世界史

ライト兄弟の成功の秘訣。そして、空へとバトンをつないだ知られざる偉人たち

2017-09-01

関連キーワード

スタジオジブリの名作アニメ映画『魔女の宅急便』に登場するメガネの少年をご存知ですか?
空を往く大きな飛行船に憧れ、自転車の後ろに大きな自作プロペラを括り付け、海風吹く坂道を全力疾走して空を飛ぼうとした彼の名前は、トンボでした。

人間にとって、いつの時代も「空を飛ぶ」ことは夢であり続けました。
「鳥のように軽やかに、舞うように空を飛びたい」という人類の長年の夢が叶ったのは、1903年12月17日のことです。
その日、ライト兄弟は世界で初めての有人飛行に成功しました。

彼らが抱く夢は、お互いに共鳴しあい、どんどんと大きくなり、やがてその大きな夢が世界の姿を革新させていくのですが、その夢の始まりはというと、子どもの頃に父からもらった、小さなヘリコプターのおもちゃだったのです。

ウィルバーとオービルは超仲良し兄弟

牧師の家に生まれたライト兄弟は、父からもらったヘリコプターのおもちゃが大のお気に入りでした。

11歳の兄の名はウィルバー、7歳の弟の名はオービルといい、とても気の合う兄弟だったようです。

いつの時代の男の子もそうですが、この兄弟も同じように機械いじりが幼い頃から大好きでした。

やがて成長し、高校を中退した後、タウン誌を発行する会社に就職して、兄弟が同じ職場で働き出すほど、彼らの仲の良さは変わらなかったようです。仕事をしながら趣味と実用を兼ねて職場の印刷機など改良し、経験値を積んでいたのですが、ある日ライト兄弟は、「自転車」に深く興味を持つようになりました。そしてふたりで自転車屋を開業し、お互いに協力し合いながら自転車の設計や制作を生業としたのです。

ここまで仲の良い兄弟も珍しいかもしれません。

オットー・リリエンタールとライト兄弟の関係

ライト兄弟が自転車屋で設計とメンテナンスの経験を積んでいたころ、ドイツの発明家・オットー・リリエンタールは、大きな美しいグライダーを制作し、およそ2000回もの滑空飛行実験を繰り返していました。使用したグライダーは16機、しかし実験の最中に不幸にも墜落死してしまったのです。

「空を飛ぶ」という命がけの無謀な夢に、それまで命がけとは無縁の普通の自転車屋だったライト兄弟が導かれたのは、このリリエンタールの事故が発端だったと言われています。

ライト兄弟は、彼の遺した実験データを入手し、本業の自転車屋のかたわら、グライダーの翼の改良を始めました。

改良した翼にちゃんとした揚力と安定性が兼ね備えられているか、グライダーにロープをつけて、凧揚げの要領で風を受けて繰り返し飛ばしました。

実験のたびに蓄積されていくデータはきちんと分析を重ねて熟慮し、そこに数多くの写真を追記して客観的に検証を重ねて記録し、次の実験機への改良に生かされます。

そんな中、従来のやり方では改良の進捗に限界を感じたライト兄弟は、あらたな実験装置を作ることにしました。
「風洞」です。
四角い箱でトンネルをこしらえ、扇風機で風を送りこみ、そこにミニサイズの翼を組み込むことで、ベストな揚力とバランスを保つデザインの翼はどれか、繰り返し実験しました。

さらに、機体を操る技術にも着目しました。
飛行機の性能を引き出し、状況に応じてコントロールするための操縦士の大切さに着目し、グライダーに乗るだけではなく、「操縦桿」で動く昇降舵という小さな翼を機体の前方に、補助翼を左右の翼にセットし、さらに方向舵を機体の後ろにセットしました。この発明によって、操縦士の機体コントロール力が大幅に向上したのです。

さらにライト兄弟は、操縦士自身の熟練度をアップさせることも重要視していました。
およそ700回におよぶグライダー実験をこなすことで、飛行中に機体のコンディションが崩れても、熟練した操縦士の技術で安定性を補うことが可能でした。
揚力と安定性、機体コントロール技術と熟練した操縦士を得たライト兄弟は、さらに独自開発した2台のプロペラと小型エンジンを積み込み、念願のフライト実験に挑みました。

1度目は失敗し、実験機「フライヤー号」は破損してしまったのですが、修理を経て1903年12月17日に、12秒間の世界初有人飛行についに成功しました。

さらにライト兄弟はその2年後、改良機で30分ものフライトにも成功したのです。

鮮やかに離陸し、空高く弧を描くライト兄弟の飛行機は世界から注目されるようになりました。安定した開発が軌道に乗ってからは、飛行機会社を開業し、飛行機の販売が始まりました。どんな人間でも区別なく、空を舞うことが可能となったのです。

ライト兄弟の成功の秘訣とは

ふたりは結婚もせず、仕事に打ち込み続けたのですが、ウィルバーが45歳の若さで重い腸チフスのために亡くなってしまうと、ウィルバーを喪ったオービルもまた飛行機会社を辞め、77歳で亡くなるまでそっと余生をすごしたそうです。

データを蓄積することの大切さ、失敗したことで得られる教訓を無駄にしないこと、当時得られる飛行機に関する知識をどん欲に収集し、研究の糧にする情熱が、ライト兄弟にはありました。しかし、それだけでは情熱の継続は難しかったかもしれません。ライト兄弟は、お互いが「飛行機への夢」を増幅させる夢の結晶であり、理想であり、心から信頼できるバディであったのです。

『魔女の宅急便』で自転車を走らせるトンボの荷台には、笑顔で付き合うキキがいました。

夢とは、一緒に抱えてくれる人が信頼できるほど、大きく強くなるのかもしれません。

ライト兄弟より前に空を飛んだ男たち!!

 1903年12月17日、一組の兄弟がその名を歴史に刻みました。二人の名はウィルバーとオーヴィル。人間が空を飛ぶなど夢物語、と言われることもありましたが、試行錯誤と兄弟の諦めない心がこの人類未踏の快挙につながったのです…といったように、ライト兄弟の飛行実験は歴史の美しい1ページとして描かれ、ライト兄弟は「初めて空を飛んだ人間」といったイメージで、日本においても道徳の教科書や伝記ものの常連となりました。

 しかし、悲しいかな、現実の世界では、かくも美しく純粋なサクセスストーリーはなかなか起こりません。ことに「世界初?」といった類はとりわけやっかい。テレビCMを見てください。「世界初~」と書いてある文字の横には必ず「*」マークがつき、ちっちゃ~な字で注釈がついていることに気づくでしょう。「世界初~」を主張することはそれだけ難しくやっかいなのです。

 というわけで、ライト兄弟の「世界初」もご多分にもれず注釈がついています。ライト兄弟について、大人向けの(夢のない)百科事典や学問的な書物で調べると、多くは次のように留保をつけているはずです。いわく、ライト兄弟は世界初の、「有人」「動力」飛行であると。

 つまりは、初めて「無人」飛行をした人や、初めて「有人無動力」飛行をした人がいるのです。しかし、彼らはライト兄弟の栄光の陰に隠れてしまっています。そこで、このような航空史の画期を築き、ライト兄弟へバトンをつないだ人々を紹介します。ライト兄弟と一緒に、彼らのことも忘れないであげてください。

1. 気球にのってどこまでも モンゴルフィエ兄弟

 1783年、フランスのモンゴルフィエ兄弟は、世界初の「有人飛行」を達成しました。

 兄のジョセフ(1740-1810)、ジャック(1744-1799)のモンゴルフィエ兄弟は、はフランス東南部のリヨン近くのアノネーで製紙業を営む家に生まれました。彼らはまず紙袋に空気より軽い気体(のちにモンゴルフィエ・ガスとよばれた)を入れて飛ばす「煙袋」の実験に成功し、しだいに袋をスケールアップしていき、1783年7月に気球の公開実験を行いました。実験は成功し、続いて同年9月にはルイ16世をはじめとする貴賓が集まるなか、ベルサイユ宮殿でも公開実験を行いました。このとき、気球にはヒツジやアヒルなど動物が乗っていましたが、無事着陸しています。この成功で兄弟はルイ16世から勲章をもらっています。

 兄弟の次の挑戦は気球による有人飛行でした。最初に気球に乗って有人飛行をしたのは、弟のジャックでした。しかし、これは係留した状態でした。係留を外した状態での飛行は1783年11月のことで、ピエール・ロジェとダルラント公爵という人物が乗り込みました。この飛行は25分にわたり、フランス中の話題になりました。

 なお、モンゴルフィエ兄弟の作った気球は「熱気球」とよばれるものでしたが、彼らに平行してフランス科学院の委託により、ロベール兄弟や「シャルルの法則」で知られるジャック・シャルルが水素気球の発明に挑み、有人飛行に成功しています。

2.飛んでないけど「航空学の父」ジョージ・ケイリー

 サー・ジョージ・ケイリー(1773-1857)は空を飛んでいませんが「航空学の父」(the father of aviation)として知られています。

 彼の功績は、近代的な航空機のモデルを提示したことでした。「固定翼」という考えも彼が広めたものでした。今でこそ翼が固定されているのは当たり前ですが、よく考えてみると、空を飛ぼうと思ったら鳥の真似をして羽をパタつかせてみようと思うのが自然ですし、実際、歴史上には「鳥人間」を目指して命を落とした人々が多くいます。ケイリーが現れるまで「固定翼」という考えが定着しなかったことは、それほど不思議ではないのです。

 彼は翼に働く推力や揚力といった力の働きを理解し、それをもとに模型を作っては実験を繰り返すなど、空を飛ぶことに科学的アプローチで挑んだ最初の人物でした。彼の航空史における影響力は大きく、ライト兄弟もその偉大さを讃えています。

3. ライト兄弟に勇気を与えた男 オットー・リリエンタール

 「不可能」と言われた飛行に挑むライト兄弟にとって、勇気を与えてくれる存在であったのが、ドイツのオットー・リリエンタール(1848-1896)でした。リリエンタールは「グライダー王」とよばれ、グライダーによる飛行を追求しました。彼は飛行のモデルとして鳥の飛行メカニズムを研究し、1889年に『飛行の基礎としての鳥の飛行』(原題:Der Vogelflug als Grundlage der Fliegekunst )を出版しています。

 彼の主な業績は空気よりも重い(heavier-than-air)グライダーによって空を飛び、さらに体の重心を移動することによる操縦を実現したことでした。

 オットー・リリエンタールは飛行実験を重ね、着々とデータを集め、飛行距離を伸ばしていきました。そして、1893年には250メートルという飛行距離記録を残しました。リリエンタールについて特筆されるのは、彼の飛行の様子が写真に撮られ、広く人々の目に触れたことでしょう。「人間が空を飛ぶ」という夢物語を現実のものとしてリリエンタールが人々に示したことは、停滞気味だった19世紀後半の航空史に勢いを与え、オーストラリアのローレンス・ハーグレイヴ、そしてライト兄弟に影響を与えました。
 オットー・リリエンタールはその生涯の最後までグライダーを背に空を飛び続け、1896年、飛行実験に失敗した翌日、その怪我がもとで亡くなりました。しかし、写真に記録された彼の勇姿は、ライト兄弟にも勇気を与えました。『ライト兄弟と初期の飛行』(原題:Early flying machines 1799-1909)の著者であるC.H.Sギブス-スミスは、リリエンタールを「まさしく空を飛ぶことができた最初の人」と評しています。

 ちなみに、飛行実験には弟のグスタフ(1849-1933)も協力していましたが、ライト兄弟のようにリリエンタール兄弟として総称されることは少なく、オットー・リリエンタール一人の名前が有名になっています。

番外編 世界で初めて飛行機事故を起こした男

 「世界で初めて飛行機事故を起こした男」という不名誉な「世界初」の称号を手にした人物をご存知でしょうか。皆さんご存知のあの人物ですよ。

 答えはオーヴィル・ライト。そう、ライト兄弟の弟さんです。事件が起こったのは1908年9月17日。テスト飛行のために、オーヴィルはトマス・セルフリッジ中尉と飛行機に乗り、大勢の群衆が見つめるなか二人は空に飛び立ちました。飛行中、機体から異音がすることに気づいたオーヴィルはエンジンを止め、着陸を試みます。しかし、機体はコントロールを失ってそのまま墜落、オーヴィルは怪我を負い、同乗していたセルフリッジは亡くなりました。

 なお、この事故に関して、フランスにいた兄のウィルバーはショックを受け、セルフリッジの死に責任を感じていたことが、彼の手紙から伺えます。

ライト兄弟だけじゃない【歴史を変えた兄弟たち】世界初の映像作家兄弟や、アディダスVSプーマ兄弟も

 歴史の舞台には様々な兄弟・姉妹が登場しました。

とりわけ有名な一組が、兄ウィルバーと弟オーヴィルのライト兄弟Wright Brothers。1903年、ライト兄弟は、ライトフライヤー号を飛行させ、世界初の「空気より重い気体での有人動力飛行」を成し遂げました。(ちなみにこの時、舵を握っていたのは弟のオーヴィルでした。)

ライト兄弟の成功に代表されるように、血の繋がった兄弟、姉妹は、余人には及ばぬ団結によって歴史的な偉業を成し遂げることもあれば、兄弟喧嘩のような軋轢として、歴史の巻物に残ることもあります。

歴史に登場する兄弟劇を紐解いていきましょう。

リュミエール兄弟

 ライト兄弟と同じく、兄弟の力を合わせて発明に成功したフランスの兄弟がいます。

フランス東部ブザンソンの町で、肖像画家のかたわら写真館を経営していた父アントワーヌのもと、兄オーギュスト(1862-1954)と弟ルイ(1864-1948)は育ちました。リュミエール兄弟は父の写真業を手伝う中で、知識を蓄えます。契機となったのは、1894年にパリにやってきた、キネトスコープでした。キネトスコープはエジソンや、彼の部下のウィリアム・ディクソンが発明した動画装置で、覗き穴(peephole)を通して見る仕組みでした。

 覗き穴で見るために、一度に一人しか楽しめない、という欠点を解決するべく立ち上がったのがリュミエール兄弟。リュミエール兄弟は、キネトスコープの映像をスクリーンに投影できるように改良します。さらにリュミエール兄弟は1分未満の短い映画を作成し、1895年、パリのグランカフェ「インドの間」において上映会を催します。上映会で披露されたうちの一本、リヨンの労働者を記録した46秒の『工場の出口』は世界初の映画といわれ、『ラ・シオタ駅への列車の到着』と題された動く列車の映像は、当時の人々の度肝を抜きました。

リュミエール兄弟は現在では、発明家としてのみならず、世界初の映像作家としても知られています。

ブロンテ姉妹

 姉妹も歴史に名を残しています。『ジェーン・エア』のシャーロット(1816-1855)、『嵐が丘』のエミリー(1818-1848)、『ワイルドフェルホールの住人』のアン(1820-1849)と、それぞれが英文学史に残る作品を残したブロンテ姉妹、彼女らの成功の起源は幼少期にあります。

 ブロンテ姉妹は、『嵐が丘』に登場するような、周りにヒースの生い茂るウェスト・ヨークシャーの牧師の家に生まれました。
姉妹は、ヒースに囲まれた田舎町の無聊を、持ち前の想像力で無限の物語へと変えていきました。そして姉妹の想像力の種となったのが、兄ブロンウェルの持っていた12の木でできた兵隊の人形です。姉妹は、この人形をモチーフにした物語を作り上げ、お互いに読み合って楽しんでいたのです。しかし、姉妹の幼少期は楽しい思い出ばかりでなく、姉妹を結核で亡くし、ブロンテ一家には常に死の影がつきまといました。

 一番に文名を挙げたのはシャーロットでした。
1847年に「カラー・ベル」なる作家によって出版された『ジェーン・エア』は一躍ベストセラーとなります。「カラー・ベル」はもちろん、シャーロット・ブロンテの偽名。偽名はじきにばれ、女性作家シャーロットの名は語り草となりました。アンの『ワイルドフェルホールの住人』も出版後に話題を呼びました。エミリーの『嵐が丘』は、生前の評価こそ芳しくありませんでしたが、現在では十指の入る英文学作品となっています。

 姉妹は、三人とも結核で早くに亡くなっています。様々な疫病の蔓延していた当時、30代で亡くなることは珍しいことではありませんでしたが、姉妹がもっと長生きして、多くの作品を残していたら、と思わずにはいられません。

ダスラー兄弟

 兄弟喧嘩が歴史を変えることもあります。
兄ルドルフ(1898-1974)、弟アドルフ(1900-1978)は、ドイツ南部ヘルツォーゲンアウラハに、靴屋の息子として生まれました。二人は靴屋の家業を継いで、1924年に「ダスラー兄弟製靴工場」を起業します。
彼らの靴はオリンピックでも使われるなど、会社は順調でしたが、ヒトラーの台頭で二人はナチスに入党し、第二次世界大戦の勃発によって徴兵されて戦地に赴きました。戦後もナチス問題などで兄弟は揉めます。こうして戦火が兄弟の仲を裂き、1948年に兄ルドルフは「プーマ」を設立、一方の弟アドルフは、自身の愛称「アディ」Adi Dasslerをもとに「アディダス」を設立しました。

 会社分裂後も兄弟喧嘩はヒートアップ。両者の経営が子供の代にわたってもなお、抗争は続きます。二社はスター選手との契約をめぐり争いを繰り広げ、プーマがペレを、アディダスはベッケンバウアーを、と熾烈な争奪戦を繰り広げました。

 こうした争い意識のなかで成長を続け、世界的な起業となったプーマとアディダスですが、現在では両企業ともダスラー家とのつながりは切れ、兄弟喧嘩の幕は閉じました。

 この兄弟喧嘩は『アディダスVSプーマ もうひとつの代理戦争』(バーバラ・スミット著、宮本俊夫訳 ランダムハウス講談社)に詳しく書かれています。

【おまけ】マリオ&ルイージ

最後にゲームの歴史から一組の兄弟を紹介します。
その名もご存知、赤い帽子がトレードマークのマリオ、緑の帽子がトレードマークのルイージです。
 しばしマリオの履歴書を覗いてみましょう。

1981年 アーケードゲームの傑作『ドンキーコング』に登場。
1983年『マリオブラザーズ』において初めて「マリオ」の名を名乗る。
1985年『スーパーマリオブラザーズ』のヒット。任天堂のスターとなる。
~現在 任天堂の看板として、本職の配管工のかたわら、様々な作品に出演。

 なんとも輝かしい経歴の持ち主であるマリオ。一方のルイージはどうでしょうか。

1983年 『マリオブラザーズ』に登場。緑の帽子でマリオと区別された。しかし、帽子以外は瓜二つであり、マリオの双子の弟という設定。
1985年 『スーパーマリオブラザーズ』に登場する。
1987年 『スーパーマリオブラザーズ2』に登場。ジャンプ力や滑りやすさなど において、マリオとの差別化。
2001年 兄マリオの後塵を拝する不遇の時代を経て、『ルイージマンション』に おいて初の主役の座を得る。
~現在 様々な作品に登場するが、やはりマリオの二番手のイメージ」に苦戦中。

 ルイージはマリオと「双子」であったことに驚かれることも多いはず。
昔のゲームの解像度では、マリオとルイージはそっくりにならざるを得なかった、という事情もあるでしょうか。
今では、ルイージはのっぽで臆病といった個性をもったキャラクターに成長しました。

お兄ちゃんに良いところを持っていかれるルイージ、これも良くある兄弟像でしょうか。

    ▲ページトップ