力に惹き込まれてみてください。

東郷青児の人物像から絵を見る その魅力に多くのファンの支持がある

「東郷青児」

包装紙などのデザインで東郷青児の絵を見たことがある人も多いのではないでしょうか。東郷青児の絵はとても個性的です。美しい女性に色気が漂いつつもいやらしさがなく見る人の印象に残りやすい絵といえます。絵だけではなく魅力があるのは東郷青児本人にもありました。東郷青児に多くのファンがいる理由を詳しくご紹介していきます。

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東郷青児の華々しい家系と画家になるきっかけ

「薩摩藩英国留学生記念館 海際の石碑」

慶応元年(1865年)薩摩藩は、優秀な青少年15人と使節団4人の合計19人をイギリスに派遣します。彼らは、命がけの密航に臨み、学問や技術を習得しさまざまな分野で日本の近代化の大きく貢献していきました。その中の一人が東郷青児の祖父東郷愛之進です。その後、東郷愛之進は、明治元年(1868年)の戊辰戦争で亡くなります。

東郷青児の母は、薩摩藩士族河野某から東郷家に嫁いで三女を授かるのですが、夫に先立たれてしまいます。由緒ある東郷家の名跡が断たれてしまうことになるので、熊本県出身の石本鉄造を入夫にし、東郷の名跡を継いでもらいます。この二人の間に生まれたのが東郷青児です。

東郷青児が画家の道を歩んだきっかけは、彼の年の離れた3人の姉の中の長女いまの影響だそうです。姉のいまは、その頃には珍しい「マリア像」や「ミレーの晩鐘」などを描写して壁に飾っていたようです。

子供の頃から絵を描くのが好きだった東郷青児は、絵を見に行くことには興味がなかったそうですが、いまは、そんな弟をむりやり文展に連れて行ったり、三宅克巳(みやけこっき)の絵葉書を買ってくれたりしたそうです。

東郷青児とキリスト教の学校

「青山学院大学」

東郷青児が小学生の時は日露戦争後で軍人が多く、陸軍士官学校などが近所にあったこともあり、子供の大半が幼年の時期から士官学校コースに入ることを夢見ていた時代だったそうです。

東郷青児自身もその周りの雰囲気に押され士官学校に入る気分になっていたといいます。ところが、姉が反対しキリスト教の学校に進学することに決まります。母親の家系は、島津藩士の頃からクリスチャンで、キリスト教の本の中にもその名前がきざまれているほどだそうです。東郷青児いわく、「当然の方向に進んだと言えばそうなる」ことでした。

長女の姉が青山五丁目に住んでいたので、その近くにある青山学院に通うことになります。青山学院では、2時間目から礼拝、聖書の朗読、祈祷、賛美歌、英語の時間があったそうです。東郷青児が3年生になった頃、文部省認可中等学校になったため現役の陸軍中尉が教官に入ってくるようになります。

「汝、殺すべからず」の聖書の句を読み賛美歌を歌った後に、三八式の重い銃を肩にもって、代々木の練兵場で突撃の訓練をするという授業が、妙な感じだったと語っています。それでも、青山学院の図画教育は進んでいて、一年で石膏の木炭画を学び、上級生になると立体的な大きいものを描くという基礎教育を早い段階で身につけることが出来たといいます。

また、それまでは女生徒とかくれんぼをしたりしていたのに、上級生になると気取りが出てきて女生徒との境界線を踏み越えるというのは男子の恥のように感じたと言います。

後に美しい女性美を描く東郷青児の絵の基礎は、この学校からはじまっていたようです。

東郷青児はイケメンモテ男だった

18歳になった東郷青児は、伊豆大島へ行くことになります。一年間、毎日画架を持って島を歩きまわり絵を描きまくる生活を送り、お腹がすくといきあたりばったりの家に飛び込んでは、炉ばたで干し魚や芋を出してもらっていたそうです。

大島で「こんにゃく屋のおたま」に惚れて通いつめて思いがかなったと思ったら、おたまは沖仲士(船から陸への荷揚げ荷降ろしなどの荷役を行う港湾労働者)の兵太郎の彼女でしかも妊娠していて出産したからびっくりしたというエピソードが残されています。

その他には、村で唯一の芸者の千成に惚れられ、自称旦那の炭の仲買人から脅迫を受けたり、東郷青児の絵の具箱をかついで、いつもついて来る13のおうめのお腹が大きくなり出し、その疑いがかかり弁解をしてもなかなか信じてもらえず困ってしまったりしたようです。結局、おうめの相手は、日蓮宗の布教に来ていた坊主だったそうです。

そして、大島へ自殺する目的できた女子医専の生徒を山の湯場で助けたために、宿屋の自分の部屋に転がり込まれ、母屋の炉ばたで寝なければいけなくなったかと思うと、その女性に結婚を迫られ宿の払いも滞りだし、とうとう夜逃げを決行することになります。しかし、宿屋の女将に見つかり、逆におにぎりを3個もらって逃してもらったそうです。

東郷青児は後に「この伊豆大島での一年間は子供から大人になる私の第一歩で、この時期に大島のような素朴さの中で過ごせたことはありがたいことだった」と語っています。

今東光(こんとうこう)との出会い

今東光(こんとうこう)は、天台宗僧侶で小説家、参議院議員を務めた人物です。東郷青児と今東光は、少年時代からの友人でした。東郷青児が言うには、今東光も自分も美少年だったそうです。そんな今東光と毎日のように一緒に過ごしていたある日、年上で厚化粧をした不美人のお姉さんたちに連れられ芝居見物に行くことになったようです。

彼女たちは、美少年ふたりに当時高級で、金持ちしか買えなかった桐征(きりまさ)の下駄を買ってくれます。その下駄には似合わない久留米絣(くるめがすり)に、へこおび姿の東郷青児を見た警察官にあやしまれ、交番まで連行されたこともあったといいます。余談ですが、久留米絣の技法は、今では重要文化財に指定され伝統工芸品となっています。

東郷青児と今東光は、当時新進作家(今では著名人ばかり)がよく通う「カフェ・巴里」によく出かけていたそうです。当時、お金のない二人でしたが4、5人の女の店員さんがいつも歓迎してくれるのでよく通うようになったといいます。

昼も夜もそこで食事することがあったけれど、東郷青児はお勘定をしたことがなかったので、今東光がいつもお勘定をしてくれていると思っていたそうです。ところが、今東光もお勘定は東郷青児がしてくれていると思っていたといいます。そのことを知った二人は、狐につままれた気分だったと後に残しています。とにかく行く所々で女性にモテていたのは事実のようです。

東郷青児は、後に画家として有名になっていきます。そして、今まで以上に女性ならず男性からも東郷青児の絵と彼自身の魅力にファンの支持を集めていきます。

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