世界史

奴隷はなぜ黒人が選ばれた?大航海時代の裏側

2017-09-01

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私たち現代人のイメージする「奴隷」というと、アメリカの南北戦争時代を描いた映画などで目にする黒人奴隷が多いかも知れないのですが、実は奴隷の歴史というのはとても長いということをご存知ですか?

紀元前2000年ごろ、シュメール文明の記録の一部に、奴隷に関するものが残っていました。

古代の奴隷は白人がメインだったそうです。

奴隷というのは、重罪人だったり、借金の代わりに無償奉仕を言い渡された人であったり、隣国との戦いに敗れ捕虜になった敵国の人間だったり、文化が違うゆえに言葉が通じない者を捕らえたりなど、肌や国籍問わず、当時勢いのあった強大国の周辺地域からかき集めたり、自国民から身分を剥奪したもので形成されていたのです。

紀元前2世紀のローマは、人口増加にともない食料を増産する必要があったため、ローマ市民の人口の数十倍もの奴隷を囲い、その奴隷たちを食糧生産のための農業や牧畜に従事させていました。

使い勝手の良い労働の担い手である奴隷は常に不足状態でしたから、周辺地域や敵対する国からかき集められた奴隷だけでは賄いきれず、ヨーロッパからアラブ地域やアフリカ大陸地中海沿岸の地域からも集められるようになりました。

15世紀ごろになると、東西の交流から航海術が磨き上げられ、地中海沿岸の船乗りたちが巨万の富を求め、大きな船を建造して東へと貿易の旅に出ることがブームとなります。

その船を漕ぐのは、もちろん奴隷でした。

海を越えての商売を支えるために無報酬の奴隷を船底に詰め込み、ガレー船のオールを持たせ、目的とする貿易港にたどり着くまで、劣悪な環境の中で延々とオールを漕がせるのです。

船底に作られた粗末な座席に鎖で括り付けられた漕ぎ手の奴隷は「シュレム」と呼ばれていました。

ジェノバなど世界的貿易港にて、食糧や燃料などとともに奴隷市場で調達された奴隷を継ぎ足しながら、航路を進んでいきます。

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熱帯の気候に強い黒人が奴隷として人気に

やがて大航海時代の延長上にある植民地時代がやってきました。

船乗りたちは実入りのいい土地や航海の拠点として便利な土地を占領し、ヨーロッパという一大消費地域でウケのいい商品を大量生産し、貿易船に載せて運びこみ、巨万の富を得ようとします。

王侯貴族や特権階級と結びつくことで、貿易興隆の後ろ盾を得た植民地支配者たちは、ヨーロッパでは生産できない植物を、赤道に近い新大陸アメリカの土地や島々に持っていき、奴隷も一緒に運び込んで生産拠点をあちこちに作りました。

サトウキビやコーヒー、カカオ豆、綿花といったプランテーションを支える奴隷たちは、しかし熱帯の未知の病にかかったり、これまで経験したことのない気温の高さや湿度に肉体が耐え切れず、次々に死亡していきました。

そこで植民地支配者たちが目をつけたのが、黒人奴隷の熱帯環境適応能力でした。

オランダ人、イギリス人、フランス人のプランテーション主は、大量の黒人奴隷をオーダーしました。

地中海に程近いアフリカ大陸のセネガル、モーリタニア、ギニア湾などに住む黒人がかき集められ、アメリカ側に大量に運ばれて行ったのです。

奴隷商人とはどんな仕事内容だった?

ヨーロッパ、アメリカ、アフリカの三点を結び、アフリカで購入した黒人奴隷をアメリカで売りさばき、プランテーションの大量生産品をヨーロッパに持ち込んで売りさばき、その売上の一部で黒人奴隷を買い・・・という大西洋奴隷売買基本ルートは何世紀にも及び隆盛しました。

時には金銭を介さず、農産物一山につき、奴隷一山、といった物々交換もあったそうです。

17世紀から19世紀において、奴隷売買の感覚とはその程度のものに過ぎず、奴隷商人も「荒くれ野蛮人」といったイメージをもたれがちですが、どちらかというと一般的な商人と変わらない身なりだったと、当時描かれた絵画からも推測できます。

アニメ『ピノキオ』にて、ピノキオら悪ガキたちをロバにして売り払う「コーチマン」のような外見だったのではないかとイメージできるかもしれません。

当時の感覚としては、ビジネスの一環として奴隷売買を行っていたに過ぎなかったのではないでしょうか。

奴隷制度は廃止への道と今も続く人種差別

1771年、ロンドンにて「ジェームス・サマーセット」と名づけられた奴隷が逃亡しました、彼は奴隷廃止主義者の助力により裁判にて勝訴し、法によって奴隷から解放されました。 この判例を皮切りに、ヨーロッパにて奴隷制度廃止の風が吹きました。 ヨーロッパの世論に押し出されるかたちで、1784年にイギリス植民地にて奴隷制度が緩和され、1803年にデンマークの奴隷売買が廃止となり、1815年のウィーン条約に「奴隷売買の国際的禁止に関する原則」が明記されるようになると、あれほど隆盛を極めていた奴隷制度は1860年にはヨーロッパではほどなく消滅したのです。

1948年パリにて、「何人も、奴隷制度や隷従の犠牲になってはならない。奴隷制度と奴隷売買は、いかなる形態であれ禁止する」という世界人権宣言第4条が採択されました。

しかし、奴隷制度は、私たち世界中の人々の心になお禍根を残しています。

それは「生まれながらにして決まった、人間同士の人種的優劣」という誤解です。

人間が他の人間を、肌の色や出自だけで「劣っている」と決めてつけてしまう、そんな刷り込みと、今を生きる私たちはなお戦い続けなければいけません。

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