世界史

ジャンヌダルクは聖女?魔女?ナポレオンとの関係は?

2017-09-01

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ジャンヌ・ダルク。知らない人は居ないであろうこの有名すぎる名前ですが、「何をした人なの?」と問われると、「えーと・・・」と口を濁してしまうかもしれません。
世界史がそれほど得意ではない方が持つ「ジャンヌ・ダルク」のイメージとはどういったものでしょうか?
「ジャンヌ・ダルクは男装のかっこいい女の子」「神の予言で王様を救った人」「火あぶりにされた魔女」etc…
何しろ、彼女は短い人生の間に、イギリスとフランス歴史に深く関わり、聖女と魔女両方の称号を与えられ、神の使いとしてあがめられ、火刑に処されるというボリュームの多い人生を送りましたから、いざ説明しようとしても混乱して当たり前かもしれません。

ジャンヌ・ダルク伝説のはじまりを、簡単におさらいをしましょう。
夏のある日、庭に出たジャンヌ・ダルクは突然光に包まれました。そして「声」が聞こえたそうです。
13歳から16歳になるまで、ジャンヌ・ダルクはその「声」を通して、フランス国内の様子や皇太子シャルルに降りかかる困難を学んだのですが、ある日、その「声」はこう告げます。
「神はオルレアンを救うためにおまえを選んだ。町を救い、皇太子をランスで戴冠させ、フランスの正式なる王とせよ」と。

救国の乙女、ジャンヌ・ダルクは、そうしてフランスのために戦い始めたのです。

ジャンヌダルクのプロフィール帳

1412年にフランス東部にある小さなドンレミ村の農民の娘として誕生したジャンヌ・ダルクは、信仰心の強いただの少女でした。

彼女が暮らすのどかなフランスの農村部の外は、フランスがイギリスに飲み込まれようとする嵐の中にあったのですが、そんな出来事など知る由もないはずのジャンヌ・ダルクは、前述の「声」により、フランスが抱える問題を熟知していました。

大天使ミカエル、聖女カトリーヌ、マルグリットらの声に従い、1428年にフランス軍の守備隊長ボードリクールと面会します。最初は相手にもされなかったのですが、度重なる熱心な陳情に根負けする形で、皇太子の元にたどり着くための馬と護衛を手配しました。ジャンヌは男のような身なりをするため、髪を短く切り、服装も改めました。

その後、フランス皇太子シャルル7世との面会も果たしたジャンヌ・ダルクは、ここである奇跡を披露します。

1429年、謁見の間にて、シャルル7世は身なりを偽り、大広間に集まった大勢の臣下たちに紛れ込み、姿を隠しました。王座にいるのは偽者のシャルル7世です。

しかし、ジャンヌ・ダルクは大広間に入るやいなや、臣下の間に隠れた本物の皇太子の前に跪き、「国王陛下に神のご加護がありますように」と祈りを捧げたのです。

シャルル7世は、彼女が神の使いであると信じ、イギリスからランスを取り戻し、その地で戴冠式を挙げることを決意したのでした。

ジャンヌ・ダルクが率いた軍は、オルレアンを解放し、ランスを取り戻し、シャルル7世の戴冠式を叶えました。

しかし、1430年にイギリス軍にコンピエージュで捕縛されたジャンヌ・ダルクは、異端審問にかけられることとなります。

自分が神の使いであることを主張し続けた彼女でしたが、イギリスとしてはフランスの誇りである彼女を貶めることが目的であり、異端審問にて「有罪」とするために、ありとあらゆる過酷な方法で尋問にかけました。

そして1431年、「魔女」としてルーアンにて火あぶりとなり、焼死したのです。

1456年、火刑から25年後に、シャルル7世は恩人ジャンヌ・ダルクの有罪判決をひっくり返しました。

イギリスとフランスの策謀に飲み込まれる乙女

ジャンヌ・ダルクが登場するまで、フランス王家では何が起こっていたのでしょう。

イギリスとフランスは百年戦争を続けていたのですが、劣勢に立たされたフランスは国内を二分する内乱により、シャルル6世が死去した後も、皇太子シャルルは戴冠式を上げることができない状況にありました。

というのも、親戚筋のブルゴーニュ公がイギリスと組んで、皇太子を追放しようとしていたからです。

イギリス王はフランス王家の血を継いでいるので、フランスの正式な王位継承権を持っていると主張しており、羊毛生産が盛んで国庫を潤わせるフランス北部を領土に組み込みたいのと、イギリス側につくフランス貴族の策略が混ざり合って、延々と続く戦乱は終結地点を見出せずにいました。

そんな人間同士の欲望が入り混じった策謀の頭越しに、「神の声である」との一言で、ジャンヌ・ダルクはシャルル7世のフランス国王としての正当性を有無を言わさず宣言したのです。

イギリス本国のみならず、イギリスから利権を得ていたフランス国内の貴族、カトリックの宗教的な対立など、ジャンヌ・ダルクの想いが純粋で深いほど、そして何より彼女が「女性」であることが災いとなり、半ばフランスからイギリスに売り渡される形で捕縛されました。

ルーアン城に幽閉された彼女を、シャルル7世は救うどころか、ブルゴーニュ公とイギリス側との政治的取引材料に利用したのです。

すべて仕組まれた異端審問

ジャンヌ・ダルクが捕らえられたのは、コンピエーニュ包囲戦でのことでした。
退却しなければならない状況になると、勇敢なる彼女は自ら殿を買って出たのですが、城内に逃げ込む寸前、彼女の目の前で扉が閉じられたといいます。これが果たして何らかの陰謀によるものなのか、偶然なのかはわかりません。しかし、これで彼女は逃げ場を失い捕らえられることとなってしまったのです。

救国の英雄である彼女ほどの身柄ですから、本来なら身代金を払って引き渡してもらうのが当時のセオリーでした。しかし、シャルル7世はそれをしなかったのです。
そして、その身柄を引き取ったのが何とイングランドだったというのですから…。

もちろん、イングランド側にジャンヌを助けようなどという思いなどは毛頭ありませんでした。政治的に利用するためだと先に述べましたが、これは、ジャンヌを異端審問にかけて異端認定することで、その異端の力(=ジャンヌ)を借りて即位したシャルル7世には王位継承の権利などないということにしたかったわけです。

こうして哀れなジャンヌは異端審問にかけられました。
それはあまりにも彼女にとって不利なことばかりが押し付けられ、最初から有罪となるべく仕組まれたものだったのです。彼女には弁護士をつける権利すら与えられませんでした。しかも、裁判記録は改ざんされ、裁判に参加した聖職者にはイングランドが脅しをかけていたのです。

いくら勇敢なるフランスの誇りとはいっても、ジャンヌは農民の子。つまり、字を読むことができませんでした。
それにつけこんだイングランド側は、彼女の供述宣誓書をすり替え、彼女が自身の異端を認めたという内容の文書にしてしまったのです。

こうして、ジャンヌは理不尽にも異端と認定されたのでした。

徹底的に焼き尽くされた遺体

異端というものは、ただそれだけですぐに死刑になるわけではありませんでした。異端者が悔い改めた後に再び異端の罪を犯してはじめて、死刑に処せられることとなっていたのです。

当時、ジャンヌは異端とされた男装をやめて女装に戻していましたが、暴行を受けそうになったために男装に再び戻っていました。こんな、些細なことが異端とされ、死刑相当と判断されてしまったのです。

火あぶりに処せられた彼女に対して、イングランド側の仕打ちは残酷をきわめました。
生存説が出ないように、黒こげになった彼女の死体をさらし、灰になるまで焼き尽くした上でその灰をセーヌ川に流したというのです。

それでも彼女の生存説は根強く囁かれています。火あぶりになったのは身代わりであるとか、逃げ延びて貴族の妻となったとか…。確固たる証拠はありませんが、やはり彼女の生存を願う人々は少なくなかったようです。後に、偽造された遺骨まで登場したほどですから。
一方で、彼女がシャルル7世から見捨てられた後、彼女を助けようと奔走した人物もいたことは確かです。
彼女の戦友となり百年戦争で活躍したジル・ド・レもその一人。しかし彼の力ではそれが叶わず、ジャンヌを助けることはできませんでした。
失意のジル・ド・レは、精神を病んでしまったのか、それから奇行に走ります。錬金術や黒魔術などに手を出した上に、少年を大量に誘拐して虐殺してしまったのです。
「青ひげ」のモデルともされている彼は、その後、自らの罪を懺悔して絞首台へと送られました。そして、ジャンヌと同じように、死んだ後に火刑に処せられたのです。

ナポレオンに発掘された聖女ジャンヌダルク

1431年の魔女裁判で「魔女」との判決が下されたジャンヌダルクは、ルーアンで火あぶりとなりました。

それからまもなく、魔女取り消しの裁判が行われ、烙印は雪がれたものの、歴史の狭間に彼女の名前は消えていきました。

しかし、19世紀はじめ、にわかに「ジャンヌダルク」の名と業績が発掘されることとなりました。イギリスをはじめとするヨーロッパ連合軍との連戦に疲弊した世論を奮起させるため、そして自らの権力の正当性を裏打ちするため、「フランス王の名誉を守るため、神のお告げによりイギリスと戦った救国の聖女、ジャンヌダルク」を、フランス皇帝ナポレオン1世は担ぎ上げたのです。

彼女の献身的な愛と勇敢なる正義の戦いの物語は、フランスのみならず、世界中の人々から今もなお敬愛され、憧れの乙女として語り継がれています。

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